その様はまさしく《獣》と評するに相応しかった。
エリアを揺るがさんとするばかりの咆哮、両手両足を使った四足での疾駆、理性なき凶暴な瞳。
見ただけで本能的に恐怖を掻き立てる恐ろしい姿をしたそれは――猛然とこちらに襲い掛かってきた。
「っ……!? ハセヲ」
そのあまりの形相に
シノンは一拍遅れつつも反応し、突進を避けようとする。
が、《獣》は猛然と追いすがり、刃を振るってくる。
近づかれたシノンはそれに対応できなかったが、間に入ったロータスが受け止めてくれた。
―― 一体、ハセヲに何が?
そのあまりの変貌に、シノンは事態を呑み込めていなかった。
「…………」
いぶかしげにオーヴァンをうかがったが、しかし彼は何も言わなかった。
ただサングラス越しに、ハセヲの姿をした《獣》を値踏みするような視線で見つめている。
オーヴァンも事態を把握していない――それを思わせる視線だった。
「君は――クロム・ディザスターに堕ちたというのか?」
ギリギリと刃を交わしているロータスは、そう漏らした。
シノンは、はっ、とする。
クロム・ディザスター。
それは――あの《鎧》に宿る名だという。
かつて加速世界なる場所に現れた暴虐の《獣》。
無念と怨念に取りつかれた――哀れな想いのなれの果て。
ハセヲがマク・アヌで使ったというあのアイテムの危険性は、既に聞いている。
そしてそれを恐らく碑文の力で抑えてたということも聞いた。
確かに――ハセヲはそんな危うい状況だった。
しかし、負けたというのか? ハセヲは《鎧》に。
シノンは信じられなかったが、しかし想像してしまった。
スケィスとの戦闘で――ハセヲは戦う中で《鎧》の力を解放してしまったのではないかと。
そしてその結果が、この姿なのではないかと。
「…………」
オーヴァンはなおも何も言わない。
ハセヲは彼に目もくれず――ロータスを弾き飛ばし、今度はブラックローズへと襲い掛かっていった。
「おい、呆けてられねえぞ、こいつは」
動けないシノンをしり目に、アーチャーが前に出た。
彼は弓を構え、ブラックローズを援護する構えを見せている。
「仮にあの兄ちゃんが本当にクロム・ディザスターとやらに堕ちたってんなら――こっちもヤバイぞ」
アーチャーの言葉にシノンは身を固くする。
クロム・ディザスターが加速世界に何をもたらしたのかは聞いている。
最後に救われた筈のあの《鎧》はこうして再び苦しみの咆哮を上げている。
場合によっては――ハセヲはもう戻ってはこれないのかもしれない。
「とりあえず戦えないなら下がってろ、容赦できる相手じゃ」
「――待って」
シノンは言うなり前に出た。
ファイブセブンのスライドを引きながら、彼女は《獣》の前へと出る。
「行くのか?」
「ええ」
すれ違いざまにロータスの言葉を交わす。
最後のクロム・ディザスターの話は聞いている。
「ハセヲ!」
叫び、銃口を彼に向けると、獣は、ぎろ、とこちらを睨んできた。
射貫くような視線に心臓をわしづかみにされたような感覚が襲う。
ああまさしく《獣》だ――しかし、彼がハセヲであるのならば、
「――アトリは貴方を信じていた」
シノンは語り掛ける。
そこに渦巻く悔恨を、無念を、解放してやるために。
「あの娘は貴方が好きだった。
そしてそれを救うために、貴方は戦ったんでしょう?」
――アトリ
その名に反応し、《獣》が咆哮を上げた。
それは、喪った者の名を、うめられない喪失感を苦しむような響きに聞こえた。
「ア……トリ」
「確かに救えなかったかもしれない。
それが、貴方には許せないんでしょう?
