実際に氷河時代が再来した時、果たして人類はどう対抗するのか?
あらゆる学者が盛んに議論を交わしてきた命題であるが、いざ実際に世界が雪下に沈んだ時、その結論はあまりにも明確な形で示された。
解答は『何もできない』だ。数多の想定を超えて押し寄せる終わらない大寒波は、賢しらに築かれた人類の共栄圏を完膚なきまでに蹂躙し、次から次へと崩壊せしめた。
それに加えてあの呪わしい祝福だ。コミックの世界にしか存在を許されなかったミュータントが人類の基本形となり、力を手に入れた子供のように稚拙で無法な殺し合いが、滅亡の進行に拍車をかけた。
世界を絶え間なく揺らした戦争がようやく終わった時、地上から国家という制度は消え失せて、インフラとテクノロジーは生みの親に先駆けてその生涯を終えた。極寒の氷河時代に対抗できる設備など雀の涙で、文明は中世レベルまでの後退を余儀なくされた。
極東、かつて日本と呼ばれていた国の辺境。切り立った崖の上に慎ましく鎮座するこの教会に、最後に来客があったのは一体いつだったか。
力による現状変更を、誰しも容易にやれるようになった時代、神を信じるということに値打ちを感じる者は、もはや絶滅危惧種となって久しかった。
荒れ果て、埃と黴の匂いが渦を巻き、凍てつく潮風に撹拌されて不快のマリアージュを醸し続ている、廃屋同然な神の家。
来る日も来る日も握り締めて歪んだロザリオを抱いた、一人の修道女がそこにいた。彼女が跪いて祈る十字架も小汚く変色し、父なる神が既に不在であることをこれ以上ない分かりやすさで物語っている。
「ご満足ですか、主よ」
呟いて、流血するほど強くロザリオを握る。それはもう愛に満ちた祈りではなく、怨嗟を捧げるための呪いと化していた。
ここにあるのは底なしの憎悪と失望だ。かつて抱いた信心が純粋であればあるほど、反転した時に生じる闇は深遠になる。
「あなたが見放した我々は痩せ細り、善き心を喪って日がな一日殺し合っていますよ。あなたが望まれた滅びの時は遠からず現実になるでしょう。隣人同士で殺し合い、親は乳飲み子を絞め殺し、誰も彼もが糜爛している。救いなど何処にもありません」
女は、誰よりも神の愛に期待した聖職者だった。
たとえどれほどの不幸に苛まれようと、善き心と信仰を標に歩んでいればいつか必ず福音は降り注ぐ。そう信じ、悩める者に説いてきた。だからこそ、それが嘘っぱちだったと知った時の絶望も誰より大きかったのだろう。
「あなたがそれを奪い去ったのだ。我々から、私の愛する箱庭から」
かつて誰もの母たらんと努めた聖女の身体も、今やその他大勢と同じように、神の禍呪によって汚染されている。
手前勝手に救いを奪い、呪いを押し付け、私がこれまで捧げてきた祈りさえ侮辱するのかと女は憤怒していた。
秦皮のロザリオが砕け散って、空を握った掌から一滴の血が垂れ落ちる。
床に落ちたそれがぽちゃりと音を立てたその瞬間が、彼女の信仰の終焉だった。
「……理解した、もはやおまえは要らん。天の神など無用の長物。おまえが我が子らを救わないというのなら、私がこの手で人の王国を築くまで」
――絶海の孤島と化したある極東の島国で、美しい救世主が立ち上がったという。救世主は硝子の瞳を持ち、鉄の杖を突いている。その手が翳されるだけであらゆる傷病はたちどころに癒え、踏み締めた地面には花が咲く。
そんな噂が山越え凍てつく海越え、息の詰まるような困窮した世界に聞こえ始めたのは、最後の聖者が堕天したこの日を境にしてのことだった。
◇ ◇ ◇
終末の後に生まれた子供は、青空というものを知らないらしい。
全球凍結現象(スノーボールアース)。学校で教わる知識としてしか知らなかった氷河期という現象が地球を覆って、今日でちょうど五年になる。
