横手の昔話・思い出話


「昔の風景」

  • ホルモンやきそば「まいど」って、昔は横手バスターミナルの真向いにあったお店?たしかその横にはお婆ちゃんが毎日、地の野菜を仮店で売っていて。バス停の横は「扇屋」という食堂。駅よりの角には金喜書店の支店・・・あー昔の光景が!♪「よしや」はバスターミナルの右隣ね。(横手高校同期)左に行って駅へ曲がるT字路の右手前角が「金喜」でした。金喜の角を駅と反対の右に曲がるとすぐに小さな映画館が ありました。


「汗取りタオル」

  • 雪投げとか、雪下ろしの時は、下しゃっつの内側さタオルかてぬげ入れでおいで、終ってがらすーっとそれを抜くと、汗を吸い取ってくれるから下シャッツ濡れずに風邪も引かないよって、昔教えてもらったったな~(*^-^*)いろんな知恵で厳しい冬を越してきたんだなぁ
  • やりました、やりました。幼稚園の雪遊びで着替えを持たずタオルを引き抜いたら一緒のお母さんに驚かれました。
  • 小学校のスキー授業で使ってました!
  • 汗取りタオルでググったら、いろいろ画像出てきたっけw 引っこ抜いた時の、スーっとする感じ、懐かしいなやw http://p.ybt.jp/nachan511/4d255cb204fca.jpg


「懐かしくはあるが、今にして思えば決してフツーじゃない、高校時代のあんなことこんなことシリーズ!(パフパフ!)」

@namomihagiさんより
  • ① 私が高校の頃、学年別身分制度(?)が存在した。上級生が本当に偉かった訳ではなく単に「そうゆうもの」だった。下級生は廊下で上級生に会うと挨拶をしなければ失礼とされた。上履きのヒモが学年別に色違いなので、1年生などは自分と違う色のヒモを見た瞬間「ンチワーッス!」紐で学年が分かったの??へぇ~~~~~~~
  • ② 新入生は「団歌練習」という名の洗礼を受ける。先生公認の下、学校の裏山に整列して校歌や応援団歌の練習をさせられる。先輩オーラを発散しながら応援団幹部がチェックして回り、声が小さいと見るや、目の前に立ちふさがり威圧感たっぷりに怒鳴る。いわく「キャネッ!!」
  • ③ わが母校には立派な弓道場がありクラブ活動も盛ん。先輩が弓を射る時後輩は的の傍の安全な位置に直立して掛け声をかける決まり。当たれば「アタリッ!」外れれば「ザンネン!」。私の級友が入部してこいつをやった。矢が的を射た瞬間彼は怒鳴った。「アタ~リ~~♪」三日で退部。
  • ④ 高校生は学生帽をかぶるのが決まり。「バンカラ」という言葉に美学を感じていたこの頃、おニューの学生帽なんか恥ずかしくてかぶれたもんじゃなかった。擦ったり引っ掻いたり破ったり汚したりして帽子に「ハク」をつける。それを頭にチョコンとのせて歩くのがステイタスだった。
  • ⑤ 私の母校は元男子校から共学化となったので女子高生が少なかった。(ひとクラスに数名)当然ながら男子校生の「彼女獲得」は非常に高い競争率となる。うわべではバンカラを気取りながらも、ツーショットの下校シーンなどに遭遇すると心底思ったものだ、


「ばっこ」

  • @Aokumo77さんからは ところで、「いろいろばっこ」って聞いたことあります?
  • @nonohatake:さんは パッことは違う?冬の遊びじゃないけど、パッコって懐かしい♪めんこのちっちゃっけやづ
  • @higetentyoさんからは 「ぱっ」って言わねが?小・中学校時代は給食の牛乳のふたでやってたな、タダだしw


