1◆



 緊張で、揺光/倉本智香の胸は大きく鼓動していた。
 男も女も骨太であるべきという哲学を倉本智香は持っていて、またスポーツ観戦が趣味でもある。
 しかし基本的には読書好きで、学校でも図書委員を務めるほどだ。だから身体を動かすスポーツは専門じゃない。
 人並み程度の運動神経はあるつもりだし、健康だって保ってきたつもりだけど、決して得意ではない。
 ましてや、野球の経験はなかった。



 けれど泣き言を口にしない。
 要するに、前に進む為には試合に勝てばいいだけの話だ。
 憧れのドサコンデ札幌だってどんな強敵が相手でも、挫けずに戦い続けた。そんなドサコンデ札幌のことを倉本家は応援していたはずだ。
 ミーナ曰く、この野球ゲームに負けたらネオデンノーズのみんながデウエスに取り込まれてしまうらしい。つまり、敗北と死はイコールだ。
 怖いと聞かれたら、否定できない。野球で人が死ぬと言われても実感が湧かない。



 でも、揺光は『死の恐怖』を振り払った。
 HPが0になったら死ぬように、野球で負けたらリアルの倉本智香もまた死ぬ……デスゲームの一環であることに変わりはない。
 それに今回は揺光だけではない。モーフィアス達みんなの命が賭けられている。もしも、揺光が『死の恐怖』に縛られて、何か致命的なミスをしては……みんなの死に繋がりかねない。

(体には鍛錬、心には読書…………負けてたまるか!)

 だから己を鼓舞して、揺光はボールを待つ。
 敵は9人もいるけど、頼れる仲間だってたくさんいる。
 モーフィアス。
 ガッツマン。
 ミーナ。
 アーチャー。
 ライダー。
 あとは…………

「……おい! 僕のライダーが一緒にいるからには、絶対にヘマをしたりなんかするなよ!」

 …………ライトから、少年の叫び声が聞こえてくる。
 アーチャーと一緒に現れた彼は、ゲームチャンプを自称する間桐慎二だ。

「それは僕の台詞ですよ、ゲームチャンプ(笑)さん!
 あなたみたいな人がここぞという時に失敗して、そして全てを台無しにするのですよ! もっとも、それこそ僕が望んでいるのですけど……今はそんな余裕はありません。
 精々、足を引っ張らないでくださいね!」

 慎二に怒鳴り返しているのは、ダスク・テイカーという闇色のアバター。
 サードに立っている彼は、慎二に匹敵する声量で怒鳴り返した。

「はぁ? この僕が足を引っ張るだって? どうして君なんかが、そんなことを言うのかなぁ?
 僕のライダーを使っておきながら、まともに戦果を残せていない……僕はそんな君が哀れすぎて、いつミスをしないかヒヤヒヤしているくらいだよ!」
「ふっ。哀れなのはあなたじゃありませんか?
 見た所、随分と貧相なアバターしか持たないあなたがスポーツに駆り出されるなんて……転んで大泣きしないか心配になりますよ!」
「君の方こそ、両手にヘンチクリンな道具なんか付けて大丈夫なのかい?
 スポーツは軽やかな動きが求められるものさ! どう見たって、君のそれは野球には向いていないと思うけどねぇ!」
「おやおや、あなたみたいに大した武器を持たない方など、戦場では真っ先に殺されてしまうのが道理ですよ!?」
「武器だぁ? 僕にそんなものは必要ない! 何故なら、あまたのゲームをクリアしてきた手腕と頭脳こそが、僕が誇る最大の切り札だからさ!」

 数メートルも距離が離れているにも関わらず、彼らは口論をしていた。 
 詳しい事情は知らないが、どうやら海賊風の衣装を纏った女性……ライダーを巡って争っているように思える。
 三角関係か? 興味はなくもないけど、今はそれを詮索している場合じゃない。



 ある意味で、ナイトメアーズ以上に恐ろしいのがここにいるバカ二人だ。
 手柄の取り合いになって独走して、それが原因で他のみんなに迷惑がかかってしまったら、デウエスに付け入られてしまう。
 自分の力をアピールする気概は理解できるし、その為に努力するオトコは嫌いじゃない。揺光だって宮皇を目指して力を付けてきた。
 だけど、チームを組んで何かをするからには、周囲の和を乱してはいけない。バカ二人はそれを忘れて、協調性のない戦法を取るはずだ。

「アンタら、喧嘩だったら後にしろ! 今は勝つことだけを考えろよ!」

 揺光は怒鳴る。しかしバカ二人は聞く耳を持たず、未だに火花を散らせていた。
 ピキリ、と青筋が浮かび上がる。最後の裏切り、という名の双剣を振るいたくなった。その名の通り、バカ二人を裏切って両断したくなる衝動に駆られるが……今は堪える。



 気を取り直して、ピッチャーであるネオの方に振り向いた。
 彼が投げる剛速球をデウエスは捉えきれず、バットは空振りに終わる。バシン! という豪快な音が、ガッツマンのグローブから響き渡った。
 へぇ、と揺光は感嘆する。モーフィアスが追い求めた救世主と呼ばれるだけのことはあった。
 彼のことはよく知らないけど、実際に只者ではない雰囲気が感じられる。あのモーフィアスが認めているのだから、それだけの修練を積んできたはずだ。


 あと一球だけ決めれば攻守交替だ。
 今は8回の表。スコアは2-4で、ナイトメアーズの有利だ。
 天才的な技量を誇るナイトメアーズに対して点数を稼げたのは、ネオ・デンノーズが優れた能力を誇っているからだ。
 バカ二人だって争ってはいるものの、決して半端ものではない。慎二は頼りないが、それをアーチャーが上手くカバーしている。テイカーも一見すると重々しいが、補助するようにライダーが立ち回っている。
 場を弁えずに喧嘩するようなバカ達だけど、ただのバカではなかった。苛立つことに変わりはないけど。



 ネオの剛速球が放たれる。
 普通の人間ならば、とても捉えられないようなストレート。しかし、デウエスの一閃によってボールは弾かれた。

「高い!?」

 凄まじい勢いで空の彼方に飛び去ろうとする。揺光は待ち構えるも、外野フェンスを飛び越えかねなかった。
 デウエスは本塁に向かって走る。その数は二人だから、ここで点を取られたら離されてしまう。
 跳躍を可能とするモーフィアスとテイカー、そしてライダーやアーチャーは距離がある。だから、頼りになるのは外野手の三人だけだが……テイカー達ほどのジャンプは不可能だ。