空は昼夜を問わず分厚い鉛色の雲で覆われ、現代で言う晴れの日とは降雪の弱い日のことを指す。
であれば今夜の天気模様はまさしく晴れであった。なんと言っても、雪が降っていない。視界は夜の暗闇に澄み渡り、肌を刺す冷気さえ何処か爽やかに感じられる。
雲に閉ざされた天蓋の下に、無数の人がいた。年齢や性別はもちろんのこと、国籍までバラバラだ。東洋から西洋、果ては南米まで、地球上のあらゆる地域から差別なくかき集めたのだろう人々が、誰しもある一点に視線を向けている。
彼らに共通点を見出すのは意外にも簡単だった。
首を一周する形で刻まれた輪形の傷跡だ。そんな代物が、曇天の下に佇む全員に共通して刻まれている。釘で刺した痕のようにも、はたまた茨の冠を巻き付けて棘に貫かせたようにも見えるその傷に、痛みはない。膿んで疼くことも、ない。
だが不思議なもので、ここに集うすべての人間がこの傷に対する同じ認識を共有していた。
これは命を縛り、奪うモノだ。自分達は皆、このスティグマに命を握られている。
少しでも誤ったことをすれば忽ち裁きが下るのだと、男も女も、善人も悪人も誰もが抱くその確信。真贋を証明するのは、彼らの視線の先に立つ二人の女を除いて他にはなかった。
「はじめまして、私はソピアという者です。かつては東洋の辺境で、教会を管理しておりました」
最初に口を開いた女は妙齢だった。虫の一匹も殺せないような、穏やかな顔立ちをしている。
修道服に身を包んだ敬虔そのものの佇まいはこの命消えた世界において、一輪の花のように人々の心を安らがせただろう。平時ならば、という枕詞が付いてしまうのが悲しいところだったが。
「全球凍結。神が我々を見放し、悪意まみれの試練を差し向けてきたあの日から五年が経ちます。かつてこの星を埋め尽くすほど隆盛していた文明は見る影もなく衰退し、数え切れない命が雪の下に埋もれていきましたね」
女――ソピアの語り口は聖職者そのもの。にも関わらずその端々からは、修道女が心酔してあるべき大いなる主への憎悪が滲み出ていた。
花の咲くような笑顔で紡がれるからこそどんな激怒の声よりも恐ろしい。細められた眦の隙間から覗くサファイアブルーの虹彩は、笑顔の傍ら、何処か蛇を思わせる鋭さで皆のことを睥睨している。
「豊かな自然は無価値な白雪の下に埋もれ、人間の輝きは神禍(エスカトン)という呪いによって汚染された。知っていますか? 終末からわずか一年で、人類はすべて禍者(アナテマ)に成り果てたと言われています」
神禍――それは神の呪い。全人類に等しく降り注いだ殺人手段。
手を翳すだけで火炎を放射し、地面を一蹴りしただけで初速から自動車の最高速度を超える。
呪いの力を得た人間は禍者と呼ばれ、ソピアの言う通り、今や地球上に呪われていない人間は存在しないと言われている。
明けぬ冬に覆われて恐慌する世界に突如降り注いだ力の誘惑は、あまりに容易くこの世から倫理と道徳を廃絶せしめた。
個人も国家も等しく殺し合ったその結果が、惑星の六割にも及ぶ重度汚染地域の形成と、それに伴う数十億人単位の犠牲者だ。
現在、地球の総人口は五千万人ほどだという見方が強い。寒さという外的要因(ネクローシス)と、内輪揉めという内的要因(アポトーシス)。世界を自在に操れる聖なる独裁者が悪意を持って実行したとしか思えない災禍。
それが白の大地を今も蹂躙し続けていることは、不幸にもまだ生き残ってしまっている残存人類達であれば、誰もが知っているところである。
「人類はこのまま緩やかに滅亡し、我々が愛した世界は白紙に戻される。なるほど神の思し召し、確かにそうなのでしょう。神に愛して貰うには、人類は増えすぎた。強くなりすぎた。その程度の想定外も許せないほど天上の神は器の小さい御仁であった、それだけの話と諦めるしかありません」
