山小屋バイト体験記

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山荘アルバイト体験記


ピピッ
朝3時45分に目覚ましが鳴る。
眠い。
そうかそうか、山の上にいるんだっけ。
首に巻いていたヘッドランプを頭にはめ、寝床から這い出して、山荘の厨房に向かう。
朝一番の仕事は、お客さんの朝食の準備。
ほかのスタッフたちも眠そうな顔をして厨房に集まってくる。
まだまだ日は昇らないけれども、歯を磨きながら窓の外を眺めると、稜線が黒々とそびえている。おおー。
おはようございます。
さてさて、今日も一日働きますか。

夏休みの前半の一ヶ月間、北アルプスの冷池山荘でアルバイトをした。
北アルプスの真ん中の、爺ヶ岳と鹿島槍ヶ岳の間のコルにある山小屋で、標高は2400mのところにある。2年前の縦走のときに通っていい所だと知っていたから、この山小屋で働いてみようと思った。

一日の仕事


山小屋の仕事は、主には山に上ってくるお客さんに寝床を提供し食事を出すことだが、それ以外にも小屋を維持していく上でやらなくてはいけない仕事はいっぱいあった。
朝は4時か6時に起床。4時に起きなくてはならないのはその日の「早番」で、宿泊客の朝食の準備をする。「遅番」に当たった時には2時間遅れて6時に起きてくればよく、起きてすぐ早番の人が作ってくれた朝ごはんを食べることができるので楽だった。朝食のあと、一日一回のミーティングをして、客室の掃除に入る。布団を畳んで、部屋を掃除して、また布団を敷く。そのときに「本日の布団体制」というのがあった。曜日や時期によって、入るお客さんの数が違うから、それにあわせて布団も準備しなければならない。7月のはじめなんかは、1日に10人しか入らないなどという日も多かったが、夏休みの時期に入ると100人200人が当たり前になり、特に土日は300人近く入った。300人もお客さんが見込まれるときには、「布団体制」は「敷布団1つにつき、2名」になる。廊下とかテラスにも布団を敷く。そうなるとお客さんはとても窮屈だと思う。でも、自分は一度富士山で布団1枚に3名詰め込めれたことがあるから、それよりはましだ。
客室の準備が整ったら、館内の廊下やロビーの掃除をする。箒ではいて雑巾がけをする。毎日入念に掃除するので、山荘内はいつもきれいだった。トイレはその日のトイレ掃除当番が掃除する。(厨房にトイレ掃除当番のルーレットが掛けられていた。小学校みたい(笑))ちなみに、冷池山荘のトイレはなんと水洗だ。雨水で流して、排泄物は特別な土壌成分で分解するようになっている。山小屋のトイレとしてはかなりきれいだった。それでも、やっぱりトイレ当番は少し憂鬱だった。
10時ころには大体掃除が終わって、スタッフは再び厨房に集まって顔をあわせる。お茶を飲みながら今後の仕事の指示を受け、そのあとは休憩に入ったり、お客さんの対応に当たったりする。
3時ころから、もう夕食の準備が始まる。食事のメニューはいつも同じで、おかずは主に冷凍食品を使っていた。山小屋はお客さんの人数が予測しづらく、使える食材も限られているからだと思うが、それでも結構考えられていて、見た目にもおいしそうだし実際おいしい食事だった。食堂の定員は80人だったので、夕食は入れ替えで複数回の食事時間が必要だった。多いときには4回目まであった。僕らはこれを「1ラウンド、2ラウンド」とか「3回戦」「4回戦」とかいっていた(お金を払って食事を食べるお客さんにちょっと失礼ではないかとも思ったが…)。4回戦にまでなると、食事の準備・食卓のセット・片付け・食器洗いという一連の作業を5,6時間連続でやることになり、少々しんどかった。洗うお皿も毎日1000枚はあったと思う。さすがに、洗い物をする手つきも日々洗練されていった。最終ラウンドがようやく終わってひと段落すると、従業員の夕食が始まる。従業員には、ちゃんと肉も野菜も魚も使った手料理が出された。山荘のメンバーはみんな料理が得意だったので、毎日の食事は楽しみで仕方なかった。
ご飯の後片付けが済んだら、一日の仕事はおしまいで、後は就寝だった。7時半にはもう終わっているときもあるし、9時までかかるときもあった。

