満洲国(Manchukuo)

シナリオ

キャンペーン

シングルバトル


国家詳細

使用可能期間:1932年3月から1945年8月まで

1931年に日本軍は満洲を侵略した後、1932年2月18日この地域を満洲国として中国からの独立を宣言した。日本軍は1932年満州族の王朝清の最後の中国皇帝溥儀を執政につけ、1934年彼は「康徳帝」の名で満州国皇帝となった。この地域は豊富な天然資源と強力な工業力を持つ地域であった。

第2次世界大戦に先立ち、日本軍は満洲国を植民地化しこれを中国への侵略拠点として用いた。1939年夏、満洲国とモンゴルの国境論争からハルハ川戦争(ノモンハン事件)が勃発し、ソ連・モンゴル連合軍が日本の関東軍と満洲国軍連合軍を撃破した(シナリオ074の「ハルハ川」1939年5月参照)。しかしこの地域ではいくつかのその他のソ連との国境紛争が1939年からあり、これは1945年まで続くことになる。

1945年8月8日、ソヴィエト連邦はヤルタ会談での極東密約に基づき日本に対して宣戦布告、「8月の嵐」作戦により外満洲から満洲国へと侵攻を開始した。ソ連軍の攻勢で、理論上は20万もの兵力で良質な装備を持ち、日本軍の戦列で訓練されたはずの満洲国軍はほとんど活躍できず全部隊が一弾も撃たずにソ連軍に降伏した;武装暴動をして日本軍に反乱を起こした事例すら存在した。戦争はこの点までには狂信者のみが戦い続けることを欲し、他の全てはただ家に帰ることを望むような状況になっていたのである。

ある程度の数の日本軍のトラック車体を用いた軍用車両に加え日本軍の92式重装甲車30両を満洲国軍は保有していた。満洲国軍の保有していた装軌装甲車にはルノーNC27軽戦車、イギリス製のカーデンロイドMk VI豆戦車、そしてひょっとしたら日本軍によって1931年に殺害されるまで満洲地方を支配していた張作霖の軍から残っているルノーFT-17軽戦車がいくらかあったかもしれない。満洲国軍はその最後の数年で日本軍より新しい戦車を数両受領している。1943年、日本軍は満洲軍に装甲中隊を編成するために使用されていた型落ちの94式豆戦車10台を「貸与」していた。

1945年から1948年にかけての中国内戦で満洲は国民党に対する人民解放軍の根拠地として機能した。ソヴィエトの援助により、内戦が終わる1949年まで中国共産党は満洲を足場として用いた。満洲軍と関東軍の人員は中国内戦中に共産党の部隊で国民党軍と戦うことになった。

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最終更新:2014年07月16日 02:21