「雪あそび」

  • @nonohatakeさんより昔の雪あそび♪ 雪国の子供の遊び。(今はしないだろうけど)空き地や田んぼや庭や畑・・・どこでもいいけど、真っ白な雪の上を踏み固めて、一件家の間取りを描くように玄関から廊下、居間や台所やお風呂や子供部屋・・・・・大きな家を描いて遊んだものでした。地域限定の遊びかな・・・?
  • ままごとに、雪は欠かせない。ペタペタ固めて四角く切ってお豆腐のできあがり。丸い入れ物に雪を入れて取り出して、杉の実(種?)や、葉っぱで飾り付けたなら、渋いケーキのできあがり。懐かしいな~
  • @soramiteruさんからも  堅い雪球作ったりしたよね~。てっかてかじぐ、がんがじぐ固めてね!あたったらこぶできるよww
  • @ogasawara_hさんは雪遊びを調べています。他にも教えていただけると幸いです。
  • @Aokumo77さんより  雪遊び♪ 「シャガジ」を雪に混ぜ混ぜして、ねばねばさせて遊んだことある人 ノ いないかな?
  • しゃがじ???「さいかち」なんですね。調べて驚きました。しゃがじって「サイカチの豆」だよね、あるある~!さやが粘るんですよね?
  • 調べてないんで頭の中が????(^^;ということで。。。シャガジを混ぜたクリーム状の雪「なめらっこ」というらしい。高度だ・・・ http://bit.ly/ebYqJt
  • ちなみに。横手では「なめらっこ」とは言わないそうですが。。。
  • 雪遊びその2♪ ローラーゲームをロースケート履かないで、雪の上でやったーーーー。小学校5,6年生くらいの時、毎日放課後学校の裏に学年全員集合して、雪まみれになって遊んでから帰った
  • @nonohatakeさんからも  雪遊び!新雪の上にうつ伏せで倒れて人型を写す!のは、あまりにもメジャー??ですね^^顔だけ写すって場合もあるけど。(笑)
  • 「どふら」「新雪の上にうつ伏せで倒れて人型を写す」雪あそび。たのしそうだーーーーーーーー!


「やめやき」

  • なんで12月8日って言うと、昔、お医者さんが患者さんから一年間かかった受診代をこの日にまとめて貰っていたんだって。そんで家の人はこの日を境に病気しないように、やめやき(病焼き)として作って食べたって母が熱弁してた(;^_^A
  • @Aokumo77さんいわく。母に言わせると、後ろ向きで、ベンと投げで、振り返らずに帰って来るものなんだって!


「きゃっこまま」

  • @nonohatakeさんより  真夜中の【方言部】→「きゃっこまま」・・・・・腹痛だったから、思い出したよ~おらえでなば、卵とかつぶしと味噌入りのきゃっこままだったよー。今も、その味で作るんし~(∩.∩)
  • @nachan511さんは。おらえの、きゃっこまま、は、ほんだしと塩味。して、卵ひゃてらがった~♪たまに豪華版で、タラの身っこひゃてらやづ、うめがったっけな~。あやぁ、懐かしごど。
  • だの白いきゃっこままなば、物足りねおな~、やっぱり秋田県人なば濃い味好きだおの~ww ああ、想像してらばくでぐなってきたぁ~ww
  • 大人になってがら、レトルトの、きゃっこまま初めで食たどぎ、味ねして、やざねっけww全国的には、しょっけねのが普通なんだすか?
  • あ!それ俺も思ってらったす。ままやっけだげだば、たんだのノリでねがど…。
  • @takuyakitaさんは 秋田生まれだが東京+海外生活計2桁年の私も100%はわからず。
  • ということで。。。。きゃこまま=お粥。とのこと!!!!
  • 【注】→お粥は本来は味付けはしないのですよ~。味噌や塩、だしなどを入れるのは横手ならではのきゃっこまま・・・ かも。とのこと!
  • 宮城との架け橋@lunakoroさんは宮城の実家では塩と卵だった~!味噌と梅干しは小皿だったっけ!
  • @kisaragi5さんは なに?きゃこままはしょぺにきまってらべよ。みそっこどがへで。おらはらぼこしたどきに、とぉどかぁどふたりしてこしゃだきゃこままよりも、ばさまひとりでつぐったきゃこままのほううめがったっけな。ばさまさすがだ。
  • @mayunjaさんも  んだでな~♪味噌っこだのへでしょっぺぐしたきゃこ食なおらえだげでねよな~
  • @cameratalk0128さんも うちの母も味噌味のきゃっこまま作ってくれました。風邪ひいた時に。うちも、うちのオリジナルメニューかと思ってました。
  • あときゃっこままという言い方もw
  • ウチでは、きゃっこままは「めっこまま」の対義語で、ご飯の失敗作に使うかな?お粥は「かゆっこ」。方言は使われ方も色々だね~