(ヤバい、このままだとホームランだ……!)
「させないよっ!」

 揺光の耳に叫び声が響くと同時に、空が薄暗くなる。
 反射的に顔を上げた途端、揺光は瞠目した。なんと、空の彼方より巨大な軍艦が姿を現していたからだ。
 ゴールデンハインド。フランシス・ドレイクが誇る愛船が、野球場の空を覆っていた。その船首には、あのライダーがしたり顔で構えている。

「なっ……どうなっているんだよ……!?」
「おい、ライダー! お前、なんでこんな所で宝具なんか使うんだよ!」

 事情を知っているであろう慎二が、威風堂々としたライダーに叫ぶ。

「おいおいシンジィ……アタシはチームの為に宝具を使ってやったんだよ?
 こんな球が遠くに飛んだら、その時点でアタシ達はお陀仏だ。だったら、出し惜しみなんてしていられないだろ?」

 一方で当のライダーは、その手でボールを掴んでいた。
 そのまま放り投げた野球ボールは、ネオによってキャッチされる。彼はそれほど驚いていないようだった。



 揺光は息を飲む。
 詳しいことは知らないが、あの巨大戦艦はライダーの力で現れた代物だろう。ホームランを阻止する為に宝具を召喚して、より高い位置に立ったライダーがボールを掴む……シンプルだが、あまりにも出鱈目な戦法だ。
 こんな規模の道具は『The World』でも滅多に見られない。ボスモンスターすらも凌駕するサイズの乗り物なんてある訳がなかった。
 よく見ると、ライダーの戦艦には大量の砲台が備わっている。あそこから砲弾が放たれたら、この野球場など一溜りもないだろう。

「命拾いしましたね、皆さん!
 僕がライダーに命令していなければ、今頃相手に点を取られていたはずですから!
 ああ、安心してくださいね! 皆さんを打ち落とそうなんて微塵も考えていませんよ? 
 どうやらナイトメアーズには攻撃的な妨害は不可能ですし、この野球場からの脱出も宝具だけでは不可能です。だから、今だけは皆様の力になってあげますよ……今だけは、ね」

 そしてライダーの隣には、いつの間にかダスク・テイカーが君臨していた。

「これでわかったでしょう、ゲームチャンプ(笑)さん! あなたがライダーと共にいても、宝の持ち腐れに過ぎないってことを!」

 二人を見て、慎二は悔しそうに拳を握り締めている。本当なら、そこにいるのは自分だと言いたそうに見えた。


 テイカーの口ぶりから考えて、やはりこのデスゲームに乗っているのだろう。カオルに何の躊躇いもなく狙撃したのが証拠だ。
 ライダーも今だけは協力しているようだが、野球ゲームがなければテイカーと共に暴れまわるはずだ。
 黙ってやられるつもりはないけど、これだけの火力に立ち向かう程のスキルを揺光は持たない。ネオやアーチャーならば別だろうが、彼らの範囲を前に無傷でいられるかどうか。


 戦慄する揺光の耳に、アウトの宣言が響き渡る。
 攻守交替。8回の裏に突入だ。




     2◆◆



「――やはり、ヤツらが投げる球の速度は徐々に上がってきているな」

 打線に入る直前、ベンチにてモーフィアスはそう呟く。
 ネオもそんな気配を感じ取っていた。デウエス達の能力は、この短時間で確実に上昇している。
 救世主としての力を得たネオに追いつこうとしていた。

「私達が点を入れる度に、少しずつだが……勢いが増してきている。ゲーム開始当初より、確実にボールを投げる力が上がっているはずだ」
「それは、まさか後付けで筋力が上回った、ということですか?」
「奴らはこのゲームにおける神の位置に立っている。俺達の戦法に合わせて、いくらでも対応できるはずだろう。
 流石に野球本来のルールを捻じ曲げたりはできないが、ステータスの改竄ならば……容易いはずだ」

 ミーナの疑問に、モーフィアスは淡々と答える。
 周りは皆、深刻な面持ちで聞いていた。テイカーは表情を伺えないが、反応は同じのはず。
 野球といえど、自分の命が賭けられた状況であるのだから。



 デウエス達の走力と肩力は、一回戦から徐々に増している。
 試合中に成長したのではなく、GMによってステータスを上昇させる権限を与えられているはずだ。
 現実で例えるなら、薬物を頼ったドーピングに等しい卑劣な行為だが、こちらに糾弾する手段などない。証拠が存在しないからだ。


 この野球ボールにおいて、明確に定められたルールがが3つ存在する。
 野球ボールの破壊及び攻撃的接触は不可能。
 ナイトメアーズに対する直接的な攻撃は不可能。
 この場から脱出するには、野球ゲームに勝利しなければならない。強制的な脱出は不可能。


 以上の三つだけ。
 直接的な攻撃は不可能とは、乱闘防止だろう。デウエス以上のステータスを誇る存在が相手となったら、実力を持って強制的に敗北する事態になる。
 また救世主の力などで野球ボールが接触できないのも、システム外の力でボールの軌道が変えられるのを防止する為だ。
 既にこの野球スタジアムは、一種の巨大な檻になっている。脱出するには、野球のルールに従って勝利をしなければならない。


 だが、そう簡単にはいかなかった。
 個々の能力が優れているといっても、それは戦闘での話。野球に関する経験は、ミーナ以外は皆無。
 そして慎二及びテイカーは敵対関係にあり、いつ同盟が崩壊してもおかしくない状態だ。大きな火種が残っている現状で、ゲームを長引かせるのは得策ではない。
 決着を急がなければならなかった。

「君達、この回で決めるぞ……無意味に戦いを長引かせては、その分だけ私達が不利になるだけだ」
「まあ、それが妥当でしょうね。僕としてもこんなお遊びはさっさと終わらせて、早いところ邪魔な方を片付けたい所ですからね」
「…………ダスク・テイカー、君とライダーはもうあの戦艦は呼び出したりするな」
「何故です? 僕達がネオ・デンノーズを裏切るとでも? あるいは、僕達のMPを心配しているのでしょうか?」
「それもあるな。あれだけの規模の召喚となれば、それに伴う消耗も激しいだろう……
 だが、もう一つある。もしかしたら、ナイトメアーズは例の戦艦の攻略法も練っているはずだ。あれが通用したのは、一度きりと考えてくれ」
「あなたの意見には利がありますが、では次に守備に回る時はどうするのです。ホームランを打たれないとでも、考えているのですか?」
「……それに関しては、一つだけ方法がある。たった一度しかできず、しかもヤツらに知られてはいけないプランだ」
「?」

 モーフィアスの言葉に、テイカーは首を傾げる。
 あまりにも曖昧だが、モーフィアスが思案した以上は逆転の可能性がある切り札だ。ネオとしては大いに信用したいが、周りは素直に頷いていない。
 特に慎二は不信を抱いているようだった。