自分自身が、他の何よりも許せないんでしょう?」
「――し、の」
しの。
ハセヲが漏らした名に、詩乃/シノンは目を細めた。
何とも――因果な話だ。こうしてここに立っている自分と、同じ名前だなんて。
ハセヲと同じく――アトリを救えなかった自分にもその名は突き刺さる。
「けれど、覚えておきなさい。
貴方は――あそこで私を救ったんだって」
それでも、その事実だけは伝えておきたかった。
「あの街で、マク・アヌを私が生きて出ることができたのは、貴方がいたからよ。
エージェント・スミスやスケィスは私一人では到底対処できなかった。
だけどそれでも生き残ることができた。それは貴方のおかげだった。
それもまた――事実よ」
それは再演だったのかもしれない。
――――――おねえさん、おかあさんをたすけてくれて、ありがとう。
かつてシノンが立ち直るきっかけになった、ある少女の言葉を、今度は彼女自身が口にしているのだ。
「確かに救えなかったかもしれない。
だけど――同時に救われた人もいた。その事実だって、確かにここにあった現実なのよ」
その言葉を聞いた《獣》は、一瞬だけ、動きを止めた。
「グルゥゥゥ」
――けれども、次の瞬間には彼はシノンへと飛びかかってきた。
叫びをあげ、シノンに刃を振るう。
彼女は弾き飛ばされ悲鳴を上げる。そしてそこに追い討ちをかけるように――首を絞められた。
「あ、う」と声が漏れる。頭に酸素が行かなくなる。苦しい。
視界の隅でものすごい勢いでHPゲージが削られていくのも見えた。
けれども――それ以上に信じられなかった。
ハセヲが、彼が結局《鎧》に負けたのか? その事実がどうしても信じられなくて――
◇
「楚良が、ハセヲだって?」
その事実を伝えると、キリトは目を丸くしていた。
「ハセヲって、例の、もう一人の生徒会の奴だよな?」
「ええ、彼です」
レオはそこで窓の外を眺めた。
そこでは黄昏の世界が広がっている。赤く染まった夕陽の下、どこかで彼は戦っているのだろうか。
「ハセヲが楚良ってことは……」
「ええ、彼がスケィスの碑文使いに選ばれたのも、すべてはその縁でしょうね」
あるいはそれは“運命”と称されるべきものだったのかもしれない。
なるべくして定まった、当然起こるべき因縁。
彼は“死の恐怖”に魅入られるべくして、碑文を宿した。
「……ハセヲは」
その事実を伝えると、キリトは躊躇うように言った。
「ハセヲはスケィスとまた戦うのか?
出会うべくして――出会って」
「ええ、きっと」
スケィスとの相対は、モルガナ打倒のために欠かせない。
そしてその鍵はきっとハセヲなのだ。
「でも僕は信じていますから、ハセヲさんを」
窓の向こうに、ぼんやりと見える一つの学校がある。
梅郷中学校。あれがこの生徒会の始まりだった。あそこでハセヲとレインに出会い、生徒会は生まれ落ちたのだった。
「なんといっても僕が最初にスカウトした雑用係ですからね、ハセヲさんは」
◇
その時《獣》は弾き飛ばされた。
シノンを襲っていた《獣》をやってきた誰かが殴り飛ばしたのだ。
銀色の髪が舞う。その誰かの顔は――ひどく見覚えのあるものだった。
「おいっ……! 大丈夫か?」
その誰かはシノンを身体を揺らした。
がんがんと頭が揺れて気持ちが悪い。心配するのは良いが、もう少し丁寧にしてほしい。
そんなことを思いながらも、シノンはその名を口にした。
「――ハセヲ」
――《獣》を殴り飛ばしたのは、彼だった。
銀色の髪、顔に刻まれた文様、目つきの悪い瞳、そのどれもが彼女の知るハセヲだった。
とはいえ違う点もあった。彼の姿は、どういう訳か随分と“すっきり”した格好をしていた。
あの黒くトゲトゲした禍々しい衣装は消えさり、代わりにひどく露出度の高い軽装を身に着けている。
「変な、イメチェンね」
「イメチェンって……アンタの猫耳のほどじゃねえよ」
そんな言葉を交わしつつも、ハセヲはシノンを守るように《獣》の前に立った。
弾き飛ばされた《獣》は「グルゥゥゥ」と威嚇するように、ハセヲをにらんでいる。
その姿は――ああ、やはり瓜二つだ。
共にハセヲの姿をし、ハセヲの声をしている。衣装こそ違えど、それは鏡合わせの対峙だった。
「来いよ」
――スケィス
ハセヲは《獣》をそう呼んだ。
……あの時、ハセヲはスケィスゼロに再びデータドレインされた。
ソラと化したスケィスと対峙し、謎の頭痛に襲われ、その隙を狙われた。
