※自ブログに転載済み
ダイニングルームで、私は一人お酒を飲んでいる。
「あー、あー」
マスターの部屋から聞こえる私の妹の声。
私の声よりも幾分可愛らしいその声は、一ヶ月前あの子が来てから毎日家の中で響いている。
それと同時に、私の声は家の中に響かなくなった。
「じゃあミク、次はここのところを……」
ミクの声にまぎれながらも、マスターの声が聞こえてくる。
私はコップの中に残ったお酒を煽って一息つく。
「お酒を飲みすぎると、体に悪いよ」
声をかけられて聞こえた方向に視線を向けると、そこには弟のカイトがいた。
その手にはカップアイスとスプーンがあり、どうやら今から食べようとしているらしい。
「あんたこそ、こんな時間にそんなものを食べたら太るわよ」
お返しとばかりにそう言ったら、カイトは笑って答える。
「こんな時間ってまだ十一時だよ、姉さん。
それに別に太るとかそういうのは気にしてないし」
「へー、そう」
私が若干睨みながらそう言うと、カイトは自分が失言したことに気づいたのかその場で固まり、私から手や足が飛んでこないことを確認してから私の座っているテーブルに近づく。
「ミ、ミクは今日も頑張ってるね」
話題を変えるためだろう、そう言いながらカイトは私の座っている席の前に座った。
「私だって、あれくらい……」
私はカイトの方を見ずにそう呟きながらお酒を注いで、また一口飲む。
「え、何? 」
私の呟きは聞こえなかったみたいで、カイトはそう尋ねてくる。
「別に、なんでもないわよ。あんたは男だからいいわよね」
そう答えて、私はまたお酒を飲む。
かなり棘のある言い方になってしまったが、カイトは特に気分を害した様子もなくアイスを口に運びながら言う。
「うん、マスターは歌が下手だからよく使ってもらえるしね」
「お前が今食べているアイスを買うお金を稼いでいるのが誰だと思っているんだ、カイト」
そんな声がダイニングのドアの方から聞こえてきて、そっちの方を向くと、そこにはマスターが仁王立ちしていた。
その後ろではさっきまでマスターの部屋で歌っていたミクがマスターとカイトを見比べながらオロオロしている。
カイトの方をチラリと見てみると、アイスを持ったまま固まって、全く動けない状態にいるようだ。
私は肩をすくめてまたお酒を飲もうとしてもうコップには入ってないことに気づく。
「あ、あの、マスター……。これはですね、その……」
なんとか言い繕おうとしているカイトに呆れながら私は椅子から立ち上がる。
期待をこめてこっちを見てくるカイトをあえて無視して私はお酒とコップを持ってキッチンへ行く。
お酒はミクの手が届かない場所にしまい、コップをシンクで洗う。
ミクはダイニングの二人の様子を窺いながらもキッチンに来て冷蔵庫を漁り始める。
コップを洗い終わった私は拭いた後に乾かす為にそれをかごに置きながらミクに「一本だけにしておきなさい」と声をかける。
「はーい」
そう答えながらミクは冷蔵庫から一本の長ネギを取り出す。
この子が来てから、家のネギは気がつけば無くなるようになっている。
「お姉ちゃんは、もう寝るの? 」
私が部屋から廊下へと出ようとしていると、ミクにそう声をかけられる。
「夜更かしはノドに悪いから気をつけなさい、あと肌も荒れるわよ」
そう答えながら私は廊下に出てミクと共同で使っている部屋に戻る。
部屋の中には、私の物とミクの物が混在している。
中央の開いているスペースに二人分の布団を敷きながら、最初は広く感じたこの部屋が今は狭く感じることに気づく。
二人分の布団、二人分の荷物……。
でも、家の中に響く歌声は、一人分のまま。
私はこのまま歌えなくなるんじゃないだろうか。
今まで敢えて考えないようにしていたことを、ふと思ってしまう。
「馬鹿みたい、そんなわけ、ないじゃない……」
マスターは、きっと今までみたいに私だって歌わせてくれる。
本当ニ?
