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<p><strong>毛利元就年表</strong></p> <table cellspacing="0" cellpadding="1" border="1"> <tbody> <tr bgcolor="white"> <td nowrap>年</td> <td nowrap>西暦</td> <td nowrap>年齢</td> <td>出来事</td> <td>その他の出来事</td> </tr> <tr> <td nowrap>明応六年</td> <td nowrap>1497</td> <td nowrap>1歳</td> <td> 3月14日、安芸国(広島県)吉田の郡山城主、毛利弘元の二男として郡山城内で誕生する。生母は福原広俊の娘。幼名を松寿丸といい、少輔次郎と称する。</td> <td> 3月15日、大内義興が筑前で少弐政資を攻め、肥前の晴気城に敗走させる。<br> 12月22日、大和の土一揆が徳政を要求。</td> </tr> <tr> <td nowrap>明応九年</td> <td nowrap>1500</td> <td nowrap>4歳</td> <td> 3月29日、兄興元の家督相続にともない、父弘元と多治比猿懸(掛)城に移住する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>文亀元年</td> <td nowrap>1501</td> <td nowrap>5歳</td> <td>12月8日、生母の福原氏が没する。享年34歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正三年</td> <td nowrap>1506</td> <td nowrap>10歳</td> <td> 正月21日、父弘元が没する。享年39歳。元就は猿掛城にあって父の後室大方殿(高橋氏)に養育されるが、弘元から相続した多治比の所領が後見役の井上元盛に横領されたため、辛酸をなめる。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正四年</td> <td nowrap>1507</td> <td nowrap>11歳</td> <td> 11月、この月の6日に元服した兄の興元が、主家の大内義興に従って上洛し、永正八年まで四年間在京したため、元就は国元で孤立無援に陥る。</td> <td> 6月23日、家督相続問題の紛糾から、管領の細川政元が養子の澄元や薬師寺長忠らに暗殺される。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正五年</td> <td nowrap>1508</td> <td nowrap>12歳</td> <td> </td> <td> 6月8日、大内義興が前将軍義尹(義材)を奉じて入京し、義尹の将軍還補に従って管領代理となり、幕府権力を握る。</td> </tr> <tr> <td></td> </tr> <tr> <td nowrap>永正七年</td> <td nowrap>1510</td> <td nowrap>14歳</td> <td> </td> <td> 4月4日、李氏朝鮮で三浦(釜山・薺・塩)の乱が起きる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正八年</td> <td nowrap>1511</td> <td nowrap>15歳</td> <td>8月に元服して元就と称する。</td> <td> 8月23日、細川澄元が船岡山の陣所を大内義興に夜襲され、摂津に敗走する(船岡山の合戦)。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十三年</td> <td nowrap>1516</td> <td nowrap>20歳</td> <td> 8月25日に兄興元が享年二十四歳で病没し、その長男幸松丸が数え二歳で跡目を継ぐ。</td> <td> 7月11日、伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦義同・義意父子を相模の新井城に攻め、敗死させる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十四年</td> <td nowrap>1517</td> <td nowrap>21歳</td> <td> 10月22日、元就が安芸国山県郡の有田城に攻め寄せた同国佐東銀山城主、武田元繁の軍勢を城外の中井手に破り、元繁を討ち取る(初陣)</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十五年</td> <td