ソピアが手を合わせ、目を伏せる。
しかし、すぐにその目は見開かれた。憎悪と失望を宿した蒼玉が、冒涜の象徴めいた輝きを帯びて白紙の大地に晒される。
「かくなる上は、人の手で人を救うより他にない。極東の地に一人立った救世主。このルクシエルの手によって」
修道服を纏いながら神を侮辱し、呪うように糾罵する妙齢の美女。本来であれば十分すぎるほど彼女は異常な存在だったが、今この場に限っては見劣りさえしていた。
ソピアの隣に立って沈黙を守る一人の少女の存在感が、あまりにも強すぎたからだ。
その少女は鉄の杖を突いていた。膝元ほどまで長く伸ばされた黒髪が寒風を受けて優しく揺れている。
救世主(ルクシエル)と呼ばれた娘が、冒涜の聖女の言葉を受けてようやくその口を開く。
ただそれだけの動作にすら異様な神秘性が付いて回るのは、果たして気のせいだろうか。真実は定かでないものの、この場に集められた人間の大多数が、この吹けば飛ぶような幼い娘の一挙一動に釘付けにされていたことだけは事実だ。
「皆さんには、これから殺し合いをしていただきます」
ルクシエルは開口一番に言った。
殺し合い、命を奪い合えと。救世主と呼ばれておきながら、彼女はそう言い放ったのだ。
「わたしの名前はルクシエル。本当の名は別にありますが、救世主として立ち上がった時に捨てました。わたしの目的は二つあります。それらを成就させるために、皆さんの犠牲が必要なのです。どうかご理解ください」
ぺこりと頭を下げる姿には人形のような愛嬌すらあるのに、発言の内容がすべてを台無しにしている。
なのに罵詈雑言、悲喜こもごもの反応が起こらなかったのは、彼女にそれだけの格があったからに他ならない。
理性も倫理も廃れ果てた白の大地は、本質的には砂漠のようなものだ。渇き切って潤いに欠け、一寸先の明日を見通すことすら叶わない。そんな世知辛い時代の中で、ルクシエルの存在はクリスタルの塔を思わせる抜群の存在感を放っていた。
あらゆる光を反射して輝く、荒野の神聖だ。誰もが世界の救いのなさを知っているからこそ、聖なるものは誰もにとってのオアシスとして格を高める。仮に今夜が血潮も凍る猛吹雪の夜だったとしても、この美麗を見失うなどあり得ない。
根拠なくそう断言させる説得力が、そこにはあった。理屈ではなく本能に訴えかける美であったからこそ、それは人の心を打つのだろう。
「一つ。傲慢なる神の冷酷によって、わたし達の住むこの星は死んでしまいました。わたしは、これを蘇らせます。忌まわしき吹雪の空を晴らし、緑の芽吹く豊かな大地を取り戻します」
ある者は吐く言葉、立ち振る舞いの一つ一つまで、どれを取ってもそこには極限の隔絶が宿っていると確信した。
しかしまたある者は、その姿を現象のようだと思った。
「もう一つ。終末の日から世界大戦、そして今日までの緩慢な悲劇の積み重ねによって、あまりにも多くの命が失われました。これも全て蘇らせます。散っていった命のどれ一つ取り零すことなく、地獄の底から全て拾い上げて祝福すると約束します」
吐く言葉、振る舞いの一つ一つまで、どれを取ってもそこには人間味が宿っていない。
救世主という役柄をこなすためだけの無機質な人形に、何故だか類稀な風格が宿っている奇怪さ。
何にせよ、誰もが彼女を恐れ、畏れたことに違いはない。ルクシエルは救世主であると……そう呼ばれるに足る存在であると認めてしまった。よって彼女はこの場における絶対者の資格を得る。語る言葉の一言一句に無二の力が宿り、それを餓鬼の戯言と笑うことは誰もできない。
「――もし、あなた」
集められた内の一人を、救世主が呼び止めた。杖を突きながらルクシエルが歩みを進め、その前に立つ。