「なぁ、オッサン……この状況でそれはあんまりじゃないかい? とっておきを隠す気持ちはわかるけど、よくわからないモノに縋りたくないんだけど?」
「慎二、彼にも何か考えがあってのことだ。深く詮索しない方が、勝率は上げられると思うが?」
「そりゃあ、そうだけどさ……」

 アーチャーのフォローに頷いているが、やはり納得できないようだ。
 そんな慎二に、モーフィアスは「すまない」と謝罪する。

「……ヤツらも必死になるはずだ。敗北を防ぐ為ならば、どんな手だろうと使うだろう。
 だが、それを打ち破るには……ミーナとガッツマン、そして揺光の装備が必要不可欠だ。ナイトメアーズが力を付けるというなら、私達もそれに追いつくだけだ」

 ナイトメアーズに追いつく。それはつまり、ネオ・デンノーズのステータスを向上させるということだ。
 そして幸いにも、その為の手段がこちらにはある。ミーナ、ガッツマン、揺光の三人はステータス補助系統のアイテムを所持しているからだ。


 モーフィアスに言われるまま、三人はウインドウを展開させる。
 三人は補助アイテムを取り出す中、モーフィアスはウインドウを覗き込んだ。

「ガッツマン……君からもう一つだけ、このアイテムを借りたい」
「別にいいでガスけど……能力アップにならないでガッツ! 確かに"貴重"でガスけれど」
「万が一の備えだ」

 そう答えて、モーフィアスは二人から新たにアイテムを受け取る。
 野球はまた新たな局面に突入しようとしている。デウエスが真に"神"と君臨する為、ネオ・デンノーズは生贄となってしまうのか、あるいは"神"になろうとする深層意識の驕りを打ち砕くのか。
 決着の時まで、遠くなかった。



     3◆◆◆



 パキン! という軽やかな衝突音と共に、野球ボールが飛んでいく。バットを一戦させたのはダスク・テイカーで、意外にも遠くまで飛んだ。
 そのまま彼はファーストまで走り、セカンドにはネオが立っている。彼らの脚力ならばもう少し進めたはずだが、デウエスの身体能力も半端ではなく、欲張ってはアウトになる。
 だからこそ、一塁ずつ確実に進むしかなかった。

(…………くそっ。こんな時に、よりにもよって僕の出番かよ!)

 そして今、野球バットを握り締めてバッターズボックスに立っているのは、間桐慎二。アジア圏のゲームチャンプにして霊子ハッカーであり、聖杯戦争のマスターとなった少年だ。
 バットを握り締める手から汗が滲んでいる。緊張のあまりに胸が大きく鼓動していた。


 慎二はPC及び魔術師としてのスキルは高いが、スポーツに関しては…………プロに届くわけがない。
 決して凡人より劣っているつもりはないけど、この分野でチャンプになるのは不可能だ。このアバターだって、運動能力が優れている訳ではない。
 当然、デウエスの投げる剛速球を捉えるなんて夢のまた夢だ。


 ストライクの宣言が聞こえる。耳障りで、そして慎二の心を抉るような声だ。
 デウエスのボールを前に、ただ立ち尽くすしかない。デウエスから放たれる威圧感と、自らの命が賭けられたプレッシャー。その二つによって、慎二は動けなくなってしまっていた。
 ボックスに立つのはこれで三度目だが、バットにボールを当てられたことは一度もない。三振空振りの連続だった。
 ここまで点を稼げたのは、他のメンバーがいたからこそだった。

「おいシンジィ! あんたそろそろ当てたらどうなんだい!? もう後がないんだよ!?」

 プレーヤーズベンチより聞こえてくるのは、ライダーの叫び。
 彼女が言うように、思わずバットをスイングさせるが……ボールに当たらなかった。ストライク、という叫びが無情にも響き渡る。
 もう一度、バットに当てられなければ……ライダーが言うように後がなくなってしまう。

「おやおや? ゲームチャンプ(笑)さん、しっかりしてくださいよ!?
 だから言ったんですよね、あなたみたいな人はここぞという時にお荷物になると! もっとも、他の方がフォローして下さるのですから、大した問題ではないのですけどね!」

 テイカーの嘲りが耳に響くが、慎二はそれを否定することができない。
 悔しいが、奴に圧倒的に劣っていた。ライダーを奪われ、誇りを奪われ、挫折の果てにようやく取り返せるかと思ったが……また逆戻り。
 いや、力関係は完全に負けている。何の戦果も残せず、ただ無様に笑われるだけ。
 こんなことでいいのか? 認めたくなんかないけど、どうしようもない。

(チクショウ……こんな時、ユウキだったらどうする!?
 あいつはカオルを助ける為に、自分から火の中に飛び込んだ! ノウミにスキルを奪われても、自分の力だけでアイツに打ち勝った!
 だから、ユウキだったら……こんな状況でも、絶対にどうにかするはずだ! あいつは凄いゲーマーだから!)

 慎二の脳裏に思い浮かぶのはユウキの勇姿。
 今はもういない彼女だが、その姿は慎二の目に強く焼き付いている。逆境を跳ね返す戦術と、テイカーを相手に一歩も退かなかった精神力と勇気。
 慎二が持たないものを全部持っていて、だからこそ純粋に憧れてしまう。一緒にいたのはほんの少しだけでも、彼女のようになりたかったと……胸を張って言える。


 だからこそ、ユウキの誇りを終わらせていけなかった。
 自分のやりたいことや、自分のできることだけをやる。できないことなんて、やらなくていい。彼女はそう言ってくれた。
 でも、この状況下で慎二にできることなど…………



 …………あるには、あった。
 しかしそれは危険極まりないし、確実に成功する保証だってない。
 咄嗟に思い付いたアイディアなど、攻略に役立つ訳がない。普段の慎二ならば、絶対に取らないはずだった。



 だけど、他に方法などない。
 このアイディアを実行する為の備えだって、慎二は貰っている。
 それにユウキは、カオルを助ける為に炎の中に飛び込んだ。痛いはずなのに、苦しいはずなのに、おくびにも出さないで笑顔を向けていた。
 二人が味わった痛みに比べたら、こんなのは雑魚モンスターの攻撃に過ぎない。

(それにキリトだって……ノウミとの戦いじゃ、僕のタンクになった!
 あいつにできて、僕にできない道理なんてない! ここでやれないで、どうやってアイツを倒せるって考えられる!)

