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トップページ - (2006/04/20 (木) 11:49:36) の編集履歴(バックアップ)


事件の概要

第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・F・ケネディは、1963年11月22日金曜日、午後0時30分(中部標準時)、テキサス州ダラスで、市内をパレード中に、デイリープラザで頭部に致命的な銃撃を受け暗殺された。 任期中に死亡した大統領はケネディが8人目で、暗殺された大統領は4人目である。 暗殺事件に関する公式な調査として、ウォーレン委員会が発足し、1964年9月の最終報告で、犯人はデイリープラザに面した、テキサス教科書倉庫の従業員、リー・ハーヴィー・オズワルドによる単独犯行であると結論付けた。 後に、1976年から1979年にかけて、下院の暗殺特別委員会(HSCA)による別の調査が行われ、「陰謀の可能性がある」と結論づけた。 ケネディ暗殺事件に関しては、今日でも様々な陰謀説が唱えられており、世界的な関心の的となっている。

テキサス遊説まで

ケネディがダラス訪問を決定したのは、翌年に迫った大統領選挙で再選されるために、前回の選挙で辛うじて勝利したテキサス州(ダラス市では敗北)での基盤強化を目的とするものであった。 訪問に際して安全上の懸念は以前から指摘されていた。 事件に先立つ10月24日、米国の国連大使アドリィ・スティーブンソンがダラスを訪問した際に、反対派の群集からプラカードなどで小突かれ、押し回されたり、激しい野次を浴びせられる事件が起きたばかりであった。 またダラス市内で狙撃される可能性も指摘されていた。 ケネディ自身も、自分が暗殺されるかもしれないと、パレードを警護するシークレットサービスに仄めかしていた。
ダラス市警は、前月のスティーブンソン訪問時の失態を二度と起こさないように、過去最大級の厳しい警備体制を敷いた。 しかし、一方でシークレットサービスは、通常の警備体制よりも緩やかな体制で、パレードカーを警護するとダラス市警に伝えてきた。結果的には、パレード自体の警備体制は、通常の要人警護と同等の体制で挑むことになった。
後に、ダラス市警本部長のジェシー・カリーは、もう少し重装備の警護を行っていれば、暗殺を未然に防ぐが、最悪でも現場で犯人を取り押さえることができたかもしれないと証言した。
パレードのルートは、ダラス・ラヴフィールド(空港)から市内の中心部を通過して、昼食会場のトレードマートまでと決定された。 パレードに使われる車は1961年製リンカーン・コンチネンタルのオープントップの特別仕様車であった。 防弾仕様の大統領車は1963年当時は使用されていなかった。 超保守派グループのジョン・バーチ・ソサイエティはケネディ訪問日の11月22日の朝刊誌に、黒枠で囲まれたネディ批判の全面広告を掲載した。 ケネディに批判的な複数のグループは、パレードのルートに沿って、抗議のプラカードと提示するなどの散発的な行動を取ったが、進行を妨げるような妨害は無かった。
パレードの隊列は、子供などと握手をするために2回ほど停車した以外は、順調に進行した。 リムジンはメイン通りに入った際に、男が大統領車に駆け寄ろうとしたものの、シークレットサービスに阻止された。 午後0時30分、大統領車は120度の左折を行い、テキサス教科書倉庫ビルの前を通過しようとしていた。

暗殺


大統領車が教科書倉庫の前を通過する際に、ケネディ大統領に向けて弾丸が発射された。 発砲の時間は諸説あるが、6秒から24秒の間であると推定されている。 発砲時の車のスピードは時速15km/hから20km/hであった。 暗殺の瞬間はザプルーダフィルムにも記録されている。 シークレットサービスのクリント・ヒルは大統領車のすぐ後ろの警護車に乗っていたが、最初の銃声の直後に、車を飛び降りて大統領車に全力疾走で飛び乗ろうとした。 ヒルが、大統領車後部に取り付けられていた護衛用の手すりに届いた瞬間、次の発砲があり、大統領の頭部に命中した。 この時、運転手が車を加速させた為、一旦は引き離されたものの、かろうじて飛び乗り、トランクの上で動転しながら頭蓋骨の破片を拾い集めていたケネディ夫人を席に推し戻し、2人の上に覆いかぶさった。

以下続く
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