「高校の雪降ろし」

  • 呑み会等で「そういえば、北の方のご出身でしたよね。」なんて話を振られると、待ってましたとばかり秋田の冬のエピソードを語ってはウケを狙っちゃいます。中でも極めつけは、横手高校時代、校舎の雪降ろしの話。雪国の学校は多層階でも屋根付き。鉄筋4階校舎、屋根の雪降ろしはプロの世界の仕事。先ず足場を確保する為、軒先の「マブ」(こいつの説明が大変!)を一気に切り落とします。「校内放送!本日は雪降ろしです。1階教室の窓際の方は机の位置を1m窓から離して下さい。爆風で窓が割れる危険。」


「暖乳器、暖飯器」

  • @kozchanさんからは小学生時代、学校のストーブで弁当温めて食べたなぁ♪匂いすごい
  • 牛乳も二時限目の後にもってきて暖かい牛乳の人?って、朝本数確認した
  • @Aokumo77さんより、暖乳器!2時間めの休み時間に当番の人が牛乳取りに行くんだよね。あったかい牛乳とご飯の組み合わせが嫌いで、冬でも冷たい牛乳派だったな。牛乳があったまると膨張して紙蓋が持ち上がってしまい、お湯が白濁することもあったよね?蓋が開いてしまった牛乳はハズレな感じだったな。
  • @kuro316さんも、私も冷たい牛乳派でしたw今もぬぐだめだ牛乳は「やんか」ですw
  • 「暖飯器(だんぱんき)」というものがあった(^m^)w
  • @Aokumo77さんも。!アルミのお弁当箱にご飯だけ入れて持って行くんだよね~使ってたのは保育園の時だったんだけど、私は「おばけのQ太郎」お弁当箱で、友達が持っていた「トッポジージョ」のがすごーく羨ましかったのを覚えてる。
  • @ogasawara_hさんは「山ねずみロッキーチャック」で
  • @oichi0901さんは「ガッチャマン」で
  • @w12doさんはオラのはケロヨンのと、ひょっこりひょうたん島の箸
  • 「ロッキーチャック」は@ondori13さんのオレの数あるあだ名の一つ。なんですって!w
  • @namomihagiさんからも そう言えば小学校低学年の頃、弁当箱にご飯だけでなく納豆も入ったのをコッソリ暖飯器に忍び込ませ、授業中の教室に異臭を放ってクラス中のヒンシュクを買った奴がいたっけ。
  • @AUCC2001nenさんより暖飯器、上宮幼稚園で今も使ってますよ。


「納豆汁」

  • 私がご幼少(?)の頃、納豆汁は日曜日の朝食と決まっていた。土曜の夕食が終わると、テレビの前にドンと座って、好きな番組を見ながら股座に擂り鉢を抱えてひたすら納豆つぶし。日曜の朝は階下の台所から漂う納豆汁の香りで目が覚めた。
  • 納豆汁バナシ続編。納豆汁の三種の神器は「いものこ(里芋)・ワラビ・キノコ」。雪国秋田の冬らしく材料は保存食で、ワラビや キノコは塩蔵を戻したもの。この「キノコ」、我家では昔から「アミタケ」と決まっていた。家ごとに「我家の味」があるはず。
  • 納豆汁バナシ続々編。擂り鉢で納豆をつぶすのに、粒を残さず短時間でつぶすには要領が必要。試行錯誤の末到達した結論(少々大げさ)は意外に単純、即ち「一粒ずつ丁寧に」だ。イラッときてゴマ摺りみたいにスリコギをグルグルやると、糸ばかりひいて全くつぶれない。十歳のとき開眼!
  • 小さい時、よくすり鉢で納豆をすりつぶすのを手伝ってた。具材のきのこなんかは、秋に山に行って両親が取ってきたもの。(水煮の缶詰で年中保存)あー食べたくなってきた。