nowrap>1518</td> <td nowrap>22歳</td> <td>8月30日、備後の赤屋(世羅郡)に進撃する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十七年</td> <td nowrap>1520</td> <td nowrap>24歳</td> <td>8月16日、安芸の壬生城(山県郡)を攻略する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永三年</td> <td nowrap>1523</td> <td nowrap>27歳</td> <td> 6月13日、幸松丸を補佐して総軍四千余を率い、尼子経久の本軍と呼応して安芸四条の鏡山城(賀茂郡)を包囲する。27日に城主蔵田房信を切腹させ、翌28日、同城を開城させる。<br> 7月15日、甥の幸松丸が吉田郡郡山城内において、九歳を一期に夭逝したのにともない、19日、志道広良・井上元兼ら老臣の懇請を容れて毛利宗家の相続を承諾する。<br> 7月25日付になる福原広俊ら十五名の老臣連署状が届けられ、郡山入城を促されると、8月10日、吉時の”辛酉の刻”を期して郡山に入城し、宗家を相続する。所信の句は「毛利の家 わし(鷲)のは(羽)を次(継) 脇柱」。この年、長男隆元誕生。母は吉川氏(国経の娘で正室の妙玖)。</td> <td> 4月、細川高国と大内義興の遣明船が明の寧波で争う。</td> </tr> <tr> <td nowrap>大永四年</td> <td nowrap>1524</td> <td nowrap>28歳</td> <td> 4月、尼子氏の老臣亀井秀綱らと謀り、元就の排除を画策したとされる異母弟の相合元綱を謀殺する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永五年</td> <td nowrap>1525</td> <td nowrap>29歳</td> <td> 3月、このころまで尼子氏と断交して大内氏に服属する。6月、安芸の米山城(賀茂郡)主天野興定を降し、28日、興定をして毛利家老臣の志道広良と兄弟の契約を結ばせる。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永七年</td> <td nowrap>1527</td> <td nowrap>31歳</td> <td> 3月、大内氏の老臣陶道麒(興房)に属して武田光和の属城、瀬野鳥子(安芸郡)砦を攻める。ついで7月12日、尼子経久の部将赤穴光清と備後の和智(双三郡=三次郡)で戦う。</td> <td> 2月12日、香西元盛・三好勝長らが京都に進撃し、桂川原で細川高国・同尹賢の軍を破る(桂川原の合戦)。</td> </tr> <tr> <td nowrap>享禄三年</td> <td nowrap>1530</td> <td nowrap>34歳</td> <td> この年、二男の元春が吉田郡郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。少輔次郎と称す。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>享禄四年</td> <td nowrap>1531</td> <td nowrap>35歳</td> <td> </td> <td> 6月4日、細川晴元方の三好元長が、摂津の天王寺に細川高国を攻めて敗走させる(天王寺の合戦)。8日、高国が尼崎で自害する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文二年</td> <td nowrap>1533</td> <td nowrap>37歳</td> <td> 主筋に当たる大内義隆の推挙により、9月25日に従五位下に叙され、翌26日、右馬頭に任ぜらる。この年、熊谷信直を服属させる。三男の徳寿丸(隆景)が郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文三年</td> <td nowrap>1534</td> <td nowrap>38歳</td> <td> 前年の6月から提携していた安芸甲立の五龍城(高田郡)主宍戸元源を正月18日、年頭の祝賀をかねて訪問し、長女を元源の嫡孫隆家との婚儀を調え、父子の契約を結ぶ。<br> 7月、備後の宮城(品治郡)を攻める。