 キリトとの共闘が脳裏に浮かんだ途端、ピッチャーとなったデウエスは構える。
 三球目が投げられようとしているが、慎二にそれを弾き返す力などない。けれど、このまま黙って負けているだけなのは、一番嫌だ。
 無意識の内に、慎二は一歩前に踏み出した。



 ゴキリ、と何かが軋むような鈍い音が聞こえる。
 刹那、それをかき消す程に凄まじい慎二の叫び声が、球場に響き渡った。



     †



「……慎二! 慎二! しっかりするんだ、慎二!」

 倒れた慎二の身体を、アーチャーは揺さぶっている。その表情は苦悶に染まっていた。
 同時に、自分の使命をやり遂げたような、誇らしげな雰囲気すらもある。

「おい……痛いだろ、このバカ……あんまり乱暴に揺らすな……」
「まさか君は、塁を取る為にわざと……!?」
「ハッ、そんなこと……ルールじゃ認められていないだろ?
 バントを決めようとしたけど、僕としたことがうっかり足を滑らせた…………それだけさ」

 したり顔で慎二は語るが、アーチャーは嘘だと見抜いていた。
 いくらバットを振るっても当たらず、このままアウトになるくらいなら……デッドボールを狙ったのだろう。
 慎二のHPは残ってはいるが、あの剛速球に当たってしまったら、激痛は避けられない。
 現実の野球でも、デッドボールが原因で選手生命が絶たれた選手がいる。ましてやスポーツに関わりが薄い魔術師が受けては、耐えられる訳がなかった。


 騎士の奥義という味方全員の物理防御地を上昇させるアイテムが、揺光には支給されていた。
 野球とは関わりが無いと思われる騎士の奥義を使った理由はただ一つ。デウエスが意図的に危険球を投げることを、モーフィアスは警戒していた。
 故意に投球を打者に当てた場合、通常の野球ならばその選手は退場だろう。だが、この野球場はデウエスの胃袋に等しく、ナイトメアーズに対するペナルティなど有耶無耶にされる危険があった。
 だからモーフィアスは、そういった事態に備えて騎士の奥義を使わせた。効果は一時的だが、野球の試合が終わるまでなら充分だろう。仮に危険球を受けても、ダメージは少ない。


 しかし慎二は、あろうことか……バントのふりをして、自らデウエスのボールを受けたのだ。
 審判はこの結果をデッドボールと判断する。彼の覚悟は、成功に終わった。
 だが、あまりにも危険な賭けだった。わざとボールに当たったと判断されたら、安全進塁権を認められなくなる。
 "神"を自称するが故の驕りか。あるいは、モーフィアスの推測通り、選手を痛めつけるという目論見を果たしたからか。不安を余所にボールデッドが認められて、慎二は進塁権を与えられた。

「このバカが……あんた、腕が駄目になったらどうするつもりだったんだよ!?」
「バカはどっちだよ……君は確か、回復アイテムを持っていただろう?
 それとも君は回復アイテムを後生大事に持って、使い道を逃したまま死んじゃうタイプなのかい?」

 揺光は怒りをぶつけるが、鼻で笑う慎二にあっさり流されてしまう。
 恐らくダメージを受けたとしても、揺光が持つ平癒の水で回復する手筈だったのだろう。
 また、数が少ないという理由で慎二に回らなくても、リカバリー30というバトルチップがある。試合が流れていけば、再使用までの時間は稼げるはずだ。

「慎二……」
「ほら、早くアーチャーが出ろよ! 君はこの僕のサーヴァントだろ?
 英霊なんて大層な肩書を背負っているからには、ここで絶対に決めてみせろ! それともまさか、ビビってボックスに立てないとか言うつもりなのか?」
「…………わかった。マスターの命とあらば、それを叶えるのがサーヴァントの使命。
 君のバトン、確かに受け取った」

 ファーストに向かう慎二の背中を見届けながら、アーチャーは野球バットを握り締める。
 彼を本当に想うならば、感傷など浸っていられない。サーヴァントとして、マスターを勝利に導く責務を果たすべきだ。

「へぇ、やるじゃないかシンジぃ! あんた、ちょっと見ない間に男らしくなったじゃないか!」
「これについては僕も同意ですね! そんな気概があるなんて……ちょっと見直しましたよ!」

 ライダーの賞賛とテイカーの嘲り。だが慎二は何も答えず、一塁に立った。
 彼は悔しそうに拳を握り締めている。この場では一番能力が劣っていることを自覚し、そしてまともにボールが打てない自分自身に憤りを抱いているだろう。
 慎二は決して軟弱なマスターではない。霊子ハッカーとしても、マスターである岸波白野のアバターを改竄する程に高い技術を持つ。条件が整えば、ウイルスの謎を解き明かすことだって可能なはずだ。
 だけど、アーチャーは慎二に言葉をかけない。中途半端な励ましや慰めなど彼は望まないし、何よりも成長の妨げになる。

(慎二……君はもっと強くなる。私がそれを保証しよう。
 さて、そんな彼のサーヴァントとなったからには……私も、強くあり続けよう!)

 アーチャーは己が勝利を投影(イメージ)する。
 投影(イメージ)するのは、常に最強の自分。一秒ごとに成長し、そして勝つ。
 この手に握り続けた刃のように、バットを投影させる。世界中で活躍を果たしたプロ野球選手達の想いを、一本の武器に込めるように。


 ――――体はバットで出来ている。
     I am the bone of my bat。


 無限のバットから赤き体躯を生み出せるように念じながら、デウエスの球を待つ。
 120 km/hは超えるであろう剛速球が迫るが、アーチャーに捉えられない訳がない。千里眼(C+)によって向上した動体視力を持ってすれば容易かった。
 渾身の力を込めた一閃で、ストレートを弾き返した。

「ま、満塁ホームランだ!?」

 揺光は叫ぶ。
 彼女の言う通り、アーチャーによって射抜かれたボールはアーチを描いて、観客席に辿り着いた。
 ホームランの宣言が聞こえるが、称える観客などいない。味気ない勝利だとアーチャーは思う。

(せめて観客や実況でも配置していれば、また違ったかもしれないが……贅沢は言ってられないな)

 ネオやライダー、それに慎二に続くようにアーチャーは走る。
 これでネオ・デンノーズには4点が入る。スコアは6-4になり、大きくリードだ。
 しかし裏を返せば、これに備えてナイトメアーズもまた能力を上げる。
 ミーナ曰く、本来のデウエスにそんな仕様はないが、デスゲームに組み込んだ榊からイカサマの特権でも与えられたのだろう。
 並の人間を遥かに超えた反射神経に加えて、GMからのシステムアシストを備えた強敵。だが、ネオ・デンノーズも負けるつもりはない。
 己の未来を目指すだけだ。



