第276突撃砲旅団

  • ドイツ 対 ソ連
  • 943年秋~1945年3月
  • 7回戦
第276突撃砲大隊(後に旅団)は独立した突撃砲部隊の中で最も称賛を受けている部隊の一つである。この部隊は1943年に組織され、東部戦線で行われたいくつかの熾烈な戦闘に参加した。第276突撃砲大隊は1945年に東プロイセンで戦闘を終えることになる。

このシナリオではその精鋭部隊1個中隊を指揮し、自分の「突撃砲部隊」でウクライナのステップから東プロイセンの極寒の森まで7つの戦闘を行うことになる。

難易度:中程度。ほとんどの戦闘でMVが次の戦闘に進む必要条件となる。キャンペーンのDVのためには最低でも19ポイントが必要である。(DV=3、MV=2、引き分け=1)。貴官の幸運を祈る!

戦闘背景:

国防軍の突撃砲(「sturmgeschutz」の最も適切な翻訳)部隊は砲兵の管轄下におかれ、このことはその組織、装備、運用にある程度の影響を及ぼしていた。

それぞれの大隊(Abteilung)は3個突撃砲中隊からなり、それぞれの中隊は人員面で通常の砲兵1個中隊とおおよそ同程度になる6両の突撃砲を装備していた。大戦の間にその車両数は10、最終的には14台にまで増加した。

早期からより大口径のHEの運用能力が求められたためそれぞれの中隊がより大口径の105mm LeFH 18榴弾砲装備の突撃砲(StuH)3両を保有するようになった。大戦後期にはハーフトラック・トラック・あるいは突撃砲自体に乗る随伴(Begliet)歩兵中隊がいくつかの部隊に加えられた。

この継続的な規模の増加により1944年前期に大隊から旅団への再編成が行われた。特殊な砲兵部隊から突撃砲旅団はより強力な諸兵科連合攻撃部隊になったのである。

突撃砲旅団は歩兵師団の支援部隊として一気に投入されることを意図しており、小規模部隊に分割されるものではなかった。残念ながら東部戦線の常にいっぱいいっぱいな戦況により戦闘の突撃砲中隊を個々に必要な地点に投入するという運用を行わざるを得なかった。しかしながらどこに投入された場合でも、これらの突撃砲は戦列の歩兵に非常な歓迎を受けた。

この部隊の砲兵部隊としての遺産の一つがほとんどのドイツ軍戦車の搭載しているものより優秀な砲兵型のペリスコープ照準器である。これらは突撃砲の低いシルエットと合わさってこれを強力な戦車キラーにもしたのである。突撃砲部隊は大量の敵戦車撃破数を積み重ねたのである。

第276突撃砲大隊の概要:

1943年6月に編成され、まず1943年9月にブリャンスクに配置され、1944年初頭にはコロステンに配置されていた。旅団はカメネツ-ポドリスキーでほとんどの車両を失ったが人員は撤退に成功した。そして再編され1944年8月リトアニアに送られた。1944年秋と1945年春の間東プロイセンのいくつかの陸分部隊の指揮下に入っていた。

出典:Fleischer著「The Combat History of Sturmgeschutz Brigade」、276ページ

キャンペーン作成:C.B. BlackardおよびDoug McBratney




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最終更新:2014年08月01日 22:36