包囲攻撃中に城主の宮直信が病没し、子の元盛が降服する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文四年</td> <td nowrap>1535</td> <td nowrap>39歳</td> <td> 3月、備後多賀山城(恵蘇郡)主の多賀山久意が、包囲持久の兵糧攻めに屈し、開城降服する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文六年</td> <td nowrap>1537</td> <td nowrap>41歳</td> <td> 12月1日、長男の隆元を証人(人質)として大内義隆の本拠地周防の山口に赴かせる。19日、山口の築山館で当年15歳の隆元の元服式が執行され、義隆が自ら烏帽子親を務める。</td> <td> 2月10日、駿河の今川義元が甲斐の武田信虎の娘を妻に迎え、信虎と義元の同盟が成立する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文七年</td> <td nowrap>1538</td> <td nowrap>42歳</td> <td> </td> <td> 10月5日、相模の北条氏綱・氏康父子が下総の国府台で古河公方足利義明と里見義尭の軍を破り、義明を殺害する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文九年</td> <td nowrap>1540</td> <td nowrap>44歳</td> <td> 6月、備後路を経由して毛利氏領内に侵入した尼子詮久(晴久)の叔父尼子国久、その嫡子誠久らの軍勢を、宍戸元源の舎弟の祝山城(岩屋城)主、深瀬隆兼の奇策で撃退させる。<br> 9月4日、出雲の月山富田城主尼子詮久の率いる三万余の軍勢が多治比に侵入し、風越山に本陣をすえると、元就は二千四百余の精兵に領内の老若男女をも加えた総勢八千余人で大内軍の救援を待ち、郡山籠城作戦を展開する。9月12日の大田口の合戦の後、尼子軍は大内軍の郡山救援に備えて23日、本陣を城下南方の青山・三塚山間に移したため、26日には坂と豊島の間で両軍が衝突し、毛利方は敵将の湯原宗綱を討ち取る戦果をあげた。<br> さらに挽回を図って総攻撃をしかけた尼子軍に対し、10月11日、伏兵と呼応して挟撃し、詮久の拠る青山の本陣まで追撃して、敵将三沢為幸らの首級をあげる戦果を得た(青山土取場の合戦)。この後の12月3日に陶隆房の率いる大内軍の先鋒隊一万余が城の東南の山田中山に到着する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十年</td> <td nowrap>1541</td> <td nowrap>45歳</td> <td> 正月11日、陶隆房が大内軍の本陣を天神山に移し、郡山城との連絡路を確保する。これに応じて13日、元就は城兵三千を率いて宮崎長尾へ出撃し、さらに隆房の率いる大内軍も青山三塚山の詮久本営を急襲して、尼子軍を撤退に追い込む。<br> 5月13日、安芸佐東の銀山城(安佐郡)主武田信実を3月4日に続いて強襲し、城を落として信実を出雲へ追いやる(安芸の守護家、武田氏の滅亡)。この年、長男の隆元が山口より帰城する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十一年</td> <td nowrap>1542</td> <td nowrap>46歳</td> <td> 正月11日、主筋の大内義隆が一万五千の軍勢を率いて山口を出馬し、出雲遠征の途についたのにともない、元就も長男の隆元とともに途中からこれに参陣する。<br> 3月、上旬に石見の出羽二山に着陣。7月27日、赤穴光清の拠る出雲赤穴城(飯石郡)を攻略する。<br> 11月、義隆が本営を出雲の由木(飯石郡)から同国馬潟(意宇郡)に移したのにともない、元就は白潟(島根郡)に布陣する。</td> <td> 8月23日、斉藤利政(西村勘九郎)が美濃の守護土岐頼芸を追放。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十二年</td> <td nowrap>1543</td> <td nowrap>47歳</td> <td> 正月20日、本陣を宍道の畝地山(意宇郡)に移して軍議を開いた義隆が、富田城の力攻めを採用して2月12日、本陣をさらに経羅木山に 移すや、元就は八幡山宮ノ尾に移陣して飯梨川をへだて、富田城に相対した。そして3月14日、大内家老臣内藤興盛勢と提携して富田城麓の 菅谷口に進撃し、尼子方の牛尾幸清勢を蓮池縄手で撃破した。<br> 続く4月12日、みずから千余の将兵を率いて菅谷口から再度、富田城門目指して進撃したが、迎撃されて退却を余儀なくされた。しかし、こ のころから三沢為清・三刀屋久扶・本城常光ほか、芸・備・石の国衆らの尼子方寝返りが相次いだため、大内軍は義隆の命により、5月7日 を期して全軍が撤退することとなった。<br> 元就・隆元父子の率いる毛利勢は、この日(5月7日)宮ノ尾を撤収すると、星上山(意宇郡)峠を越えて熊野路に至り、古志・後浜(神門 郡)を通って石見に入ったころ、大江坂の七曲で尼子方追撃軍の猛攻に遭遇した。