研究室のガラスは、先端=メディア教育棟が出来た時の象徴的なデザインである。何しろその前の専門教育棟での研究室は鉄の扉で、監獄みたいな造りだったから。
最初は、研究室も部屋として独立したものではなく、オープンなスペースに衝立で区切るような思い切ったアイデアだった。しかし、現実的にガラスの壁にと、建築家は考えたようだ。そのガラスの前に私はしばらく荷物を置き、殆どデザインを活かす事なく使ってきた。ここのところ研究室の活動が熟してきたので、思い切ってギャラリースペースにしてしまったわけだが、まるで最初からそう設計されているかのようなスペースに仕上がった。でも、ゴミだめのようになっている4階のスペースからは明らかに浮き出している。
今日はスペースのことについて書いておきたい。最初に専門教育棟に先端芸術表現科が展開したときは、学生達のアトリエがあり、それぞれに机も準備された。しかしながら、しばらくすると、アトリエはゴミ溜めになり、誰にも使われない空しい部屋になっていった。2年ほど経ってメディア教育棟を建てる時のアイデアの中に、「学生達はそれぞれ外に向かっているので、アトリエは必要ないのではないか」、という意見が主流になった。私とてそれに反対するよりも、写真スタジオや暗室、工作室の充実に真剣になった。メディア教育棟が完成し、カリキュラムも安定し先端という科のアクティビティが明確化し、学生達の制作も盛んになってきた時に、誰もじっくりと大学で制作している姿が見えないことが気になった。それは、「アトリエが無いからではないか」、と私は提案し、音楽環境創造科の移転にともない、それらの先端が貸与していたスペースを学年部屋として固定化し、落ち着いて制作できるようにと築いていった。
それから2年が経った。今現在のメディア教育棟を見渡すと、果たしてそのスペースは有効利用されているのだろうか?「以前のように何も置かずに展示スペースとして使った方が良いのではないか?」と別の考えがよぎってくる。スペースは与えられるものではなく、獲得するものである。予め与えられると、おおかたの学生には貴重なものには見えないらしい。失って初めて気付くのでは遅い。
メディア教育棟が出来た頃は、不夜城であり特別教室以外は使い放題だった。私は私が管理している写真演習室や工作室も、なるべく自由に使わせようと鍵を使うルールを決めて学生に委ねた。私が信頼していた学生は何も問題なく使ってくれた。しかし、そのうち誰だか私のあまり知らない学生が鍵をコピーし持つようになった。またその頃、町を使う学生の展覧会で管理不足から住人にけが人を出し訴訟問題になり、管理についての問題がクローズアップされる。そして私が海外に派遣中に、不幸にも不審者事件がおこり、今までの自由さ(ルーズさ)が完全に見直される。
現在は、助手諸君の大きな負担により、8時までの延長作業が認められるようになった。教員のサインという煩雑な手続きに文句を言う者もいるが、本来は教員の立ち会いのもとという責任の前提なので、これでもあり難い制度だと思う。彫刻科の出身の私にすれば、毎日6時には、建物を出なければならないルールだったので、8時まで居残れるのは朝から作業すればかなりの時間だろう。しかし、上野に比べた取手校地の僻地性からすれば、もっとアドバンテージがあって良いとは感じているが。
研究室の学生など信頼のおける学生を軸に場を管理していけないかと常々思っている。助手だけでは人手不足だから、学生の自主管理が欠かせない。その場のオーソリティと誰もが認める存在を育てたい。休日の使用について、これまでも自身の研究室の学生にこだわらずに、信頼して鍵を預けてきた。それは、個対個の信頼関係からである。今回も学生を信頼し休日に鍵を預けた。しかし、あろうことか、“信頼”のまた貸しをされてしまった。私の知らない学生までもが便乗したのだ。たまたま休日出校の助手によりそれが明らかになった。
皆がいつも自由に使える事は望ましい。しかし、今までそうやって「何かあった」のだ。現実が無理なのは火を見るより明らか。性善説はいつも裏切られる。やはり性悪説として決まり事を作るしか無いのだろうか。
最終更新:2009年10月17日 01:46