カイトが来た時だって、それまで通り私は歌ってたから、今回だって大丈夫。
デモ、カイトは男デミクハ女ダヨ?
そんなの、きっと、関係ない。
デモカイトノ時トハ違ッテミクガ来テカラ一ヶ月、ズット歌ッテナイヨ?
何回自分に大丈夫だと言い聞かせようとしても、一度気づいた不安は次から次へと溢れてくる。
「私は、もう、歌えないのかな……」
ポツリと呟いたその言葉が、一人きりの部屋の中で思った以上に響き私は驚いた。
そして両手で頬を叩き「やめ、やめ。悩んだって仕方ないじゃない」わざとそう明るめの声で言って布団に入る。
結局その夜、ミクが部屋に戻ってきて寝息を立て始めても、私は眠ることができなかった。
朝、寝るのはいつもよりも遅かったのに、起きたのはいつもと同じ時間だった。
部屋から出ると、丁度マスターが玄関にいて出かけようとしている所だった。
「あ、マスター、お早うございます。お仕事頑張ってきてくださいね」
私がそう声をかけるとマスターは私の方を見て返事をする。
「あぁ、メイコ、おはよう。
今日一日カイトにはアイスを与えないようにしといてくれないか」
結局昨日カイトは許されなかったらしい。
「それと、今日はメイコも歌うからな」
ついでのように言われたその言葉の意味を私は一瞬理解できなかった。
「……メイコ、どうした? もう歌は歌いたくないとか言うなよ? 」
返事をしない私を不審に思ったのか、マスターがそう尋ねてきた所でようやく私は意味を理解して一気に気分が高揚する。
「は、はい。わかりました」
私がそう答えると、マスターは安心したようで「じゃ、行ってくるから留守はよろしくな」と言って出かけていく。
「あ、マスターは出かけたの?」
カイトが部屋から出てきてそう聞きながらキッチンへと向かう。
「カイト、アイスに指一本でも触れたら家中のアイス全部近所の子に配るからね」
そんなカイトに私はそう声をかけながら私も朝ごはんを作るためにキッチンへと向かう。
カイトはそんな私にすがるような目を向けてくるが、私は気づかない振りをしてそのまま進む。
「姉さん……一個だけ、だめ? 」
「却下」
そんなくだらないやり取りさえも、なんだか楽しく感じられる。
今日は、歌を歌えるんだ。
そして一日が何事もなく過ぎ、ミクと二人でマスターの部屋に呼ばれる。
「はい、じゃあこれ。デュエット用の楽譜。昨日ようやく出来たから本邦初公開」
「マスター、私はそれを毎日のように見てるので初公開じゃないと思います」
マスターが楽譜を私とミクに渡しながらした発言に、ミクがすぐさま切り返しを入れる。
私は久しぶりの新しい楽譜を読みながら二人の会話を聞いている。
「ミク、あれは公開してたと言うんじゃない、覗き見してたと言うんだ。
お前が楽譜に興味を示さずにきちんと練習に専念してたらもう一週間は早くこれをメイコに渡せたんだからな」
「はーい、ごめんなさい」
マスターが注意すると、ミクは舌を出しながら謝る。
「メイコは久しぶりだけど、大丈夫か? 」
マスターに聞かれた私は即答する。
「大丈夫ですよ。マスター、早く練習に入りましょう」
私のその言葉を聞いてミクは慌てて楽譜を読み始める。
「じゃあ最初の部分をメイコだけで歌ってみてくれないか? 」
「はい、分かりました」
マスターの指示にそう答えてから私は大きく息を吸う。
私が持っている楽譜に書かれたタイトルは『song…』
きっといい歌になる、いやきっといい歌にしてみせる。
そう誓って私は最初の音を、歌声を響かせる。
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