元就自身、身代わりとなって奮闘して果てた渡辺通の働 きに救われて、かろうじて虎口を脱して波根(石見安濃郡)に逃がれ、川本から吉田にほうほうの体でたどりついている。大内軍の殿軍を つとめての苦難で、一説に“元就七騎落ち”などと称される。<br> 6月4日、米山城主の天野興定と誓詞を交換する。8月晦日、二男の小輔次郎が元服し、隆元の偏諱を受けて元春と名乗る。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十三年</td> <td nowrap>1544</td> <td nowrap>48歳</td> <td> 7月、大内軍を撤退に追い込んで意気あがる尼子勢七千余が備後に侵入し、三吉広隆の拠る比恵尾城(三次郡)に迫ったため、これを救 援すべく25日、福原貞俊以下千余人の将兵を率いて郡山城を出馬し、28日に備後の府野(三次郡)に至って尼子勢と戦い、これを撃退する 。11月、三男の隆景が嗣子を儲けずして病没した小早川興景の後継として、竹原(豊田郡)に入城する。当年十二歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十四年</td> <td nowrap>1545</td> <td nowrap>49歳</td> <td> 11月晦日、正室の吉川氏(妙玖)が没する。享年四十七歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十五年</td> <td nowrap>1546</td> <td nowrap>50歳</td> <td>12月、家督を長男の隆元に譲るも、隠居はせず。</td> <td> 4月20日、北条氏康が武蔵河越城救援に出兵し、上杉朝定を討ち、同憲政を上野に、足利晴氏を下総に退ける。12月20日、義晴の子義藤 (義輝)が将軍となる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十六年</td> <td nowrap>1547</td> <td nowrap>51歳</td> <td> 2月21日、二男の元春を吉川興経の養嗣子とする契約が成立する。7月19日、興経が元就・隆元・元春父子に起請文を認め、他意のない ことを誓約する。8月1日、元就との約定にもとづき、興経が居城の新庄火ノ山(小倉山)城を出で布川に隠退し、跡目を元春が相続する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十七年</td> <td nowrap>1548</td> <td nowrap>52歳</td> <td> 6月18日、陶隆房の率いる大内軍とともに備後に進撃し、山名理興の神辺城(安那郡)を攻める。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十八年</td> <td nowrap>1549</td> <td nowrap>53歳</td> <td> 2月14日、元春と隆景をともなって吉田を出発し、山口に向かう。26日に山口に入り、3月1日、築山館に主筋の大内義隆を訪問する。<br> 5月18日、山口浄光寺の宿所を発って帰途につくが、この間、留守を預かる長男隆元と義隆の養女(内藤興盛の娘、尾崎の局)との婚約を調 え、元春の吉川氏相続の承認(4月22日)を得、さらに元春と陶隆房の兄弟契約(4月30日)をも結ぶ。大内家中の混乱(当主義隆と宿老隆 房との対立)に乗じての積極外交で、毛利氏の存在を内外に印象づける。<br> 9月4日、城主の山名理興が出雲に逃亡したのにともない、長期包囲攻撃を強いられていた備後の神辺城が陥落する。</td> <td> 7月3日、イエズス会宣教師シャピエル(ザビエル)が鹿児島に上陸する。</td> </tr> </tbody> </table> <br> <br> <br> すみません、作成中です^^;<br> <p> (プレジデント社 「毛利元就」 堺屋太一、山本七平ほか 1997.02.07 より引用)</p> <table cellspacing="0" cellpadding="0" bgcolor="navy" border="0"></table>