「忠義の猫」

  • 浅舞あやめ公園。伊勢多右衛門の飼い猫で明治40年13才で亡くなり、碑は寒風山の石で建立。当時、民衆の命をつなぐ米を野鼠や蛇から守った雌猫。一度も子どもを持たない神聖なる神なる忠義の猫だって!忠U^ェ^Uハチ公みたいな実話☆


「どふら」

  • @nonohatakeさんより、どふらって、「落とし穴」の事。冬ならではの遊びっていうか子供のいたずら。雪が沢山ないと出来ない遊び。昔の遊びです。今だったらそんな危険な事しちゃだめ!って怒られちゃうね、きっと。( ̄ー ̄; ヒヤリ
  • @yokotefcさんも、もちろん知ってますってか、50年前の定番の遊び。作ったやつの裏をかく『どふらがえし』もおもしぇどぉ~
  • どぶらがえし?????とは。相手の作ったのがわかったら、その相手が見に来るところあたりに逆に仕掛けるという、頭脳戦! 今の子は、それをパソコンのゲームとかでやるんでしょうけどね。危険回避の能力って遊びの中から得ていくような気がするんだけどなぁ~


「旭館」っていう映画館

@fukuhiromanさんには語っていただきました
  • 羽後町に昔あった「旭館」っていう映画館、ツイッターやってる人たちはわかんないのかなぁ。たのきん映画とか東映まんがまつりとかやってたんだけどなぁ。まぁ、9割くらいはピンク映画だったけどf^_^;)北都銀行西馬音内支店の前の横断歩道の前に、旭館のピンク映画の看板があったんだよねぇ。メインストリート、しかもモロに通学路だったんだけど…小学生のころは恥ずかしいんだが見たいんだかf^_^;)だからと言って、今よりも問題が多かったってことはなかったと思うんだよね。逆に恥ずかしいってことには今よりも敏感だったと思う。恥ずかししび知らねってのはホントに恥ずがしっす。


