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#ref(title.jpg) **事件の概要 第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディは、1963年11月22日金曜日、午後0時30分(中部標準時)、テキサス州ダラスで、市内をパレード中に、デイリープラザで頭部に致命的な銃撃を受け暗殺された。 任期中に死亡した大統領はケネディが8人目で、暗殺された大統領は4人目である。 暗殺事件に関する公式な調査として、ウォーレン委員会が発足し、1964年9月の最終報告で、犯人はデイリープラザに面した、テキサス教科書倉庫の従業員、リー・ハーヴィー・オズワルドによる単独犯行であると結論付けた。 後に、1976年から1979年にかけて、下院の暗殺特別委員会(HSCA)による別の調査が行われ、「陰謀の可能性がある」と結論づけた。 ケネディ暗殺事件に関しては、今日でも様々な陰謀説が唱えられており、世界的な関心の的となっている。 **テキサス遊説まで ケネディがダラス訪問を決定したのは、翌年に迫った大統領選挙で再選されるために、前回の選挙で辛うじて勝利したテキサス州(ダラス市では敗北)での基盤強化を目的とするものであった。 訪問に際して安全上の懸念は以前から指摘されていた。 事件に先立つ10月24日、米国の国連大使アドリィ・スティーブンソンがダラスを訪問した際に、反対派の群集からプラカードなどで小突かれ、押し回されたり、激しい野次を浴びせられる事件が起きたばかりであった。 またダラス市内で狙撃される可能性も指摘されていた。 ケネディ自身も、自分が暗殺されるかもしれないと、パレードを警護するシークレットサービスに仄めかしていた。 ダラス市警は、前月のスティーブンソン訪問時の失態を二度と起こさないように、過去最大級の厳しい警備体制を敷いた。 しかし、一方でシークレットサービスは、通常の警備体制よりも緩やかな体制で、パレードカーを警護するとダラス市警に伝えてきた。結果的には、パレード自体の警備体制は、通常の要人警護と同等の体制で挑むことになった。 後に、ダラス市警本部長のジェシー・カリーは、もう少し重装備の警護を行っていれば、暗殺を未然に防ぐが、最悪でも現場で犯人を取り押さえることができたかもしれないと証言した。 パレードのルートは、ダラス・ラヴフィールド(空港)から市内の中心部を通過して、昼食会場のトレードマートまでと決定された。 パレードに使われる車は1961年製リンカーン・コンチネンタルのオープントップの特別仕様車であった。 防弾仕様の大統領車は1963年当時は使用されていなかった。 超保守派グループのジョン・バーチ・ソサイエティはケネディ訪問日の11月22日の朝刊誌に、黒枠で囲まれたネディ批判の全面広告を掲載した。 ケネディに批判的な複数のグループは、パレードのルートに沿って、抗議のプラカードと提示するなどの散発的な行動を取ったが、進行を妨げるような妨害は無かった。 パレードの隊列は、子供などと握手をするために2回ほど停車した以外は、順調に進行した。 リムジンはメイン通りに入った際に、男が大統領車に駆け寄ろうとしたものの、シークレットサービスに阻止された。 午後0時30分、大統領車は120度の左折を行い、テキサス教科書倉庫ビルの前を通過しようとしていた。 **暗殺 大統領車が教科書倉庫の前を通過する際に、ケネディ大統領に向けて弾丸が発射された。 発砲の時間は諸説あるが、6秒から24秒の間であると推定されている。 発砲時の車のスピードは時速15km/hから20km/hであった。 暗殺の瞬間はザプルーダフィルムにも記録されている。 シークレットサービスのクリント・ヒルは大統領車のすぐ後ろの警護車に乗っていたが、最初の銃声の直後に、車を飛び降りて大統領車に全力疾走で飛び乗ろうとした。 ヒルが、大統領車後部に取り付けられていた護衛用の手すりに届いた瞬間、次の発砲があり、大統領の頭部に命中した。 この時、運転手が車を加速させた為、一旦は引き離されたものの、かろうじて飛び乗り、トランクの上で動転しながら頭蓋骨の破片を拾い集めていたケネディ夫人を席に押し戻し、2人の上に覆いかぶさった。 すぐに車は全速力でパークランド記念病院に向かった。 **その他の負傷者 大統領車に同乗していたコナリーテキサス州知事も銃撃を受けて重傷を負ったが、一命は取り留めた。 医師が後に語ったところによると、コナリー夫人が、知事を引き寄せて膝の上に乗せたことにより、銃撃を受けた肺が窒息状態になるのを防いだとの事だった。 パレードの観客、ジェームズ・ターグもケネディが被弾した場所から280メートル離れた場所で、流れ弾による舗道の破片を頬に受けて負傷した。 **緊急治療室と死亡宣告 外科治療1号室の病院スタッフは、運び込まれたケネディ大統領は一見して、致命傷を受けており、生存できる可能性が、ほとんど無い事がわかった。 午後1時(中部標準時)、心拍と停止が確認され、医師により正式に死亡が宣告された。 以下続く &counter() &counter(today)