<p><strong>毛利元就年表</strong></p> <table cellspacing="0" cellpadding="1" border="1"> <tbody> <tr bgcolor="white"> <td nowrap>年</td> <td nowrap>西暦</td> <td nowrap>年齢</td> <td>出来事</td> <td>その他の出来事</td> </tr> <tr> <td nowrap>明応六年</td> <td nowrap>1497</td> <td nowrap>1歳</td> <td> 3月14日、安芸国(広島県)吉田の郡山城主、毛利弘元の二男として郡山城内で誕生する。生母は福原広俊の娘。幼名を松寿丸といい、少輔次郎と称する。</td> <td> 3月15日、大内義興が筑前で少弐政資を攻め、肥前の晴気城に敗走させる。<br> 12月22日、大和の土一揆が徳政を要求。</td> </tr> <tr> <td nowrap>明応九年</td> <td nowrap>1500</td> <td nowrap>4歳</td> <td> 3月29日、兄興元の家督相続にともない、父弘元と多治比猿懸(掛)城に移住する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>文亀元年</td> <td nowrap>1501</td> <td nowrap>5歳</td> <td>12月8日、生母の福原氏が没する。享年34歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正三年</td> <td nowrap>1506</td> <td nowrap>10歳</td> <td> 正月21日、父弘元が没する。享年39歳。元就は猿掛城にあって父の後室大方殿(高橋氏)に養育されるが、弘元から相続した多治比の所領が後見役の井上元盛に横領されたため、辛酸をなめる。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正四年</td> <td nowrap>1507</td> <td nowrap>11歳</td> <td> 11月、この月の6日に元服した兄の興元が、主家の大内義興に従って上洛し、永正八年まで四年間在京したため、元就は国元で孤立無援に陥る。</td> <td> 6月23日、家督相続問題の紛糾から、管領の細川政元が養子の澄元や薬師寺長忠らに暗殺される。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正五年</td> <td nowrap>1508</td> <td nowrap>12歳</td> <td> </td> <td> 6月8日、大内義興が前将軍義尹(義材)を奉じて入京し、義尹の将軍還補に従って管領代理となり、幕府権力を握る。</td> </tr> <tr> <td></td> </tr> <tr> <td nowrap>永正七年</td> <td nowrap>1510</td> <td nowrap>14歳</td> <td> </td> <td> 4月4日、李氏朝鮮で三浦(釜山・薺・塩)の乱が起きる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正八年</td> <td nowrap>1511</td> <td nowrap>15歳</td> <td>8月に元服して元就と称する。</td> <td> 8月23日、細川澄元が船岡山の陣所を大内義興に夜襲され、摂津に敗走する(船岡山の合戦)。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十三年</td> <td nowrap>1516</td> <td nowrap>20歳</td> <td> 8月25日に兄興元が享年二十四歳で病没し、その長男幸松丸が数え二歳で跡目を継ぐ。</td> <td> 7月11日、伊勢宗瑞(北条早雲)が三浦義同・義意父子を相模の新井城に攻め、敗死させる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十四年</td> <td nowrap>1517</td> <td nowrap>21歳</td> <td> 10月22日、元就が安芸国山県郡の有田城に攻め寄せた同国佐東銀山城主、武田元繁の軍勢を城外の中井手に破り、元繁を討ち取る(初陣)</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十五年</td> <td nowrap>1518</td> <td nowrap>22歳</td> <td>8月30日、備後の赤屋(世羅郡)に進撃する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>永正十七年</td> <td nowrap>1520</td> <td nowrap>24歳</td> <td>8月16日、安芸の壬生城(山県郡)を攻略する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永三年</td> <td nowrap>1523</td> <td nowrap>27歳</td> <td> 6月13日、幸松丸を補佐して総軍四千余を率い、尼子経久の本軍と呼応して安芸四条の鏡山城(賀茂郡)を包囲する。