マムシの焼酎漬け。

  • 昔は透明の一升瓶に各家庭で普通にあったものらしい。じんましんが出た時に飲まされたり、火傷の時は付けられたり。結構頻繁に登場するものだった。


スズメバチの巣事件 @ 横手市大沢羽根山

  • 小さい頃遊んでいて、アシナガバチやミツバチに刺された事はあったが、流石にスズメバチに刺された事は無い。が、別段危害を加えた訳でも無いのに、何故か襲われそうになった事は何度もある。スズメバチには、逃げても逃げても人間を追いかけて来る、恐ろしい凶暴性があるのだ。
  • 刺されると死に至る危険性もある事を幼心に良く知っていて、追われたら一目散に逃げる逃げる逃げる逃げる。全力疾走していたあの光景は、今でも鮮明に蘇って来る。超怖かったなぁ〜。と言う事で、スズメバチは私にとって、昆虫の中でも最も憎むべき昆虫の一つであった。
  • 小学生だったある夏の午後、悪友の一人と横手市大沢の羽根山に遊びに行った。あの頃の大沢地区は、茅葺き屋根の家が殆どだった。ある友人の家に行く途中、我々は一軒の立派な茅葺き屋根の家の軒下に、薄茶色でボール状の奇怪な物体がぶら下がっている事に気付いた。
  • その妙に大きな物体は、直径で60センチはあったと思う。悪友が、スズメバチの巣だ!と叫んだ。えっ、あれが!?と言う感じで暫く唖然として眺めていたが、私は巣に実際に遭遇したのはその時が初めてで、あの独特でシュールな焦げ茶の模様が超不気味かつ超気色悪く思えた。
  • 議論の末、スズメバチに対する是迄の恨み辛みが一気に噴出して、石を投げて落としてしまおうと言う事になった。周りに誰も居ない事をちゃ〜んと確認して、スズメバチの巣目掛けて石をがんがん投げた。投げても投げても中々当たらない。正に、くそ〜、という感じである。
  • で、お互い力み返りが出て来たその瞬間、巣の隣にあった小さな窓ガラスの一つが割れてしまった。あっ!と、我々は我に返って、四方八方をより注意深く観察した。周りは市街とは違って在郷ならでは、し〜んと静まり返って誰も居ないし、その家の住人も外に出て来ない。
  • よ〜し、OK!という事で、安心して石をじゃんじゃん投げ続けた。投げ続けるうち、巣の隣に並んであった小さい窓ガラスが、ガシャン、ガシャンと言う具合に、どんどんどんどん、気持ち良く割れて行った。もう巣の事何かどうでも良くなって、窓ガラスを割る事に目的が変わったのだ。
  • 結局、巣の左隣にあった一連の窓ガラスは、全〜部割れてしまった。最後に我々は、誰にも観られていない事を執拗に確認後、素晴らしい達成感に浸りながらお互いを労いつつ、自転車で夕焼けの家路を急いだ。得意の絶頂に居る、即ち、有頂天になるとは、正にこの事である。
  • それから何日かして、学校で担任に呼ばれた。一体何だろう?と思った。「おめ、Aと一緒に羽根山さ行って、窓ガラス割ったべ?」最初は、共犯の悪友が何らかの理由で口を割ったのかと思ったが、話を良く聞くとそうではない。誰かが我々を何処かで嫌らしく凝視していたらしい。
  • 厳罰は兎も角、暫くの間超ショックだった。あんなに何度も注意して周りを確認したにも関わらず、誰かに観られて名前迄特定されていたとは!?本件、完全犯罪脆くも崩壊のお話であるが、あれ以来スズメバチが益々嫌いになった。特に巣を見ると、又候石を投げたくなってしまう。


@nonohatakeさんの思い出のポチ語り

  • 「はぁ~え!これかーう、なんぼ?」「それが?1回10円」「へば、はい、10円このくじやる」「どれがひとっつナメってみれ、
何と書いでら?」「スカ・・・!」「あらっ、んだー、えがったな、当たり」「・・・・・・。」「どうもな、まだこいな~」「スカの甘納豆んめな^^」

ヨンパチ豪雪

  • 南小1週間休校だった!
majisuka8800からは
  • この前横手に帰った時、昭和48年~49年に11ヶ月だけ住んだ朝倉町の家がまだあって感激した^^その年は大雪で1週間横手は陸の孤島になったんだよん>_<
@Aokumo77さんからも
  • 忘れもしない、昭和48年。大雪で交通機関完全麻痺。ウチの店でも売る物が無くなって、家族皆んなで、歩いて四日町の主婦の店まで買い出しに。雪が多すぎて、市内小学校スキー大会も中止になったんだよ~(>_<)


上宮幼稚園

  • 卒園生の方も多数!http://ow.ly/i/3hDK
  • 左手の大木、記憶にあります。
  • 先日お墓参りに行き、白い象と亀達と再会
  • 園歌って「のんのんさま」でしたっけ?
  • のんのののさま仏様~、なんとかかんとか母さんの・・ぼくもわたしも上宮よ~うちえん~。
  • 上宮幼稚園では、もも組~さくら組~ばら組でした。先生はそれぞれ、塩屋先生~遠藤先生~加藤先生だった。きかなくて何時も怒られてたから、先生達は皆恐かったなぁ~。特に遠藤先生は僕の天敵(?)だった。
  • 私は年長さんで転園してきまして、ふじ組でした!

