日本(Japan)
キャンペーン
国家詳細
使用可能期間:1930年から1946年
使用可能期間の延長は本土決戦を行えるようにするものである。それには連合国が思っているより長くかかったであろう。その場合は原子爆弾が「失敗」にしかならなかったであろう。
日本軍は歩兵と馬がけん引する兵器の軍隊である。日本軍は実際のところ1941年と非常な攻勢時にしか西洋連合国に対して脅威とはならなかった。これは主に大英帝国軍部隊がナチスドイツとの戦いへと引き抜かれてしまっていたこと、合衆国陸軍がその当時フィリピンには数個の駐留部隊しかおいておらず、本国にさえそう多くの部隊を置いていなかったためであった。そしてその時代の白人は自分たちがメガネをかけた小柄な黄色人種に対して優位にあると疑いようもなく信じていたのである。ゼロ戦と長射程魚雷は激しい衝撃であり、日本兵の頑強さもそうであった。日本兵の残虐性についてはそうではなかった。なぜなら彼らはこれを中国と朝鮮である程度十分な期間にわたって既に見せつけていたからである。戦場で天皇のために死ぬことは名誉であり、生きて虜囚となることは大きな不名誉であるという信念と結びついた日本兵の堅い意思と勇敢さは連合国の部隊にとって苦い驚きとなった。WWII最後の数年間での十分な数的、技術的優勢にもかかわらず死ぬまで頑強に戦う日本軍は危機的状況を生じさせ連合国軍の作戦を遅らせたのである。
日本軍の歩兵はおそらく世界で最も練度の高い部隊であろう。夜戦と近接戦闘の特殊訓練を全ての兵士が受けており、1941年からはジャングル訓練も開始された。他の軍では特殊部隊しかそのような訓練は受けていなかった。陸軍と海軍陸戦隊(SNLF)は中国でのいくつかの紛争により十分な経験を獲得していた。
近衛部隊は精鋭部隊である。近衛部隊はマレーシアで、後に中国で戦った。いくつかの小部隊はベティオにも駐留した。日本軍はパラシュート1個師団を保有しており、後に空挺部隊の組織を開始した。パラシュート兵はスマトラ島のバレンパンで最初に作戦に参加した。
日本軍の戦車は中国を除いてどの国の戦車に対しても全く絶望的である。更に後の数車種についても使用可能にはなっているが、これらはほとんど量産が行われず、量産されたものでも50両程度以上にはならなかった。しかし本土決戦ではそのうちの数量に遭遇することになったであろう。
日本軍の対戦車兵器も限定されたものである。長砲身47mm砲はシャーマンを側面から撃破できるものの、最上の対戦車兵器は歩兵の近接強襲である。これは刺突爆雷や梱包爆弾を用いた場合は「特攻」となる場合もあった。日本軍は毒ガス―催涙ガスやシアンガスを詰めたガラス瓶を戦車に対して用いることもあった。これらを使用することで乗員を車外に出させ、これを片付けるのである。しかしこれらは稀であった。70mm歩兵砲は後になるとHEAT弾を保有するようになるが、それでもシャーマンを止めるには不十分であるが、そのような兵器で連合国のグラントやスチュアートは撃破された。1944年日本軍は良好な射程と精度を持つ70mmロケットランチャーを開発したが、その貫通力はバズーカよりも低かった。3000挺が生産された画これらは本土防衛用に回された。また日本軍は無反動砲の実験を行ったがこれらが量産されることはなかったのである。
90式75mm野砲は1943年には対戦車砲の役割を押し付けられた。それまで90式野砲はAP弾を保有していなかった。90式野砲はシャーマン戦車に対してすらよく戦った。後の改良版たる3式戦車砲はチヌに装備された。気を付けるべきは90式野砲は対戦車砲ではないということである!その大きさは野砲のそれなのだ。
50mm擲弾筒は「ニーモーター(膝撃ち迫撃砲)」という誤った認識による呼ばれることもある間違って「ニーモーター(膝撃ち迫撃砲)」と呼ばれることもある。50mm擲弾筒はまた対戦車戦闘においても非常に効果的だと証明されている。日本軍は地雷を用いなかったとの伝説がある。実際日本軍は地雷を用いたのだが、莫大な量は保持しておらず、対戦車地雷に集中していた。しかし日本軍は対戦車障害のような工兵障害を用いることを好んだ。それゆえ対戦車地雷は特殊攻撃分隊によってマニュアル通り戦車の上におかれる傾向があった。
日本軍の航空機は初期においては連合国軍にとって大きな驚きであったが、それも長くは続かなかった。だが日本軍はいくつかの派生形で37mm砲と20mm砲を装備した屠龍や4基の20mm砲を装備した紫電改などの抜きんでた設計の航空機を量産し続けた。1945年には日本軍最初のジェット機、菊花が出現した。存在したのはプロトタイプのみであったが、もし合衆国軍の侵攻があれば限定数生産されることになったであろう。
日本軍の砲兵は稀であったが、迫撃砲は常に存在し良く運用された。97式150mm重迫撃砲は約110基という限定的な数だけ生産された。32cm差込型迫撃砲は短砲身の巨大な爆弾投射兵器である。これは香港とフィリピンでおそらくは防御施設に対して運用された。
自転車部隊はインドネシアとインドシナで召集され、植民地の良好な道路網を活用した。
日本軍のスキー部隊は北海道と満洲にとどまっていた。戦闘記録は不明である。
ロケットランチャーは主にシナリオのためのものである。これらは筒や単に傾斜レールから発射されたが、いくらかの事例では米海兵隊に問題を引き起こさせている。
日本軍は狙撃兵を大いに活用した:それゆえ通常は1名の狙撃兵ユニットであるが日本軍には2名からなる狙撃兵ユニットが存在する。
装甲船や砲艦は中国で河川警備のために用いられた。これらは限定的ながら積載能力を持ち、歩兵の小集団を輸送可能である。砲艦と武装付大発は河川輸送の警護に用いられた。大発にはいくつかの種類が存在する。これは上陸戦に用いられた派生種のことをあらわしている。
三十一型哨戒艇(訳者注:WinSPWW2ではCh-13 class Patrol Boatとなっているが13ではなく31である可能性が高い)。これはまた沿岸警備と短距離砲撃にも用いられた。
最終更新:2014年07月17日 01:37