27日に城主蔵田房信を切腹させ、翌28日、同城を開城させる。<br> 7月15日、甥の幸松丸が吉田郡郡山城内において、九歳を一期に夭逝したのにともない、19日、志道広良・井上元兼ら老臣の懇請を容れて毛利宗家の相続を承諾する。<br> 7月25日付になる福原広俊ら十五名の老臣連署状が届けられ、郡山入城を促されると、8月10日、吉時の”辛酉の刻”を期して郡山に入城し、宗家を相続する。所信の句は「毛利の家 わし(鷲)のは(羽)を次(継) 脇柱」。この年、長男隆元誕生。母は吉川氏(国経の娘で正室の妙玖)。</td> <td> 4月、細川高国と大内義興の遣明船が明の寧波で争う。</td> </tr> <tr> <td nowrap>大永四年</td> <td nowrap>1524</td> <td nowrap>28歳</td> <td> 4月、尼子氏の老臣亀井秀綱らと謀り、元就の排除を画策したとされる異母弟の相合元綱を謀殺する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永五年</td> <td nowrap>1525</td> <td nowrap>29歳</td> <td> 3月、このころまで尼子氏と断交して大内氏に服属する。6月、安芸の米山城(賀茂郡)主天野興定を降し、28日、興定をして毛利家老臣の志道広良と兄弟の契約を結ばせる。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>大永七年</td> <td nowrap>1527</td> <td nowrap>31歳</td> <td> 3月、大内氏の老臣陶道麒(興房)に属して武田光和の属城、瀬野鳥子(安芸郡)砦を攻める。ついで7月12日、尼子経久の部将赤穴光清と備後の和智(双三郡=三次郡)で戦う。</td> <td> 2月12日、香西元盛・三好勝長らが京都に進撃し、桂川原で細川高国・同尹賢の軍を破る(桂川原の合戦)。</td> </tr> <tr> <td nowrap>享禄三年</td> <td nowrap>1530</td> <td nowrap>34歳</td> <td> この年、二男の元春が吉田郡郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。少輔次郎と称す。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>享禄四年</td> <td nowrap>1531</td> <td nowrap>35歳</td> <td> </td> <td> 6月4日、細川晴元方の三好元長が、摂津の天王寺に細川高国を攻めて敗走させる(天王寺の合戦)。8日、高国が尼崎で自害する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文二年</td> <td nowrap>1533</td> <td nowrap>37歳</td> <td> 主筋に当たる大内義隆の推挙により、9月25日に従五位下に叙され、翌26日、右馬頭に任ぜらる。この年、熊谷信直を服属させる。三男の徳寿丸(隆景)が郡山城内で誕生する。母は吉川氏(国経の娘妙玖)。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文三年</td> <td nowrap>1534</td> <td nowrap>38歳</td> <td> 前年の6月から提携していた安芸甲立の五龍城(高田郡)主宍戸元源を正月18日、年頭の祝賀をかねて訪問し、長女を元源の嫡孫隆家との婚儀を調え、父子の契約を結ぶ。<br> 7月、備後の宮城(品治郡)を攻める。包囲攻撃中に城主の宮直信が病没し、子の元盛が降服する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文四年</td> <td nowrap>1535</td> <td nowrap>39歳</td> <td> 3月、備後多賀山城(恵蘇郡)主の多賀山久意が、包囲持久の兵糧攻めに屈し、開城降服する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文六年</td> <td nowrap>1537</td> <td nowrap>41歳</td> <td> 12月1日、長男の隆元を証人(人質)として大内義隆の本拠地周防の山口に赴かせる。19日、山口の築山館で当年15歳の隆元の元服式が執行され、義隆が自ら烏帽子親を務める。