ここからはTHE_Rock_Cafeさんの思い出

  • 上宮幼稚園には3年通った。自分から希望して早く入園したのは良いが、何故かしょっちゅう脱走した。堪り兼ねたお婆さんが幼稚園に同行する有様。ある日お遊戯の時間、代わりにお遊戯しているお婆さんを窓から確認後、また脱走した。家に着いてケーキがあったので食べた。美味かったなぁ〜!
  • 多くは寺町~大町~四日町の辺りを徘徊していた様な気がします。で、最後は何故か真面目に(?)幼稚園に戻って、完全に行方不明にはなりませんでした。今も変ですが(?)、かなり変な上宮幼稚園児でした(笑)
  • また、寺町にある上宮幼稚園には大きな銀杏の木があってよく銀杏の実を拾いおみやげにしたものです。下に一杯落ちていた黄色い銀杏の実、良く憶えてます。只でさえ強烈な臭いなのに踏むと更にそれが増すのを知っていて、幼心に潰さない様に注意して歩いてました。


駄菓子屋「森田」

@jundiverさんの帰省レポートから。
  • お小遣いにぎりしめて通った前郷の駄菓子屋「森田」。
  • 改装前、店内が昼でも真っ暗、地面が土の頃良く行ってました。
  • 駄菓子食べながら、ラムネ飲んでました
  • あられ多量に食べてました。
  • あられは色々ありましたが、カレー味のものをバリバリ食べてました。
  • あられはくじで当たると大盛り!
  • 横手っ子の文化をリードしてました
  • 私も土の頃50円玉握り締めてわくわくしながらよく行ってました。子供の頃のワンダーランドでしたねえー
  • 駄菓子以外に花火も売っていて、夏になると色々買ってました。
  • 奥の方にはモノポリー等のボードゲームやプラモデル他、 高価なものも。蝋燭で走らせるポンポン船も売ってました
  • ひも引いて飴を当てるの覚えてますか?あと、舐めると当りが浮き上がってくるくじとか。
  • 昔10円玉にぎりしめて通った駄菓子屋。実家に帰った時は自分の子供達を連れて行くという口実で自分がクジ引いて「スカ」とか ニヤニヤしながら楽しんでたのに。


保養センター

  • @nonohatakeさんの昔話。かんぽの宿がまだ保養センターと呼ばれていた頃、夏休みに食堂で初めてのバイトした。友達と3人で。忙しかったけど昼休みの休憩に かき氷アイス食べたりおしゃべりしたり、楽しかったな~プールもあったよね、にぎやかでいい時代だったね~


爬虫類の感触

  • @THE_Rock_Cafeさんより 確かに、これも近くの池沼で捕って飼ってた『ゲンゴロウ』。外側の白いラインがカワユかった。後、手で捕まえた際、髭に塗れたような感触が独特だった! http://bit.ly/bnEKDo 横手に居るかな?
  • @jundiverさんも。 爬虫類といえば、よく滝ノ沢あたりでカナヘビ捕まえたっけ。あとスキー場の小川ではいもり。トカゲは本当に尻尾切って逃げたんで驚いた! 時々、蛇、青大将も捕まえた。今でも思い出す握った感触、ヌルヌルと言うより、乾いたスベスベに近かったなあ。
  • @lc1500suu さん情報! 巨大ミミズみたいな感触…今年は10匹以上捕まえました(笑)