その結果、彼は再びその身に宿っていたものを奪われた。
そしてその中には《鎧》もあった。
マク・アヌでドレインされた際は《災禍の鎧》は眠ったままだった。
しかし今は違った。ハセヲと深く結び付いている。故に――データドレインにより奪われた。
結果としてハセヲはスケィスゼロは更なる変容を見せた。
ボロボロだったその身に《鎧》が結合し――そしてその無念がハセヲの姿をした《獣》として身を結んだ。
まるで黙示録に記録されし獣のように、それは現れたのだ。
スケィスであり、《鎧》であり、ハセヲであったその獣は――“薄明の書”や“セグメント”を所持していたシノンとブラックローズを襲ったのだ。
「だけど、もう奪わせはしない」
ハセヲは決然という。
彼は――もう誰に言われるまでもなく分かっていた。
《獣》が一目散にどこかにシノンたちを狙ったとき、迷わずその足が動いていた。
彼女らを襲わせはしないと、守りたい、と彼は確かに思っていた。
そのことに気付いたとき――彼はもはや自分が“死の恐怖”に戻れはしないことを悟ったのだ。
「強くなったな、ハセヲ」
その姿を見たオーヴァンがそう漏らす。
ハセヲは彼の姿を認めるなり、拳を強く握りしめた。
結局のところ、過去の名に逃避できるほど――ハセヲは弱くはなかったのだろう。
その強さ故、彼はここにいる。あるいはここにいるために、彼は強くなっていた。
「アンタの真意は分からねえ。
だが、俺は――アンタだって守ってやる」
「……どうやら、俺の助けはもう要らないようだな」
オーヴァンと言葉を交わし、ハセヲは《獣》と相対する。その言葉を聞き届けたオーヴァンは満足げに下がっていった。
そして代わりに立ち上がったシノンが「待ちなさい」と口を挟む。
「貴方――武器がないでしょ。はい、これ」
そして彼女は、預かっていた双剣をオブジェクト化し、ハセヲへと手渡した。
すると彼は目を丸くする。忍冬/すいかずら――その双剣が一体どういう意味が持つのか、既にシノンには何となくつかめていた。
「大切なものなら、貴方が持ちなさいよ」
「――ああ、ありがとう」
そうしてハセヲは再びその双剣を握りしめた。
愛の絆。その意味を込められた剣を渡されるのは、これで三度目だった。
「ハセヲ君、一つだけ伝えおこう」
《獣》の対峙の直前、ロータスが彼に呼びかけた。
「その《鎧》は、クロム・ディザスターは決して君の“敵”ではない」
「ああ――分かってるさ、それくらい」
――ハセヲにとって《鎧》も、スケィスも、“死の恐怖”も、すべて“敵”ではないのだろう
それらはみな、一度ハセヲに結びついたものだ。
それを“敵”とし、許せないものとして排除しようとしてはいけない。
何故ならば――
「――ここにいるのは、俺だ」
他でもない自己と対峙すべく、ハセヲと《獣》の戦いが始まった。
◇
戦いは、一撃だった。
黒く渦巻く禍々しい心意に取りつかれた《獣》が、ハセヲへと飛びかかり、
“忍冬”の双剣を構えたハセヲもまたそれを真っ向から受け止める。
二つの刃が重なったその瞬間に、彼らの背後に黒と白のスケィスが顕現する。
同時にハセヲの脳裏に楚良の姿がフラッシュバックした。
それは今まで見え隠れしていたハセヲの過去であった。それと対峙することが、今までのハセヲにはどうしてもできなかった。
けれど――今度は違う。
ハセヲは楚良を見ても、頭痛に苦しむことはなかった。
それも含めて、この何もかもわからない不気味な過去もまた、自分であると認めていたからだ。
――ナゼ、汝ハ抗ウ? 我ハ汝。汝ハ我デアルトイウノニ
楚良の顔は、次に《鎧》のそれへと変わっていた。
それは短い間とはいえ、同居していた声だ。
故に理解できる。彼の深い憎しみと悔恨を、ハセヲもまた共感できていた。
――はっ、笑わせんな。俺とお前は違う。お前は俺じゃない
――何ガ違ウトイウノダ。オ前モ敵ヲ憎ミ滅ボソウトシテイタダロウ?
――ああ、そうだよ。それだって、事実だ。俺は何もかもが許せなかった。だけどな、この憎しみは俺の、俺自身のものだ。お前のものじゃない。
――何ヲ?
――俺の憎悪も、苦しみも、喪失も、全部俺のものなんだよ! それを誰にも渡さねえ
そしてそれは《鎧》も同じだった筈なのだ。
《鎧》はもともと一人のプレイヤーの憎悪から始まったのだという。
それがどこかで歪み、幾人もの想いが混ざり合い、こんなことになってしまった。
――返してもらうぞ! 俺の過去を、憎しみを!