</td> <td> 2月10日、駿河の今川義元が甲斐の武田信虎の娘を妻に迎え、信虎と義元の同盟が成立する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文七年</td> <td nowrap>1538</td> <td nowrap>42歳</td> <td> </td> <td> 10月5日、相模の北条氏綱・氏康父子が下総の国府台で古河公方足利義明と里見義尭の軍を破り、義明を殺害する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文九年</td> <td nowrap>1540</td> <td nowrap>44歳</td> <td> 6月、備後路を経由して毛利氏領内に侵入した尼子詮久(晴久)の叔父尼子国久、その嫡子誠久らの軍勢を、宍戸元源の舎弟の祝山城(岩屋城)主、深瀬隆兼の奇策で撃退させる。<br> 9月4日、出雲の月山富田城主尼子詮久の率いる三万余の軍勢が多治比に侵入し、風越山に本陣をすえると、元就は二千四百余の精兵に領内の老若男女をも加えた総勢八千余人で大内軍の救援を待ち、郡山籠城作戦を展開する。9月12日の大田口の合戦の後、尼子軍は大内軍の郡山救援に備えて23日、本陣を城下南方の青山・三塚山間に移したため、26日には坂と豊島の間で両軍が衝突し、毛利方は敵将の湯原宗綱を討ち取る戦果をあげた。<br> さらに挽回を図って総攻撃をしかけた尼子軍に対し、10月11日、伏兵と呼応して挟撃し、詮久の拠る青山の本陣まで追撃して、敵将三沢為幸らの首級をあげる戦果を得た(青山土取場の合戦)。この後の12月3日に陶隆房の率いる大内軍の先鋒隊一万余が城の東南の山田中山に到着する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十年</td> <td nowrap>1541</td> <td nowrap>45歳</td> <td> 正月11日、陶隆房が大内軍の本陣を天神山に移し、郡山城との連絡路を確保する。これに応じて13日、元就は城兵三千を率いて宮崎長尾へ出撃し、さらに隆房の率いる大内軍も青山三塚山の詮久本営を急襲して、尼子軍を撤退に追い込む。<br> 5月13日、安芸佐東の銀山城(安佐郡)主武田信実を3月4日に続いて強襲し、城を落として信実を出雲へ追いやる(安芸の守護家、武田氏の滅亡)。この年、長男の隆元が山口より帰城する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十一年</td> <td nowrap>1542</td> <td nowrap>46歳</td> <td> 正月11日、主筋の大内義隆が一万五千の軍勢を率いて山口を出馬し、出雲遠征の途についたのにともない、元就も長男の隆元とともに途中からこれに参陣する。<br> 3月、上旬に石見の出羽二山に着陣。7月27日、赤穴光清の拠る出雲赤穴城(飯石郡)を攻略する。<br> 11月、義隆が本営を出雲の由木(飯石郡)から同国馬潟(意宇郡)に移したのにともない、元就は白潟(島根郡)に布陣する。</td> <td> 8月23日、斉藤利政(西村勘九郎)が美濃の守護土岐頼芸を追放。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十二年</td> <td nowrap>1543</td> <td nowrap>47歳</td> <td> 正月20日、本陣を宍道の畝地山(意宇郡)に移して軍議を開いた義隆が、富田城の力攻めを採用して2月12日、本陣をさらに経羅木山に移すや、元就は八幡山宮ノ尾に移陣して飯梨川をへだて、富田城に相対した。そして3月14日、大内家老臣内藤興盛勢と提携して富田城麓の菅谷口に進撃し、尼子方の牛尾幸清勢を蓮池縄手で撃破した。<br> 続く4月12日、みずから千余の将兵を率いて菅谷口から再度、富田城門目指して進撃したが、迎撃されて退却を余儀なくされた。しかし、このころから三沢為清・三刀屋久扶・本城常光ほか、芸・備・石の国衆らの尼子方寝返りが相次いだため、大内軍は義隆の命により、5月7日を期して全軍が撤退することとなった。<br> 元就・隆元父子の率いる毛利勢は、この日(5月7日)宮ノ尾を撤収すると、星上山(意宇郡)峠を越えて熊野路に至り、古志・後浜(神門郡)を通って石見に入ったころ、大江坂の七曲で尼子方追撃軍の猛攻に遭遇した。元就自身、身代わりとなって奮闘して果てた渡辺通の働きに救われて、かろうじて虎口を脱して波根(石見安濃郡)に逃がれ、川本から吉田にほうほうの体でたどりついている。大内軍の殿軍をつとめての苦難で、一説に“元就七騎落ち”などと称される。<br> 6月4日、米山城主の天野興定と誓詞を交換する。8月晦日、二男の小輔次郎が元服し、隆元の偏諱を受けて元春と名乗る。