乳アイス

  • @menchikatu さんより  そいえば、今「乳アイス」(正式名称不明)って売ってない?ゴムの中にバニラアイスがパンパンに詰まったやづw  見た目がチッチに似てるのでそう呼んでたんだけど、とのご質問。後半はゴムの味だそうです(^ ^; 最後の方になると一気にブワァっと出てきて油断したら 口から溢れるやつ懐かしい!
  • @menchikatu さんより しかもチョコ味っぽいのも画像で確認! 先っちょ前歯でかじって きりきり捻って食べる派でした。たまに歯がすべってゴムがパチン!前歯ポロww 懐かしyooooooooo!
  • @appleMatsuさんからも  よ~くモミモミして中がクリーム状になってから、先っちょをかじると一気に飛び出してきてパニクったりした思い出が。 アレ、まじに美味しかったな。大好きだった、いろんな意味で。
  • @koen_ura さんも。懐かしいなーおっぱいアイス。と。
  • @Aokumo77さんより。シャトレーゼにあるよ~とのこと。県南なら六郷のスーパーセンターに入ってますねぇ
  • 懐かしいアイス売ってましたよ。 http://twitpic.com/29e3r0 子供の頃よく食べたから、これって40年近くたってまだ現役なんだねぇ。驚きと感心。
  • 懐かしいアイス。 いちご味は無かったけど、チョコ味はありました。この写真、いろんな意味で大丈夫かなあ。 http://twitpic.com/29edzb


ミズカマキリ + タイコウチ = ヒル

  • ミズカマキリやタイコウチ、昔は近所の池沼に普通に居た。夏捕獲する為、腿迄水に浸かるのだが、沼から這い上がると両足に10匹ぐらい蛭が付いていた。蛇でも難無く触れた私だが、蛭は超気持ち悪かった。急いで足から払うのであるが、また血を吸われる恐怖を振り切って沼に入るのだ!
  • ミズカマキリやタイコウチの捕獲は、言わば蛭との格闘だった。あの何とも言われぬ容姿や風貌、どう観たって気持ち悪い。所期の数だけ捕れた後、腿や脛を見ると蛭に血を吸われた後が無惨にも沢山あった。糞〜、やられたと思いながらも、後日もまた捕まえたくて性懲りも無く、沼通いを続けるのだった。


カブトムシの幼虫

  • 昔横手市大沢の羽根山にカブトムシの幼虫を良く捕りに行った。農家の普通の畑にごまんと居たのである。手で掘り出すのであるが、コラ~!と怒られ一旦退散するが、こちらも必死故そんな事では全然めげず又候掘り出す正に鼬ごっこ。捕った幼虫は、蛹~成虫迄大切に育てるのだ。
  • 今の子供達は、怒られながらもカブトムシの幼虫を捕ったりしないと思うけど、そもそも今の横手に簡単に幼虫捕れる場所ってあるのかな? 大沢の羽根山には友達が居て時折遊びに行ったけど、左右が山に囲まれて自然豊かな長閑な所で、今尚あの雄大な景観が健在であって欲しいけど。


横手駅前○×書店

  • 小中学生の頃は一日一善ならぬ、一日一悪を日課にしていた。何か悪さや悪戯をしないと気が済まないのである。当時、横手駅前に書店があってその二階の塾に通っていたが、その塾は問題が早く解けると早く帰って良いシステムだった。
  • 私は大方早く問題が解けたので、何時も教室の外で他の悪友達を待っていた。皆集まったら、夜の楽しい買い食いに出掛ける為である。ある日、悪友の殆どが集まった時点で、教室の外に電気のブレーカーを見つけた。閃いた私は、一旦一階の書店に降りて行き、店内の様子をじっと窺った。
  • 中には神妙に小説を立ち読みしている者や、ニタニタニタニタ薄ら笑みを浮かべながら漫画に読み耽る者も居て、店は俄に活気付いていたが、そんな彼等は何か小憎たらしくも思えて来た。で、気を取り直し、二階に上がって悪友の一人に、合図を出したらブレーカーを下げろ!と指図をした。
  • 合図を出した。店内は真っ暗になった。超大パニックである。私はその様子を暫く楽しんでいたが、店長が慌てて二階に駆け上がって来そうだったので、急いで二階に戻り、ブレーカーを上げた。店長は血相を変えて二階に到着したが、我々は笑いを堪えて知らんぷり。涼しい顔をしていた。
  • 店長は睨みはしたが、すっ恍けている我々を見て何も言わなかった。全く証拠が無いからである。が、その顔は驚きと焦り、また泣きと怒りに満ちていた。でも、もうブレーカーを上げたので、今頃は店内も明るくなっているだろう。私は一言店長に言った。「ちょっと前、停電あったみったな。」