硝子を連想させる透き通った瞳が、その消えかけの命を見据える。伸ばされたか細い右手は、哀れなる羊の頭に触れた。
「癌を患っていますね。それでは儀式に臨むどころではないでしょう、明日を迎えられるかも分からないはずです」
救世主は杖を手放した。足が不自由なのだろう、よろよろと、今にも倒れそうな覚束ない両足で、しかし彼女はその場に立ち続ける。バランスを取ろうと四苦八苦するのも後回しにして、彼女は静かに両手を合わせた。
「もう大丈夫ですよ」
祈りの形を取り、瞑目する。その上で僅かに口を開いて、数言の神聖を呟いた。
「我汝らを棄てじ、終わりの日までも共にあらん――秘蹟なる慈罪(サクラメンタム・ミゼリコルディア)」
刹那、祈りを捧げられた者の身体に異変が起こる。
たまさか墓から起き上がってきたような青白い、いやそれを通り越して土気色に染まっていた顔色がみるみる血色を取り戻していき、痩せ細った手足には肉さえ戻り始める。
白濁した眼球からは濁りが覗かれ、ひゅうひゅうと痛ましく響いていた呼吸音は瞬時に健常者のそれに変わっていく。真紫だった唇も食べ頃の林檎宛らに赤く染まり、……その人物が死の一文字など何処にも見て取れない様相になった頃、ルクシエルはようやく祈りを止め、目を開けて杖を拾い上げた。
「お大事に……なんてわたしの言うことじゃないか。ごめんなさいね」
にこりともせずにそう言うほんの少しの茶目っ気らしい部分さえ、誰も気にしなかった。
いや……そうする余裕がなかったのだ。誰もが目を見開いて、今見た光景にただただ驚愕していた。
神禍とは神の呪い。愚かな人類を自滅に導くために与えられた、忌まわしい能力である。
その人間が抱く信念、思想、精神性……。そういうものに基づいて生まれる呪われた力の形は、まさに千差万別。地球上に一つとして同じ能力は存在しないとまで言われているが、そこには一つだけ絶対の不文律が存在している。
神禍は他人を害するためだけの力だ。それ自体が直接的に攻撃を意味しておらずとも、最終的には必ず誰かを害するという方向に向かっていく。
火熾しの力は焼殺。家をも吹き飛ばす拳は撲殺。一見すると攻撃性を感じない自己強化の力でさえ、これを使って命を奪えと言われていることが本能的に分かるのだ。
これは不変の真理。例外はない。そしてそんな不文律が示すのは、ある救い難い事実。
『自他を問わず、他人を癒せる神禍はこの世に存在しない』。
考えてみれば当然のことだ。これは人類を自滅させるための呪いなのだから、そこに再生の要素を含める理由はない。
凶悪で強烈な殺人手段を授けてやれば、人は自ずと隣人と殺し合う。そうして徐々に数を減らしていき、いずれ神の失敗の産物たるホモ・サピエンスは滅亡に至る。神禍が神の意思で与えられたものであるという定説を信じれば信じるほど、癒しの神禍は存在し得ないという救いのなさが浮き彫りになっていくのだ。
そんな世界でかれこれ五年間、誰も彼も生き続けてきた。だからこそ誰しも、驚愕の定めからは逃れられなかった。
救世主(ルクシエル)は今、全員が見ている前で、『誰か』を癒してみせたのだ。
他人を救うことのできる神禍という未知を、絶望に包まれたこの世界の中で唯一人証明してみせた。
呆気に取られる皆の衆を正気に戻すように手を叩いて、ソピアが再び話し始める。
「さて、救世主の御言葉も伝え終えたところで……私の神禍についても説明をしておきましょう。
『涜し否定する神拒の密域(エクスコミュニオン・バトルロワイアル)』。巨大な結界を形成し、その内側で殺し合いの儀式を行わせ、ただ一人の生き残りを占うという神禍です。我ながら性格の悪い力だと思うのですがね。実はこの神禍の真価は、儀式が完遂されたその先にこそあるんですよ」
世界を救う。