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十三年</td> <td nowrap>1544</td> <td nowrap>48歳</td> <td> 7月、大内軍を撤退に追い込んで意気あがる尼子勢七千余が備後に侵入し、三吉広隆の拠る比恵尾城(三次郡)に迫ったため、これを救援すべく25日、福原貞俊以下千余人の将兵を率いて郡山城を出馬し、28日に備後の府野(三次郡)に至って尼子勢と戦い、これを撃退する。11月、三男の隆景が嗣子を儲けずして病没した小早川興景の後継として、竹原(豊田郡)に入城する。当年十二歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十四年</td> <td nowrap>1545</td> <td nowrap>49歳</td> <td> 11月晦日、正室の吉川氏(妙玖)が没する。享年四十七歳。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十五年</td> <td nowrap>1546</td> <td nowrap>50歳</td> <td>12月、家督を長男の隆元に譲るも、隠居はせず。</td> <td> 4月20日、北条氏康が武蔵河越城救援に出兵し、上杉朝定を討ち、同憲政を上野に、足利晴氏を下総に退ける。12月20日、義晴の子義藤(義輝)が将軍となる。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十六年</td> <td nowrap>1547</td> <td nowrap>51歳</td> <td> 2月21日、二男の元春を吉川興経の養嗣子とする契約が成立する。7月19日、興経が元就・隆元・元春父子に起請文を認め、他意のないことを誓約する。8月1日、元就との約定にもとづき、興経が居城の新庄火ノ山(小倉山)城を出で布川に隠退し、跡目を元春が相続する。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十七年</td> <td nowrap>1548</td> <td nowrap>52歳</td> <td> 6月18日、陶隆房の率いる大内軍とともに備後に進撃し、山名理興の神辺城(安那郡)を攻める。</td> <td> </td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十八年</td> <td nowrap>1549</td> <td nowrap>53歳</td> <td> 2月14日、元春と隆景をともなって吉田を出発し、山口に向かう。26日に山口に入り、3月1日、築山館に主筋の大内義隆を訪問する。<br> 5月18日、山口浄光寺の宿所を発って帰途につくが、この間、留守を預かる長男隆元と義隆の養女(内藤興盛の娘、尾崎の局)との婚約を調え、元春の吉川氏相続の承認(4月22日)を得、さらに元春と陶隆房の兄弟契約(4月30日)をも結ぶ。大内家中の混乱(当主義隆と宿老隆房との対立)に乗じての積極外交で、毛利氏の存在を内外に印象づける。<br> 9月4日、城主の山名理興が出雲に逃亡したのにともない、長期包囲攻撃を強いられていた備後の神辺城が陥落する。</td> <td> 7月3日、イエズス会宣教師シャピエル(ザビエル)が鹿児島に上陸する。</td> </tr> <tr> <td nowrap>天文十九年</td> <td nowrap>1550</td> <td nowrap>54歳</td> <td> 2月6日、元春に、合わせて五百貫の地を与える。この月、元春が家臣三十六名を従え、新庄火ノ山(小倉山)に入城する。7月13日、極秘のうちに老臣の井上元兼一族を誅戮する。井上元有を三男隆景の居城竹原に、井上就兼を郡山城にそれぞれ誘き出して謀殺し、さらに彼らの居館を宿老の福原貞俊らの率いる三百騎の軍勢で襲撃させ、元兼父子以下三十余人を斬殺させたものである。事前に主筋の義隆から許可をえ、家中には事後ただちに元兼を弾劾した罪状書を公表することで、その動揺を防いだのだった。<br> 9月27日、元春の岳父熊谷信直や天野隆重らと謀り、吉川興経の隠居所布川(安芸安佐郡)を奇襲して、興経と千法師父子を殺害する。ここに元春の吉川家督の地位が確立し、この10月、小早川氏の家督となって、沼田高山城に入城した隆景と共に毛利宗家を支えるという、毛利両川体制が成立。</td> <td> </td> </tr> </tbody> </table> <br> <br> <br> すみません、作成中です^^;<br> <p> (プレジデント社 「毛利元就」 堺屋太一、山本七平ほか 1997.02.07 より引用)</p> <table cellspacing="0" cellpadding="0" bgcolor="navy" border="0"></table>

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