     4◆◆◆◆



 ナイトメアーズの反撃は激しかった。
 ライダーは敏捷こそ優れているが、その分だけ筋力はやや劣っている。例えバットにボールを当てても飛距離は出ず、デウエスによって簡単に掴まれてしまい、アウトになった。
 その反対にガッツマンはパワーこそ優れているが、反射神経はデウエスが勝っている。機械のような正確な判断で着地地点を予測し、そのまま捕球されてしまう。
 ミーナはメンバーの中では最も経験が長く、運動神経は抜群だ。それでもただの人間に過ぎず、救世主やサーヴァントに対抗できる力を付けたデウエスに勝てる道理はない。
 バットは三振。結果、揺光やモーフィアスに順番が回る前に、9回の表に入ってしまった。



 ナイトメアーズの猛攻は始まる。
 ネオは渾身の力で投球するも、デウエスはバットの真芯で剛球を打つ。彼の癖や弾速を見切ったのだ。
 ボールは内野手を飛び越え、外野手でバウンドする。センターの揺光が掴み、ファーストのモーフィアスを目がけて投げた。
 結果はセーフ。一塁を許してしまった。


 二球目。
 もう一度だけストレートを投げる。デウエスはバットを振るうも、空振りに終わる。ストライクだ。
 その結果に特別な感情を抱くことはなく、呼吸を整える。ほんの少しだけ球の軌道を変えられるように念じながら、フォークボールを投げる。再びストライク。

(奴らは、この速度に対応する為に、様子を見ているはずだ。ならば……)

 ボールを握る手に、更なる力を込める。
 デウエス達はこちらが手札を出す度に、それに合わせてステータスを改竄している。マトリックスを支配するエージェント達のように、通常の人間では太刀打ちできない存在へと進化したはずだ。
 だが、仮想世界に蔓延る脅威と戦う為に、ネオは救世主としての力を得た。相手が進化したなら、ネオ・デンノーズはそれ以上に進化すればいいだけ。
 その為の手段が、ガッツマンより与えられている。彼は今、キャッチャーとなってネオの投球を待っていた。


 共に戦っている仲間との絆を信じて、ボールを投げる。
 デウエスはバットを振うも、それを掻い潜ってガッツマンのミットに炸裂した。
 5番打者のデウエスは三振した結果、アウトの審判が下される。

(ガッツマン……お前の想いに応えるぞ!)

 ガッツマンが所持していたアイテムは三つ存在する。
 転移結晶というSAOに存在するレアアイテムと、現実の世界から持ち出されたウルティマラティオライフル・PGMへカートⅡ。
 最後に、闘士の血というガッツマンに相応しいであろうアイテムが支給されていた。『The World』に存在する闘士の血は、使用したプレイヤーの物理攻撃力を一時的に上昇させる。
 9回の表に入る直前、投手となったネオは闘士の血を使うことで、己の筋力を増幅させた。それに伴って、彼が投げるボールの速度もまた上昇する。
 結果、デウエスの三振を見事に果たした。

「よし! このまま守り抜けば、アタシ達の勝ちだ!」
「揺光、安心するのはまだ早い! 奴らはこの野球場で神の座に君臨していることを忘れるな!」

 揺光の期待と、モーフィアスの叱咤が耳に届く。
 まだ終わりではない。こちらが補助アイテムで筋力を上昇させたなら、必ずデウエスはそれに追いつくだろう。
 しかし、追いつけるまでに若干のタイムラグがある。あと一度だけ、アウトに持っていくだけの余裕はあった。


 一球投げる度に、弾速は上がっていく。
 二度のストライクを決めて、三球目を投げた!
 だがデウエスは軌道を見切ったのか、ネオのフォークボールをバットで飛ばす。
 内野手を飛び越えた先にいるのは、ライトに立つ慎二だ。例えホームランにならなくても、彼を狙えば点が取れると判断したのだろう。

「…………僕を、ナメるなぁ!」

 肝心の慎二は大声で叫び、全力で走る。通常の彼とは比較にならない速度で、一瞬でボールの落下予測地点までに到着する。
 慎二は見事にボールをキャッチして、アウトの宣告が成された。


 守備に回る際に、慎二はミーナより快速のタリスマンを受け取っていた。
 彼は自らの能力が劣っていることを自負しており、最後の追い込みにかかるであろうデウエスに立ち向かうには……アプドゥに頼るしかない。
 一時的な効果だが、残されたゲームを乗り越えるには充分だ。


 二度のアウトが宣告された。
 ここを乗り越えれば、ネオ・デンノーズの勝利が確定される。
 ナイトメアーズは後がないはずだった。

「……ここまで粘るとは、やりますね」

 デウエスの一人より聞こえてくるのは、嘲りの声。

「流石はネオ・デンノーズと言った所でしょうか? 精鋭が揃っては、私達でも簡単に勝てそうにありません」
「でも、私達は野球場の"神"になった」
「猿が大量に集まり、そして小細工を仕掛けようとも」
「"神"から見れば些事に過ぎない」
「ですが、心配はいりません……私達はあなた達を苦しめるつもりなどありません」
「"神"に君臨したのですから」
「あなた達を"しあわせ"にしてあげます」
「私達と一つになれば、あなた達はもう苦しまず……"しあわせ"になれますよ」

 デウエス達の言葉が、スピーカーを通して球場全域に響き渡る。
 お前達の抵抗など無駄なのだと。諦めてデウエスに取り込まれてしまえと。声色からは驕りが醸し出されていた。
 見下しているのではない。初めから、デウエス達は自分達の存在など認めていなかった。


 やはり、同じだった。
 偽りの幸福に満たされた世界に人間を閉じ込めて、命を資源エネルギーに変えた機械達と。
 そしてスミスを始めとしたマトリックスを守護するエージェント達も、人間達に価値など見出していなかった。
 デウエスに取り込まれれば、確かに"しあわせ"になれるだろう。だがそれはデウエスによって"しあわせ"だと思わされているだけ。
 実際はデウエスの糧にされて、永劫の時を地獄で彷徨うだけだ。


 デウエスの言葉に屈する者は誰一人としていない。
 ネオは彼らの希望であり続けなければいけなかった。トリニティはネオを信じ、そしてアッシュはネオに道を示してくれた。
 二人もデウエスを否定するはずだ。

「俺は……いや、俺達はお前らの言う"しあわせ"など、認めない」

 淡々と、そして静かなる怒りを響かせながら、ネオは言い放つ。
 バッターボックスに立つデウエスは無言のまま、ニヤリと笑った。奴らはここから最大限の能力を発揮するつもりだろう。
 ネオの使った闘士の血は、既に効力が切れていた。対するにデウエスは、スペックを向上させたネオが投げるボールの速度を見抜いている。
 だが、ネオは一片の躊躇もせずに、ボールを投げた。