#ref(warren.jpg) **ケネディ暗殺事件 単独犯行説 vs 陰謀説の歴史 91年に公開されたオリバーストーン監督の映画「JFK」は第3次ケネディ暗殺ブームを巻き起こした。 米国のテレビ局ABCが2003年の暗殺40周年に実施した世論調査では、ケネディ暗殺事件が陰謀であったとする人の数は実に70%に達した。 一方で、米国の主要なメディアは、陰謀説に対しての取り扱いは冷淡であり、基本的には単独犯行説の支持を貫いている。 また、本事件の直接の被害者であるケネディ家や、当時のケネディに近い側近達は、陰謀説に基づき再調査の依頼を主張した事はない。 さらに米国の司法当局や法曹界も、ほぼ一貫して単独犯行説を支持している。 この温度差は、いかにして生じているのか? 陰謀史観(コンスピラシー・セオリー)的な考え方では、メディアも法曹界も、FBIも、ダラス市警も、目撃者も、全てCIAの陰謀と繋がっている事になるが、それは安易な発想である。  実際には90年代以降に加速した情報公開と、近年の鑑識技術、コンピュータによる解析技術の進化で、ウォーレン報告書のかなりの部分は、正確であったことが立証されつつある。 すなわち陰謀論の多くは幻だったわけである。(これもCIAによる証拠隠滅工作の結果であると考えるのは、完全なコンスピラシー・セオリーである) 一方で、陰謀が全く無かったとする説も逆接的には極論である。 トンキン湾事件、松本サリン事件等、当初の通説とは異なり実際に陰謀が存在する場合もある。 本HPではこのグレー部分を最大限取り除く目的で、ケネディ暗殺学の最新の動向を提供する事を目的とする。 **ウォーレン委員会 ケネディ暗殺事件直後の1963年11月25日、テキサス州の検事総長ヴァゴナー・カールは、暗殺事件の捜査は、公開裁判形式で、FBIの協力の下、テキサス州にて行いたい旨を、ジョンソン大統領に申し入れた。 テキサス州出身のジョンソンもこの方法に同意し、事態が進むかに見えたが、議会から横槍が入った。 仮に、結果がソビエトや、キューバの陰謀による国家元首殺害事件だった場合、戦争に突入する可能性も否定できなかったのである。 そのため調査は、連邦政府管轄で行うものとし、ウォーレン最高裁判所長官の下で、上院、下院、政府から任命された委員が事件の捜査を行う、いわゆる「ウォーレン委員会」が組織された。  この最初の会合は事件から2週間後の1963年12月5日に開催され、1964年6月30日までに報告書を取りまとめるように期限が設けられた。 FBIからは25000ページにも及ぶ膨大な報告書も提供され、本格的な調査が開始された。 しかし、調査の決定的な証拠であった検視写真とX線写真については、ケネディ家より正式に提供を拒否された。 最重要証拠を利用できなくなった事で、困った委員会は、ロバートケネディ司法長官の裁量で、委員長のウォーレンと ランキン委員の2名だけに、検視写真と、X線写真の閲覧を許した。 この出来事が後に大きな混乱を生じさせる原因となった。 委員会は、この時の閲覧を元に不確かな図を元に事件捜査に重要な、弾道を特定しなければならなかったのである。 また、調査も実質的にFBIの調査を追従する形で行われた。 さらにFBIやCIAは全ての情報を開示していない可能性も当初から指摘されていた。 このため、結論を出す過程で、最も紛糾したのは、一発の銃弾による、ケネディとコナリーの負傷だった。(魔法の銃弾説)、不確かな図からは、1964年当時、この説を立証できる技術的なバックグラウンドができなかったのである。 しかし、結果的に、委員会が取りまとめた結論は、オズワルドによる単独犯行、発砲は3発、組織的な背景は無いと結論付けた。  **陰謀説の起源 もともと、オズワルドが射殺された事件は、何らかの口封じではないかと噂されていたものの、当初、ウォーレン報告は、短い期間でまとめられ、周囲からは絶賛された。 個人研究家が、細部での矛盾を指摘することもあったが、単独犯行説が揺らぐ事は無かった。 初期の段階で、陰謀説を提起し、政府を攻撃しようと試みたのは、主に米国における左翼勢力だった。 最初に出版された1965年発行の”Who killedKennedy?”は、ヨーロッパ在住の共産主義者の米国人、トーマス・ブキャナンによるものであった。  1966年に出版されたマークレーン(後の「ダラスの熱い日」の作者)の”Rush to thejudgement”(急ぎすぎた判決)は、初めて陰謀説の本としてはベストセラーとなった。 マーク・レーンは筋金入りの左翼で、いわゆる人権派弁護士だった。 彼は、もともとウォーレン委員会に対してオズワルドの弁護をさせるように要求して、却下された経験を持っていた。  マーク・レーンは、法廷では主に、刑事被告人の弁護を専門とする敏腕弁護士で、その被告人を無罪にするための手法をフルに使って、ウォーレン報告書の矛盾を突いた。 魔法の弾丸、グラシノールの目撃者、3発発砲説の矛盾等の、ケネディ暗殺事件における主要な問題点は、このときに、そのほとんどが構築されている。   マーク・レーンの本がベストセラーになったことを受けて、これ以降、米国の出版会では、ケネディ暗殺物が大ブレークする。  続く &counter() &counter(today)

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