6月10日(日)


本日、《写真》見えるもの/見えないもの における、【なぜ写真なのか】と題した文字通り畳の間で車座になって語る座談会が行われた。3時間にも及ぶ時間にお付き合いいただいた、多くの!観客の皆さんに先ずは感謝。そして、考え方も方法論も違う写真家達の話をまとめていただいた、読売新聞学芸記者の前田さんに感謝。なかなか、現場にいる時は頭が回らずに、後で「これを言っときゃ良かったなあ」というような、後悔があるんだけど、いま家で酔いが醒めながら思う事をメモしておこう。

全体的に、『何を撮るか』派と、『どう撮るか』派に別れたような気がする。冷静に考えれば、比重がそれぞれにおいて違うだけで、それが全く違う価値観ではないのだが、あの場では、その後の共感まで行き着けなかったかな。当然ながら、被写体の意味合いは重要なのであり、それを写真装置を使ってどう表現するか、という事なのだが、それぞれの拘りを話すと違いが明確になり、その次の共通項に到達するのが難しいようだ。写真という太陽のまわりに、様々な衛星が回っているようなもんだと思うんだが。

中平卓馬について、どう思うか、という質問が、観客から出た。私は答えなかったのだが、答えれば良かったな、と思うことを書く。それは、「なぜ植物図鑑か」に代表されるように中平の言葉は美しい。その言葉にウットリしてしまうのは事実である。しかし、私は突っ込みたい。写真装置は確かに世界の複写かもしれないけれども、その装置を操る心の中の神秘についてはどう説明するのか、という事。心の中には、表現したい衝動という発露が有るからこそ写真装置を手にするのである。人は日常のささいな事であれ、合理ではないちょっと手を入れて飾ったりしなければいられない、芸術する動物なのだ。とは、ある地質環境学者の言葉。本当に共感する。
最終更新:2007年06月10日 23:47
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