 バキン! という衝突音と共に、野球ボールは空の彼方へと向かっていく。仮にライダーが例の船を顕在させても、ボールの方が早い。
 跳躍力に優れているサーヴァント達やダスク・テイカーでも、間に合わないだろう。
 可能性があるのは救世主の力を持つネオだが、既にボールはピッチャーマウンドを通り過ぎている。
 ボールが外野フェンスを超えれば、野球勝負は続いて、ナイトメアーズの勝利へと近づくだろう。


 逆を言うなら。
 ボールが外野フェンスを超えてしまうまでは、まだネオ・デンノーズに勝利のチャンスは残されていた。


 ネオはウインドウを展開させて、ガッツマンより受け取った"アイテム"をオブジェクト化する。
 使用すれば、どんな場所にでも辿り着けるであろうレアアイテム……転移結晶を手にしながら、ネオは叫んだ。

「転移、アメリカエリア・野球場……観客席!」

 彼の決意に答えるかの如く、転移結晶は輝きを放つ。
 瞬く間に男の姿は消える。しかし一秒も経たず、観客席の位置にネオが現れた。

「なにぃ!?」

 誰かが驚愕の声を漏らすが、男はそれに目を向けずに走る。
 渾身の力を込めて高く跳躍し、迫りくる野球ボールをキャッチした。

「アウトオオオオオオオオオオォォォォォォォォォォォォォッ!」

 ネオが着地すると同時に、審判は三度目のアウト宣言をする。
 これでゲームセット。6-4で、ネオ・デンノーズの勝利だ。


 ネオはモーフィアスより、ガッツマンが所持する転移結晶を受け取っていた。
 最後の最後、こちらが全ての手札を出し尽くしたその時こそ……デウエス達は真に牙を剥く。
 ネオ・デンノーズが出せる最大の力を超えたスペックを得て、デウエスはホームランを狙う。ならば意図的にボールを打たせた後に、転移結晶を用いた瞬間移動で先回りして、観客席から捕球すればいい。
 現実の野球では、瞬間移動を行ってはならない、なんてルールなど存在しないのだから。


 しかしこれは一種の賭けでもあった。
 解説によると、転移結晶は【転移結晶無効化エリア】という場所で使用しても効果が発揮されない。故に、もしもこの球場が【転移結晶無効化エリア】に指定されていたら、そもそもこの作戦自体が成立しなかった。
 加えて、この野球ゲームはそれぞれのチームに欠員が出ないようにルールで定められている。自力で脱出することは不可能で、あらゆる逃走手段は封じられているかと思われた。


 だが、球場内から球場内への転移ならばどうか。
 こちらが禁止されているのは、球場からの脱出や、ボール及びナイトメアーズへの攻撃行為。明確に指定されているのはそれだけ。
 それ以外に禁止行為は存在しないことに賭けて、彼は転移結晶の使用を選んだ。
 転移結晶は貴重品だが、出し惜しみなどしたらネオ・デンノーズ全員が敗者となるだけ。だからこそ、ガッツマンも託してくれたのだ。

「やりました……私達ネオ・デンノーズの勝利です!」

 ネオがネオ・デンノーズの元に駆け寄ると、その勝利をミーナが称えてくれた。

「どうやら、上手くいったようだな」
「ああ。モーフィアスのおかげだ。この作戦があったからこそ、勝つことができた」
「それなら、礼を言うのは俺じゃないだろう?」
「……そうだったな」

 モーフィアスが言うまま、ネオはガッツマンに振り向く。
 男気に溢れるネットナビは、熱い炎が燃え上がる瞳をネオに向けていた。

「ガッツマン……お前にも、感謝しなければいけないな」
「おれは男の中の男! ネオだったら、絶対にボールをとってくれると……しんじてたでガッツ!
 だから、おれは転移結晶をわたしたでガッツよ!」
「そうか……ありがとう」

 ネオとガッツマンは互いに握手をし合う。
 人間と機械の絆によってもたらされた勝利を、祝福するかのように。


 次の瞬間。目の前に立つガッツマンの姿が歪む。
 思わずネオは瞬きをして、周囲が揺れていることに気付く。
 足元がよろめき、不気味な振動が野球場に襲い掛かった。

「な、なんだよ!? 地震か!?」

 慎二は狼狽える。
 彼だけではなく、ネオ・デンノーズにいる全員がこの異常事態に瞠目した。
 たった一人、ミーナを除いて。

「いいえ、呪いが発動したのです!
 私達の知る呪いのゲームでは、ナイトメアーズの敗北と同時にカオルさんの呪いは発動して、ハッピースタジアムもろともデウエスを滅ぼしました!」
「な、なんだってぇ!? じゃあ、このままだと僕達もそれに巻き込まれちゃうじゃないか!」

 慎二の不安通り、野球場に亀裂が走る。
 グラウンドが、壁が、観客席が……何もかもが、砕けようとしていた。
 今からでは、逃げ出そうとしても間に合うかどうかわからない。

「――いやだ」

 世界がひび割れていく中、おぞましい声が響き渡る。

「まだ"しあわせ"になっていないのに――――」

 オカルトと科学によって生み出されたカオルの深層(エス)は震えていた。
 デウエスはこちらに目を向けていない。そのアバターもまた、歪み始めていた。

「すきなひとといっしょにいたいのに、もっとけんきゅうしたいのに、みんなにみとめられたいのに――――――」

 紡がれるデウエスの呪詛。
 人間……いや、心ある命ならば誰もが求める願い。だが、カオルはその全てを取りこぼしてしまった。


 初めは、未知のものに対する好奇心や文明の進歩の為に力を尽くしたはずだ。
 カオルの発明によって救われた人間だっている。彼女が研究したからこそ、文明も進化した。
 しかし彼女の想いは報われず、挙句の果てにはカオル自身の研究によって……世界の平穏は壊された。


 自分たちの仕えている科学が、いつかみんなを救ってくれると、彼女は信じていた。
 諦めることを否定して、未来を変えようとしていた。その果てに待っていたのが、世界中を巻き込んだ戦争の元凶という汚名。
 カオルは絶望したはずだ。望むものを手に入れられず、病魔と人々からの糾弾に苦しんで、命を奪われる。
 …………彼女の行いは決して許されないが、彼女こそが全ての元凶と問われたら、ネオは否定する。

(すまない、カオル……俺は救世主でありながら、君を救う方法を知らない)