その一点を目的に据えて、救世主とそれを見出した聖女は君死に給うと願いを懸けた。
「命が命を奪い、そして奪われる。その過程はあまりに膨大な想いを生み出す。人間の感情もまたエネルギーです。愚神の教えに基づいて言うならば、祈りとでも呼ぶべきでしょうか。
兎角そうして生まれた力の全てを、主催者である私は儀式完遂後に抽出することができる。勿論、抽出した力の使途は私の自由ですので――私はこれを、偉大なる救世主ルクシエルに全て捧げるつもりです」
ルクシエル、とソピアが言った。救世主は小さく頷くと、鉄杖の石突で地面を叩く。すると、雪に覆われた地面から何かがせり上がってくる。
緑だった。地上から姿を消して久しい、生命(イノチ)の色だ。在りし日の地球で愛されていた季節・春の青葉がそこにはあった。
だが芽生えた青葉はすぐに萎れてしまう。死んだ星の劣悪な土と極寒の大気に、とても普通の植物は耐えられないのだろう。萎れた草を見て救世主は憐れむように眉を寄せた。かつてなら誰もが意識にさえ入れず踏み締めていた足元の草花にさえ、この娘は慈しみを抱くのか。
「ルクシエルの神禍は命あるもののみならず、命なきもの……大地そのものに対しても適用することができる。
皆様の殺し合いから抽出した力全てを、私はルクシエルへと捧げます。
さすれば救世主の慈罪は、最早目の前の命や自然を再生させる程度の異能では収まらなくなる。神の呪いの範疇を飛び出して、傲慢な支配者の悪意を超越し、忽ち星のすべてを満たすでしょう。
遍く緑を呼び戻し、遍く白雪を溶かし尽くし、そして遍く命を我らが愛したあの日の地上に舞い戻らせるでしょう。神の千年王国などでは到底足りぬ。我らが我らの手と犠牲によって、真に終わらない永遠の幸福を――人の永年王国を築き上げてみせると此処に誓います」
千年王国では最早不足。神が信ずるに値しない傲慢な愚者であると分かった時点で、その教えは無用の長物に堕した。
だからこそ千年では終わらない永年王国を築くのだと聖女は言う。死が覆い尽くし、争いが満たした不毛の白い大地に人の救世主は立ち上がり、必ずや全ての犠牲と豊かな大地を取り戻してみせるのだと、殺し合いを命じた者の一人とは思えない清らかさでそう断じてみせる。
「とはいえ、救世に力添えした功労者に何の報酬もないというのは不義理なもの。勝ち抜いた者にはそれが男であれ女であれ、このルクシエルを伴侶とする権利を与えます。形の有無に縛られず、この世のあらゆる概念を癒し満たすであろう真の救世主。永年王国の象徴、そして絶対なる人の規範になる彼女を娶る権利です。
この世における欲望は全て満たせるでしょう。それが善であろうが、悪であろうが……救世主と道を同じくする『あなた』の未来に影はない。
失った命を取り戻したい。失った夢を取り戻したい。この世の栄誉を全て貪り尽くしたい。地上に於ける酒池肉林を命尽きるまで、いや命尽きても味わい抜きたい。全て叶います。この娘には、それを可能にする力があるのだから」
強いられるのは殺し合い。だが、与えられるものは世界の再生と無限の栄光。
「不要と思う奇特な方も、もしかしたらいくらかはいるかもしれませんね。その場合でもしかし、命を繋ぐことは出来る。逆に言えば儀式の勝者とならない限り、誰であろうと私の庭を生きて出ることは不可能とお考えくださいな。
皆の衆――この際善悪は問いません。願いの純不純も、戦う動機も不問と致しましょう。ただ殺し合いなさい。ただ隣人の心臓を抉り出しなさい。父が見捨てた地上にあっては、あれが忌み嫌う所業もまた正道となるのだから」
雪が降ってきた。はらはらと、白雪が落ちてくる。吹雪く気配はないが、やはり死んだ世界にこの白色は付き物であるらしい。そんな――絶望の象徴に見守られながら。