その想いと共に、ハセヲはその刃を振るう。
一対のスケィスは黄昏の中で交錯し、そして片方が、がくん、と崩れ落ちた。
……それは白いスケィスであった。
◇
多数のデータを欠落し、ボロボロになりながらも《鎧》に寄生される形で生きながらえていたスケィスは、今度こそその身を石へと変えようとしていた。
ケルト文字が悲鳴のように乱舞する。白いスケィスは、いまにもそのカタチを霧散しようとしていた。
抵抗するようにその身を捩るが、しかし崩壊は既に止められなかった。ゼロと化し獲得した知性は――その死に恐怖しているかのようだった。
データの崩壊のさなか、データが明滅するように移り変わっていく。
スケィスが楚良になり、楚良がハセヲになり、ハセヲが楚良になる。
「……お前は」
その変化のさなか、初めて見せる顔があった。
彼は幼い少年だった。Tシャツの膝丈のジーンズを身に着け、少し長めの髪を額に垂らしている。
齢は小学生低学年ほどだろうか。幼くも虚無的な表情を浮かべるその少年に、ハセヲは見覚えがなかった。
けれども、分かった。
彼が誰であるか、一体何者であるのか。
「あの《鎧》か」
《災禍の鎧》が生まれるきっかけとなった、
クロム・ディザスターの“最初の一人”なのだろう。
彼が深い憎悪を抱いたことで、この悲劇は始まったのだという。
そう確信して呼びかけたが、しかし少年は首を振って、
「違うよ、《鎧》はぼくじゃない。ぼくはもう《鎧》の一部でしかない」
そう語る彼の言葉はひどく平坦で、虚無的だった。
「どうして君はぼくと一緒にならなかったのか、よくわからない。
君はバーストリンカーじゃなかったみたいだけど、でも、君の《絶望》はぼくのものにひどく似ていたのに」
「お前は……それでいいのか?」
ハセヲは彼に呼びかけた。
きっと最後になるだろう、つかの間の同居人と会話をすべく。
「自分が誰を憎んでて、何に悲しんでいたのか、そんなことも分からなくなるなんて、俺は御免だ。
絶望を一人背負おうなんて、そんなバカげたことができるとでも思ってたのかよ」
「……君は、強いんだな。すべてを喪って、あれだけ多くのものを奪われて、それでも希望を見ているなんて」
彼はそこで目をひそめた。
それはどこか寂しげに見えた。ハセヲと自分は違う。そう言われたことを、痛感しているようにも見えた。
「ぼくには無理だった。少なくとも、ぼくにはフランのいない世界に希望を見出すことができなかった。
いや許せなかった。フランを奪ったアイツらに、希望を抱かせることが」
「言っただろ? 力じゃ何も取り戻せねえって。
お前が本当に欲しかったもんは、そんなやり方じゃ手に入らねえんだよ」
彼は《鎧》に語りかける。
「自分勝手な思い込みで自分を縛り付けるな。しっかりと目を見開いて、耳を澄ませ。
歩くような速さでもいい。一歩でも多く前へ進め。
そうすれば――きっとお前にも見つけられた筈だ」
「…………」
そう伝えると《鎧》は姿を消していく。
それを見届けたハセヲは無言で手を掲げた。
奪われたものを――取り返す時が来た。
右手より放たれた【データドレイン】がスケィスを貫いた。
そして彼は取り戻していく。1stフォームにまで戻っていたその姿が、元の3rdフォームにまでエクステンドされていく。
同時にウィンドウが小さく開かれた。そこには「アバター“楚良”のプロテクトが解除されました」という表記が出ていた。
「……ごめんね」
ドレインのさなか、声が聞こえていた。
「長い間一人にして。寂しかったよね」
それは少女の声だった。
ボーイッシュなショートカットで、子猫を抱えていた少女の姿が見える。
それと相対する――あの《鎧》の少年の姿も。
「やっと君の声が聞こえた。ずっと……ずっとここにいたんだな、君は。」
「うん、これまでも、そしてこれからも――私はここにいる」
――ファル
――フラン
少年と少女は互いにそう名を呼んで、消えていった。
きっとそこに行き着くまでには果てしない物語があったのだろう。
《鎧》の少年が歩き出したその先に、この結末/オワリはあったのだ。
……そうして、スケィスは今度こそただの石となった。
自我を喪い、元のデータの塊へと堕した。
ハセヲはそれを斬り裂き、“死の恐怖”との因縁に決着を付けた。
今度こそ――彼は過去を取り戻したのだった。
【スケィス@.hack// Delete】
【クロム・ファルコン@アクセル・ワールド Ending...】
【サフラン・ブロッサム@アクセル・ワールド Ending...】
最終更新:2016年09月06日 02:32