 しかし、もうカオルを救うことはできない。既に呪いのプログラムは発動し、デウエスもろとも消え去ろうとしている。
 彼女は彼女自身の因縁に、決着をつけようとしていた。
 介入しようにも、呪いのプログラムのシステムを知らないネオにはどうすることもできない。
 下手に横槍を入れたらネオ自身も巻き添えを食らいかねないし、何よりもプログラムそのものが破綻する危険があった。

「いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ。
 しにたくない。しにたくない。しにたくない。しにたくない。しにたくない。しにたくない。しにたくない。
 命を……命を……命を、いのちを、補充してやる! お前達を、食ってやる!」

 ぐるり、とデウエスはこちらに振り向いて、凄惨な笑みを見せる。
 口から伸びた牙の意味はただ一つ。奴はネオ・デンノーズの全てを喰らおうとしていた。
 反射的にオブジェクト化させたエシュリデータを構えて、デウエスを睨む。アーチャーやライダー、そして揺光も武器を握った。

「ダスク・テイカー! 宝具、という例の船を呼び出せ!」

 そんな中、モーフィアスだけが叫ぶ。
 彼はデウエスに目を向けず、ダスク・テイカーと交渉していた。

「ここから脱出するには、君とライダーが捕球に使用した例の船が必要だ。私達もそこに乗せてもらうぞ」
「はぁ? 僕達だけならまだしも、どうしてわざわざあなた達を助けなければいけないのですか?
 ゲームはもう、終わったはずでしょう」
「君達だけで脱出できる可能性は低い……上を見ろ」

 鼻で笑うテイカーを尻目に、モーフィアスは空を指差す。
 見上げると、天にも亀裂が走っていた。いつ砕けてもおかしくない空を飛ぶなんて、危険極まりない。
 GMによって導入されたデウエスならば、飛行能力にも何らかの対抗手段を持っているはずだ。

「あなた、もしかしてこの事態を予測していたからこそ、ライダーの宝具を使わせなかったのですか?」
「"神"を自称するような傲慢な奴ならば、追い詰められた時に私達を道連れにしようとするだろう。
 さあ、早く決めろ。君達だけで逃げるか、それとも全員を連れていくのか……時間はない」
「……敵に塩を送るなんて御免ですが、残念ですがあなたの言うことにも一理あります。何が起こるかわからない状況を、僕達だけで切り抜けるのは流石に厳しいでしょうから。
 ライダー! 早く宝具を使いなさい! こんな所に長居は無用ですよ!」
「はいよっ!」

 ライダーは叫ぶ。一隻の巨大軍艦が野球場に再び君臨した。
 テイカーとライダーは瞬時に乗り込む。威容を誇る船に圧倒されているミーナと揺光を抱えながら、ネオもまた甲板に向かった。
 慎二は相変わらず表情を顰めているが、アーチャーに抱えられる形で船に乗り込む。最後にモーフィアスとガッツマンが搭乗して、脱出の準備が整った。

「さあ、振り落とされるんじゃないよ!」

 そんなライダーの宣言と共に、船は天に向かって飛び立とうとするが。

「おまえたちのいのちを…………わたしによこせぇえええええええええええ!」

 デウエスの叫びと共に、野球場を構成する全てのデータは崩壊。
 広範囲でテスクチャは剥きだしとなって、そこから無数の黒い手が飛び出した。
 一本一本は、普通の人間ほどの長さを持つ腕。何百……あるいは何千か何万か。あまりにもおびただしい数の腕が、一斉に蠢く。
 ざわざわざわざわざわざわと、まるで波打つように見える腕は、ネオ・デンノーズを目がけて急激に伸び始めた。



     5◆◆◆◆◆



「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「な、なっ……な、な、なんでガッツ!?」

 慎二は全身が凍りついたような悲鳴を上げて、ガッツマンは動揺していた。
 デスゲームを生き延びた彼と言えども、全身の鳥肌が立つような光景には耐えられなかったのだろう。
 それはミーナも同じ。一度、デウエスを打ち破った経験があるとはいえ、そのおぞましさには慣れることなどできない。

「な、なんだよアレ…………アレも、デウエスの仕業なのか!?」

 揺光もまた震えている。
 無数に穿たれたデータの穴から引っ切り無しに伸びる腕など、直視することはできない。
 ネオやモーフィアス、そしてアーチャーやライダーですらも表情を顰めていた。

 一本の腕が一直線に伸びる。
 反射的に踏み出したネオがエシュリデータの一閃させたことで、あっさりと両断。
 が、焼け石に水に過ぎない。まるで消えた分を補充するように、データの孔から新たなる腕が現れた。

「気を付けてください! あれに掴まれたら、私達はデウエスに取り込まれてしまいます!」
「そんなこと、聞かれるまでもありませんよ! それよりも呪いのプログラムとやらは、まだ発動しないのですか!?」
「そろそろ発動してもいいはずなんです! 私が知るデウエスは、敗北してから数分ほどで消滅しました。
 だから、あいつもすぐに消えるはずですが……」

 ダスク・テイカーの怒号に答えるも、肝心のデウエスは未だに健在。否、かつて以上に驚異的だ。
 血に飢えた野獣のように禍々しく、カオルから生まれたとは思えない程に獰猛だった。

「でも、全然平気そうじゃないか! どうするんだよ!?
 ……そ、そうだ! おい、ライダー! この船の大砲であいつらを纏めて吹き飛ばせないか!?」
「どうだろうねぇ。
 てか、あの神サマには攻撃なんて利かねえんだろ? まぁ、やれなくもないだろうけど、本気を出すにはアタシの魔力が足りなすぎる。
 だろ? ノウミ」
「なっ!?」

 危機的状況にも関わらずして妙に落ち着いているライダーに、慎二は絶句する。
 一方でテイカーは、目を伏せていた。無言のままだが、肯定しているのだろう。
 今のステータスでは逃走が精一杯で、迫る腕の迎撃は不可能ということだ。

「大元を叩かない限り、あの腕はいくらでも湧いてくるようだが……今の私達では厳しいな」
「待ってくれ、アーチャー。俺のステータスなら心配はいらない」
「だからこそ、君を失う訳にはいかないんだ。もしもデウエスが君を喰らってみろ……救世主の力を得たことで、手のつけられないバケモノになることは間違いない。
 デスゲームの世界から抜け出して、あらゆる世界で暴れ回るはずだ」