「世界を救う時が来たのです」
聖女(ソピア)は饒舌に。救世主(ルクシエル)は機械じみた寡黙さで。
白雪の降る極寒の夜を舞台にして――世界を救う戦いは、その幕を開けた。
◇ ◇ ◇
ソピアの神禍、『涜し否定する神拒の密域』は血塗られた儀式を支配する神禍だ。
自身の指定した区域内に数十人の生贄を集め、血で血を洗う殺し合いを演じさせる。
生贄を集める行程を自分で行わなければならないハードルの高さの反面、それを満たして儀式を開闢めた場合に得られる権限は絶大に尽きる。
参加者全員に生殺与奪を握るスティグマを施した上で、儀式の管理者として彼らにあらゆる不自由と残酷を押し付けることができるのだ。
六時間置きに結界が収縮していく仕組みなどその最たるものだろう。結界から出た者は誰もがスティグマの起動で焼死する都合、生贄達は一方的に通知される結界の縮小範囲から羊のように逃げ惑うしかない。
そうやって生存圏が狭まれば狭まるほど生贄同士でかち合う率は高まり、殺し合いは促進され、終わりへと近付いていく。
事の当人であるソピアは安楽椅子に座りながら眺めているだけで全てが終わる。世界を救う条件が整い、神を呪う女の願いは全うされる。そういう仕組みだった。
「ルクシエル。まだ自覚が足りないようね」
協力者(ジョーカー)による全員の転送が終わるなり、ソピアはつい先程まで救世主と崇めていた少女の頬を打った。
ルクシエルはそれを逆らいもせずに受け止めて、相も変わらず表情のない顔で聖女の前に立っている。
「権威を示すのは重要だけれど、まるで市井の子のような振る舞いをするのは止しなさいとあれほど言った筈でしょう。あなたは救世主。皆の偶像……死の星に一人立ち上がったジャンヌ・ダルク。
ならばせめてそうあれるようにあなた自身でも努めなさい。何のために私がこれだけお膳立てを済ませてやったと思っているの?」
「ごめんなさい、お母様(ソピア)。精進します」
「まったく……。あなたは本当に私がいないと駄目なのね。日本の片隅で見つけた頃から何も変わっちゃいない」
救世主は、極東のある国で発見されたという。
彼女が紛争や凍傷で傷ついた民草達に手を翳すと、忽ちあらゆる生傷が癒え、それどころか失われた四肢すら新しく生えてきた。
神の呪いが降り注ぐ純白の世界の中でただ一人、命を癒やすことを許された娘。その姿を偶然見つけ、身寄りのなかった彼女を拾い上げてルクシエルの名を与えたのは、冒涜の聖女を名乗るこの邪聖だった。
「世界は救われなければならない。だってそうでなければ、祈り続けてきた私があまりに哀れでしょう。誰にもこの信仰は否定させない――たとえ神であろうとも」
願いは一つ、世界を救うこと。冬に閉ざされ、神に呪われた人間の星を再び豊かな命の色で満たすこと。
そして人は神の庇護から自立し、真に終わりを知らない永年帝国を築き上げる。
それは人類の総意である。聖女ソピアの名の下にそう断言する。神よ、どうか死に給え。もはや愚神の慈愛など我らには一切不要である。
我らはお前の愛玩動物に非ず。神よ、どうぞ死に給え。善なる者は救われると説いた虚実の支配者よ、腐り給え。
「始めるわよ、ルクシエル。大恩ある私のため……存分にその威光を輝かせなさい」
父の見捨てたこの星に、神の資格を持つ者はただ一人。
救世主を用立てよう。奇跡を起こさせ、死んだ星を意のままに蘇らせてまたあの美しい庭を咲き誇らせよう。ルクシエルが人の救世主ならば、それを見出した自分が何と呼ばれるべきかは誰よりこの身がよく知っている。
我こそは神の座に相応しき唯一の善き人(クライスト)なり。黒い聖母は傲岸不遜に断言し、邪悪のままに笑っていた。
最終更新:2025年05月31日 15:27