スロヴァキア共和国(Slovakia Republic)
キャンペーン
国家詳細
使用可能期間:1939年4月~1943年10月
このOOBは1939年の成立から最後の実戦を行った
1943年10月までのスロヴァキア軍をカバーしています。
9月29日、ミュンヘン協定がドイツ・イタリア・フランス・イギリスによって締結された。チェコスロヴァキア政府は9月30日に屈服、協定に従うことに同意した。1939年3月14日、スロヴァキアは独立を宣言、自らをスロヴァキア共和国と呼んだ。
スロヴァキアはポーランド侵攻に参加した唯一の枢軸同盟国であった。ドイツ国防軍最高司令部は
1939年9月ドイツ軍のポーランド侵攻にスロヴァキア軍の補助を要請した。スロヴァキア軍は成立してからまだ6か月しかたっていなかったが、2つの戦闘集団がこの戦役のために新設された。1番目の集団は6個歩兵大隊、2個砲兵大隊、戦闘工兵1個中隊からなる旅団規模の部隊である。2番目の集団は騎兵とオートバイ偵察部隊2個中隊、9個自動車化砲兵中隊からなる機動部隊である。この2つの戦闘集団は南ポーランド地域で戦闘を眺めることとなった。
スロヴァキアはドイツ軍がソ連に侵攻を開始して4日後にスロヴァキア海外派遣軍集団をソ連に送っているがスロヴァキア軍は主に兵力4500のスロヴァキア軍集団を輸送してドイツ軍の進撃に追従できる機動戦力の大きな不足によりソヴィエト連邦を大軍で席巻するドイツ軍に遅れを取ることになる。スロヴァキア軍集団がドイツ軍の進撃について行くことができなかったことにより、そうする能力を得るべく1941年機動部隊が追加された。これは以前のスロヴァキア軍集団の自動車化部隊をスロヴァキア軍機動コマンド部隊、またの名をピルフォセク旅団として知られる単一の部隊に編成するものであった。この部隊は1個自動車化歩兵大隊、戦車中隊2個からなる1個戦車大隊、2個対戦車中隊、1個支援火器中隊、1個オートバイ中隊、1個自動車化工兵小隊からなっていた。
スロヴァキア軍はソ連侵攻から数か月の間に更なる部隊再編を経験することとなった。
1941年8月初頭、スロヴァキア軍集団は戦線から引き抜かれ自分たちが参加する作戦により適した新しい2つの部隊に再編された。スロヴァキア軍集団の最良の部隊は2つの新しい師団、第1スロヴァキア(機動)歩兵師団(またの名を「スロヴァキア高速師団」)と第2スロヴァキア(防衛)歩兵師団に編成された。1941年中期までには第1スロヴァキア(機動)師団は戦線(今回はキエフ付近)に戻った。キエフの陥落の後はスロヴァキア機動師団は南方軍集団の予備へと移行した。10月、機動師団はドニエプル川付近の地区の東側のGolubowkaとPereshchinoで戦う第1装甲軍の一部となり、後にマリウポリとタガンログ周辺での戦闘に巻き込まれた。1941~42年の冬の間、機動師団はミウス川で陣地を守った。1942年、機動師団はドイツ軍のコーカサス地方への進撃に参加し、重要なソヴィエトの都市ロストフへの攻撃と奪取における重要な役割を果たした。
1942/1943年の冬のスターリングラードの戦いの後、第1スロヴァキア(機動)師団はコーカサス地方から撤退の命を受け、Saratowskaya付近でほとんど包囲されて罠にはめられそうになったが何とかして脱出した。機動師団の残存は航空輸送によりクバンから離れたが、そのすべての重装備と兵器を残して行くことを強いられた。機動師団の残存部隊はシヴァーシュ・ペレコプ地峡を通っての撤退を支援するのに用いられた。最終的にメリトポリ周辺の地域で機動師団はドイツ軍戦線を突破して来た大規模なソ連軍の奇襲攻撃に遭い潰走、2000名以上がソ連軍の捕虜となった。そして潰走・撃破された機動師団は戦線から覗かれることとなった。そのすぐ後、1943年11月1日、部隊からの脱走による問題の継続により、第2スロヴァキア(防衛)師団は武装解除されイタリアのラヴェンナに移動し建設旅団としての役割を果たすことになった。
これがこのゲームでカバーされている期間の終わりとなっている。スロヴァキア軍の最後の大規模戦闘行動は1943年ウクライナのメリトポリでの戦闘であり、これがこのOOBの終わりとなります。新たな機動師団が1944年初頭に編成されているが、これは以前の部隊を名前だけ復活させたものにすぎなかった。新たな部隊は
「タルタルコ戦闘集団」と呼ばれたがたった士官12人、下士官13人、兵士775人しかいないものであり、クリミア地方の防勢作戦に送られ、機動師団の残存は南方軍集団の戦線の後方で警備作戦に用いられていた。
1944年6月、最後に残った師団も戦線から下げられ武装解除された。残存部隊は戦闘においてずっと信頼がおけなかったため建設旅団に再編された。
最終更新:2014年07月14日 12:57