 アーチャーの言葉は尤もだ。
 このメンバーで戦闘を一番期待できるのはネオ一人だけ。高いスペックを誇る彼がいたからこそ、ネオ・デンノーズは勝利を掴んだ。
 自分達の切り札とも呼べる男だ。当然、デウエスから真っ先に狙われる。
 万が一、ネオの命がデウエスに取り込まれてしまったら、その時点でネオ・デンノーズの敗北が確定する。救世主である彼に太刀打ちできるメンバーなど、他にいないのだから。



「み、つ、け、た」

 唐突に。聞こえてはいけない声が、甲板で響き渡る。
 咄嗟に振り向くと、本来ならいないはずだった9人目の乗客が、いつの間にか姿を現している。
 三日月形の口を真っ赤に染めて、テイカー以上にどす黒い肉体を誇るアバター。間違いなく、カオルの深層たるデウエスだ。

「何ッ!?」
「バカな……!?」

 それらは一体誰の驚愕なのか。ミーナに思考をする余裕はない。
 男と女の悲鳴も聞こえるが、ミーナの意識はデウエスだけに向けられている。

「いただきます!」

 デウエスの視線が向けられて、凄まじい殺意が肌に突き刺さった。

(私を、食べようとしてる……!?)
「ミーナっ!」

 戦慄と同時に、ミーナの身体はネオに突き飛ばされた。

「フンッ!」

 ネオはデウエスのアバターを横に切り裂く。微かな悲鳴と共に漆黒の体躯は吹き飛ぶが、すぐに着地する。
 凄まじい威力を誇るであろう一閃を受けたにも関わらず、デウエスは笑っていた。

「大丈夫か、ミーナ!?」
「は、はいぃ!」

 感謝する暇もなく、ただ頷くしかできない。
 周りにいるメンバー達は、デウエスを見つめていた。何故、何の脈絡もなしにデウエスは姿を現したのか? 誰もがそう思っているだろう。
 まるで瞬間移動を使ったように、唐突だった。

「まさか……!?」

 何か心当たりでもあるかのように、モーフィアスは呟く。

「……デウエスは、ネオが使った転移結晶の効果すらも、後付けで組み込んだのか!?」



     †



「正解だよ、モーフィアス」

 白衣の男は、デウエスから逃走するネオ・デンノーズを淡々と見つめていた。
 トワイス・H・ピースマン。ロックマンのアバターを回収し、オーヴァンをハセヲの元に導いた彼は、今もデスゲームの情勢を"記録"し続けている。
 現在、最も重大なるイベントはデウエスの暴走。カオル/寺岡薫の深層(エス)より生まれた怪物の行く末を"記録"していた。


 【Happy Studium】より導入されたデウエスは、本来の仕様とは少し違う。
 モーフィアスが推測するように、イリーガルな力と対抗できるように改竄を施されていた。
 世界中の経済を大混乱に導くほどに、デウエスのスペックは凄まじい。またその反射神経も、通常の人間を遥かに凌駕する。
 だが、デウエスが超えるのは『通常の人間』だけ。『魔術師』や『サーヴァント』、更に『救世主の力』や『碑文』を始めとした力に対抗できる保証はない。
 だからこそ、現実の世界で行われる野球のルールから逸脱しない範囲で、デウエスに改竄を施したのだ。
 モルガナが本来のルールを破れないように、デウエスもまた野球のルールを破ることはできないのだから。100%の勝利が約束された勝負なんて、受けられない。


 無論、流石に呪いのプログラムを除去するまでは不可能だった。
 寺岡薫が生み出したプログラムは容易く解析できず、下手に手を出してはGMに飛び火しかねない。また、仮に呪いのプログラムを除去したら、デウエスのワンサイドゲームになってしまう。
 何事にもバランスが存在するのだから、それを乱してはならなかった。


 今にもデウエスのアバターは崩壊し続けて、カオルもろとも消滅するまでに時間はかからないはずだが……厄介なことに、転移結晶の効果すらも学習してしまっている。
 データの歪みから発生した無数の腕は、ただの囮。意識を向けさせている間に、敵の懐に潜り込む。単純だが、実に効果的だ。
 後は一人一人、ネオ・デンノーズを喰らってしまえば新たなる命を得られるだろう。

「科学者の欲望風情が、やるじゃないか!
 流石は"神"を自称するだけのことはあるなぁ!」

 逃走劇を眺める男がもう一人。
 全てのプレイヤーにその存在を知らしめたGMの一人。榊だ。
 彼はプレイヤーが【Delete】される度に、まさに傲慢たる王の如く嗤っていた。デスゲームを打ち破ろうと目論む者達が傷付き、無情にも命を散らせることを……彼は望んでいる。

「希望を喰らって"神"に君臨するか、あるいは"道化"のままで終わるか……」
「ハッハッハハハハハハ! だが、こうして見るとデウエスもまた哀れなものだ!
 "神"の座に執心するも、所詮は一人の人間から生まれた欲望に過ぎない。どれだけ飾ろうとも、結局は人間の域を超えられる訳がないだろう!
 そういえば、どこかのゲームには『泥棒の王』とやらがいたそうだな。ならばデウエスは『泥棒の神』と呼ぶのが相応しいかな?」

 榊は高らかに笑っている。
 泥棒の王。それはALO……アルヴヘイム・オンラインを支配した妖精王オベイロンのことだろう。
 彼は茅場晶彦/ヒースクリフの技術を盗み、人間の感情をコントロールする実験を重ねて絶大なる地位を手に入れようとした。
 境遇こそは違えど、己の欲望を満たす為に絶大な技術と力を求めた点では共通している。
 尤も、両者がわかりあうことなど、決してないだろうが。


 画面に映し出されているデウエスは、ネオ・デンノーズの前で吠える。
 無論、彼らとてデウエスに黙って取り込まれるつもりなどなく、必死に抵抗する。ある者は剣を振るい、ある者は弾丸を放ち、ある者は卓越した身体能力でデウエスを避ける。
 しかしその全てを、デウエスは見切っていた。彼らの動きに対応できるようになるまで、そう遠くない。


 また、デウエスが暴走した影響で、アメリカエリアの空すらも崩壊していた。
 かつて野球場が崩壊したように、データの残骸は瓦礫のように戦艦へと降り注いでいく。まるで大嵐の如く、船を打ち砕こうと襲い掛かっていた。
 このまま、デウエスの勝利に終わってしまえば、崩壊はアメリカエリアに留まらないだろう。

「さあ見せてくれ! 『泥棒の神』の維持を! そして"神"に抗う愚か者達の維持を!
 君達の『運命』を、私に見せてくれよ!」

 己の終末を望む死者の願いと、己の"しあわせ"を求めて希望を喰らおうとする深層の願い。
 そうして生み出された『運命』が決着をつけるまで、あと僅か。


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最終更新:2016年04月30日 21:20