その他の仕事


登山道の整備も、山小屋の仕事だった。登山道に伸びている草の刈り取り、ハイマツの切断、石の除去等々を行った。これらの作業は、客の少ない平日に小屋の男衆が駆りだされて行われた(小屋の支配人は本当に「男衆」、「女衆」という古風な言葉を使っていた)。7月中は登山道上に雪が残っていたので、雪渓の上に道や階段を作りに行った。今まで、何気なく通っていた道も、小屋の人の絶え間ないメンテナンスのたまものなのだということがよく分かった。
山小屋への物資はヘリコプターで上がってくる。自分の就業中には、2回の荷揚げ作業があった。一回の飛行で、ヘリは5往復ぐらいする。小屋の前の展望台に降ろされた荷物を、従業員総出で小屋の中へと運び入れる。30kgの米俵や、20kgのビール樽や冷凍食品やその他もろもろが次々とあがってくる。ヘリの荷降ろしはひと仕事だった。最後の便で、200kgの灯油が入ったドラム缶が上がってきた。この灯油を使って発電機を回して小屋の電気をまかなっている。このドラム缶を運ぶのが、またえらかった。
ヘリがあるとは行っても、「歩荷(ぼっか)」という言葉は現役で使われていた。ヘリで運び忘れたものを運んだり、同じ会社でやっている隣の種池山荘までの荷物運びがしばしばあった。自分は、この種池山荘までの歩荷が、山荘の仕事の中で一番好きだった。なにせ仕事で北アルプスの稜線を歩けるのだ。天気に恵まれれば、鹿島槍、爺、針の木と緑色に連なる稜線と、西側の、まだ雪の残る剣、立山連峰が見渡された。「中継歩荷」といって、種池山荘のほうからもスタッフが歩いてきて、出会ったところで荷物を交換するという形式だったので、なるべく長く稜線歩きを楽しみたいがために、行きは急ぎ足になった。「じゃあ、丸山君、歩荷行ってきて」という指示が出ると、「やったぜ」と心の中で思う。

小屋の人々


小屋のスタッフは、支配人を除いては一応みんなアルバイトということになっているらしい。途中で増えたり減ったりしたものの、従業員の数は15,6人くらいで、年齢やバックグラウンドがいろいろだった。学生、専業主婦、元消防士、フリーター、等々。7月後半には高校生も一人入ってきた。5年から10年くらいの山小屋でのキャリアをもつ30代の4人が中心的メンバーで、あとはその上下の世代が脇を固めている、という感じだった。みんないい人たちだった。1ヶ月を共にした彼らともう会えないかもしれないと考えると、とても寂しい。
支配人のMさんは、35歳で、僕から見ると、山小屋の支配人を天職とする人だった。小屋の経営を一手にしているだけでなく、電気が点かなくなれば電気工事をし、水道が詰まれば配水管工事をし、とにかくなんでもできる人だった。本人いわく、「子供のころから遊びの天才だった」。大変な博識でもあって、あらゆるトピックについて、語り続けることができた。少し暇なときには、支配人自らが料理の腕をふるってピザを焼いてくれたりした(これが絶品だった)。山荘の経営を自分でも楽しんでいたし、ほかのスタッフを楽しませることができる人だった。理想的な上司だった。Mさん、どうもお世話になりました。

どんなに仕事で疲れても、ちょっと一服小屋の外に出れば、雄大な景色のなかに身を浸すことができる。それが最高だった。これは、ちょっとやめられませんよ。
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