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ジェンダーフリーとはつまり、「男女が差別なく、同じように生きられる社会」。
一見、何の問題もない非の打ち所のない理想に見える。
一見、何の問題もない非の打ち所のない理想に見える。
私の小学校の時の先生は言った。
「男だから敬称に『くん』、女だから敬称に『さん』をつけるのは良くない。だから僕はみんなを『さん』づけで呼びます。」
そのとき小学校2年生だった私は、素直に「ふうん、確かにそうだなあ」と感心した覚えがある。
でも、今考えるとこの先生の理論はなかなか奇妙なものに見える。
「男だから敬称に『くん』、女だから敬称に『さん』をつけるのは良くない。だから僕はみんなを『さん』づけで呼びます。」
そのとき小学校2年生だった私は、素直に「ふうん、確かにそうだなあ」と感心した覚えがある。
でも、今考えるとこの先生の理論はなかなか奇妙なものに見える。
もうひとつ例をあげよう。
これは聞いた話だが、どこぞの学校では
「『男女』という言葉は、男性が先にきていて差別にあたるので、『女男』にしよう。」
とのたもうたらしい。
「『男女』という言葉は、男性が先にきていて差別にあたるので、『女男』にしよう。」
とのたもうたらしい。
ということは、これはジェンダーフリー支持者の理論で言えば、これは逆に男性に対する差別になりかねない、という疑問が出るがそれはひとまず置いておこう。
大体にして、ジェンダーフリーという思想自体が滑稽なものであるが、その上にこのようなどちらでもいいことで大騒ぎしているようでは、連中もたかがしれているな、と思う。
というよりは、「男」という字が先にくるか後にくるか等というどうでもいいことを(時には我々の血税を使ってまで)議論する暇があるなら、もっと深刻な差別に目を向けるべきである。
大体にして、ジェンダーフリーという思想自体が滑稽なものであるが、その上にこのようなどちらでもいいことで大騒ぎしているようでは、連中もたかがしれているな、と思う。
というよりは、「男」という字が先にくるか後にくるか等というどうでもいいことを(時には我々の血税を使ってまで)議論する暇があるなら、もっと深刻な差別に目を向けるべきである。
これは差別問題についての論点のすりかえ、というよりかは、自分たちの「ジェンダーフリー」という思想が行き詰まったので、とにかく議論のタネ欲しさにこのような話題に飛びついたとしか思えない。
せめて真面目に差別問題について議論するならまだしも、もはやこれは愚の骨頂といえよう。
せめて真面目に差別問題について議論するならまだしも、もはやこれは愚の骨頂といえよう。
トルストイは彼の著した本「人生論」の中でこういっている。
「どの考察においても大切なのは、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること、つまり、みのり多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考えるべきかをわきまえねばならぬということ(中略)さらに、この順序の決定は、偶然ではなく、考察の行われる目的によるのだ」
「どの考察においても大切なのは、考察そのものよりむしろ、その考察の占める地位であること、つまり、みのり多い考え方をするためには、何を先に考え、何をあとで考えるべきかをわきまえねばならぬということ(中略)さらに、この順序の決定は、偶然ではなく、考察の行われる目的によるのだ」
僕にはどうしても、僕の教師が提示した敬称の問題や、「男女」の並びの問題の占める地位が大きいとは思えない。
それなのに、彼ら(いや、おそらく主には「彼女ら」なんだろうが)はそのようなことで大騒ぎする。
トルストイの言葉をかりると、彼らは考察の順序の決定を誤ってしまったとしか思えぬのだ。
それなのに、彼ら(いや、おそらく主には「彼女ら」なんだろうが)はそのようなことで大騒ぎする。
トルストイの言葉をかりると、彼らは考察の順序の決定を誤ってしまったとしか思えぬのだ。
昔の「封建」といわれた男性上位主義は確かに良くない面もあった。
しかし、石原慎太郎氏も同じようなことを言っていたが、家庭における「父親」「母親」果ては「子供」の地位までを平等にしようとする、
ジェンダーフリー至上者の考えは、明らかに間違っている。
全てを平等にしたら、家庭にせよ、軍隊にせよ、国家にせよ統制が利かなくなる。
家庭で言う父親のように、軍隊で言う大将のように、国家で言う元首のような存在は必要不可欠であり、其をも差別と呼ぶならば、もうどうしようも無いと思う。
しかし、石原慎太郎氏も同じようなことを言っていたが、家庭における「父親」「母親」果ては「子供」の地位までを平等にしようとする、
ジェンダーフリー至上者の考えは、明らかに間違っている。
全てを平等にしたら、家庭にせよ、軍隊にせよ、国家にせよ統制が利かなくなる。
家庭で言う父親のように、軍隊で言う大将のように、国家で言う元首のような存在は必要不可欠であり、其をも差別と呼ぶならば、もうどうしようも無いと思う。
というと、別に家庭の権力バランスを母親(女性)中心にしても問題ないであろう、という反論がどこぞから聞こえてきそうだが、以下に反論をのべさせていただく。
このようなジェンダー思想のおかげで、年々男性の権限は弱まっている。
それは仕方が無いにしても、家庭内での父親という地位は尊重されなければならないと思う。
父親は、母親とは基本的に役目が違う。
父親の役目は、その子供に自分の背中を見せることである。
そして、子供が間違っていたら時には殴ってでも、子供の目を覚まさせるのが父親である。
後述するが、子供を殴ることができるのは基本的に父親だけなのだ。
それは仕方が無いにしても、家庭内での父親という地位は尊重されなければならないと思う。
父親は、母親とは基本的に役目が違う。
父親の役目は、その子供に自分の背中を見せることである。
そして、子供が間違っていたら時には殴ってでも、子供の目を覚まさせるのが父親である。
後述するが、子供を殴ることができるのは基本的に父親だけなのだ。
母親が父親を尊重しない(尻に敷く)家庭では、子供は必ず駄目になるであろう。
子供は母親と接する時間が長い。
その母親が、子供の目の前で父親を、なおざりに扱ったり、悪口を言ったりする。
子供はそのような母親の態度を見て、父親を尊敬しなくなり、更には父親の悪口を言う母親も尊敬しなくなる。
そして子供は尊敬する対象を見失い、親の言うことを聞かず非行に走ってみたり、職にいつまでもつかなかったりということになる。
子供は母親と接する時間が長い。
その母親が、子供の目の前で父親を、なおざりに扱ったり、悪口を言ったりする。
子供はそのような母親の態度を見て、父親を尊敬しなくなり、更には父親の悪口を言う母親も尊敬しなくなる。
そして子供は尊敬する対象を見失い、親の言うことを聞かず非行に走ってみたり、職にいつまでもつかなかったりということになる。
むろん、父親が母親を尊重しない(封建的)家庭においても、無論子供は駄目になる。
母親の優しさ(母性)を受けずにそだった子供は、優しさに欠ける子供になる。
母親の優しさ(母性)を受けずにそだった子供は、優しさに欠ける子供になる。
片親で父親がいない家庭は仕方が無い。母親がしっかりしていればいいだけの話だ。
しかし、両親がそろっている家庭では、父か母のどちらかがどちらかの立場を譲りあいながらやらなければならない。
しかし、両親がそろっている家庭では、父か母のどちらかがどちらかの立場を譲りあいながらやらなければならない。
子供にとって親父の叱責ほど恐ろしいものはない。
特に男の子など、小さい頃は母親の言うことも素直に聞くが、成長するに従い、母親を体格の面でも追い越すようになる。
そうなると、母親の言うことをだんだんと聞かなくなってくるのだ。
しかし、父親というのはまだまだ子供にとって肉体的にも精神的にも追い越しがたい存在であり、肉体的には発達したが精神的には未発達の子供を叱責できる、場合によっては拳を使って叱責することもできる、唯一の人物になる。
(これは差別ではなく、事実を言っているのみだ)
特に男の子など、小さい頃は母親の言うことも素直に聞くが、成長するに従い、母親を体格の面でも追い越すようになる。
そうなると、母親の言うことをだんだんと聞かなくなってくるのだ。
しかし、父親というのはまだまだ子供にとって肉体的にも精神的にも追い越しがたい存在であり、肉体的には発達したが精神的には未発達の子供を叱責できる、場合によっては拳を使って叱責することもできる、唯一の人物になる。
(これは差別ではなく、事実を言っているのみだ)
だからこそ、子供が母親を追い越し、それの言うことを聞かなくなったときになお、父親はその権威を保持している必要がある。
母親ばかりが増長して、父親の権威が無い家庭では、子供を叱責する人間がいずれ居なくなり、其は、即ち家庭の崩壊を意味する。
母親ばかりが増長して、父親の権威が無い家庭では、子供を叱責する人間がいずれ居なくなり、其は、即ち家庭の崩壊を意味する。
カテゴリ: [政治] - &trackback() - 2006年01月21日 12:43:47