路線バス

  • 保育園の時、子どもだけで路線バス通園してたんだ~今思うと、ちょっと格好いい? もちろん、バス亭までは先生が送り迎えだよ。そして、お遊戯会の写真には漏れなく斜めがけの定期券(。-_-。)


ユニオン、カラオケボックス等ちょっと懐かしいお店

  • ドムドムバーガー、なんて懐かしい。昔、駅前のユニオンにありましたよね? 初めて食べたハンバーガーがドムドムバーガーでした。あの頃は、我が家にとって、あれが贅沢品でした。
  • ユニオンにカラオケがあった(衝撃を受けている方もw) ※今朝になって名前は「オンステージ」と判明しました!
  • ゲーセンもあったよ!
  • 美味しいカツ丼あったよね?
  • 扇!サービスカツ定食くってました。
  • 今のタイヤ館の辺りに昔カラオケボックスあったよなぁ…! あと13号線ローソン向かいの『ぞうさんのしっぽ』
  • それ、ぞうさんのあくびじゃww タイヤ館辺りさあったなは「有頂天」漢字あってるか!?
  • カラオケザウスだったな。今は名前違うけど!台由ボーリング→ザウスの黄金パターン
  • うてなゆって読めなくてだいゆと言ってた!
  • 亀寿とかもありましたよね!
  • うちは家族で焼き肉パレン→ザウスでした。お城の部屋とかあった。懐かしすぎる。


昭和38年の大森町の写真

@aokomakiさんより
昭和38年7月に撮影された秋田県旧大森町の貴重な写真のご紹介。
撮影者は、故佐々木直亮弘前大学医学部教授。
旧西目村に集団検診に訪れていた縁があったためであろうか、
詳しいことは不明である。とのこと。
ちなみにこの写真。
地元の方々にはどの位の価値や興味があるものでしょうか?
ご教示いただければ幸いです。とのご質問。

割り箸工場(懐かしい夏の風景)

  • 小中学生の夏、遊び場の近くに川や沼があると所構わずパンツ一丁で泳いでいた。理由は特に無く、誰かが泳ごう!と言うと皆泳ぐのである。当然学校では禁止されていて、見つかったら相当な懲罰が待っているのだが、そんな事お構い無し、見つかる奴が悪いと言うのが我々の持論だった。
  • で、良く泳いでいたのが、横手市平城町にあった『割り箸工場』裏手の川。そこを我々は「ワリチャン」と呼んでいた。コウジョウと言うよりコウバとでも言うべきちんけな建物が陰になり、周りに叢がぼうぼう生えていて、道路からは泳いでいる姿が全然見えない格好の場所であった。
  • 蝉が鳴く真夏の炎天下、道路の脇にチャリを密かに停めて「ワリチャン」の周りに積まれた木材の芳香~叢から発せられる独特の臭いを嗅ぎながら、現場に着くなり服を脱ぎ、パンツだけで泳ぐのである。飽きると、湿ったパンツのまま、また何処かに繰り出す様な毎日。楽しかったなぁ~!


農業倉庫

昔横手駅前に「農業倉庫」なる建家があって、屋根裏に鳩が巣を作っていた。小学生の悪ガキ一行は、主に鳩の雛を取りにそこへ出掛けるのであるが、梯子も無いのに屋根に這い上がり広い屋根を忍足で移動する。大方は、下に居る工員の伯父さんにどやされドタバタ逃げるのであるが、あのスリルは超楽しかった!

今の「ゆうゆうプラザ」の辺りにあった、通称「ノンちゃん」こと「農業倉庫」知ってる人いるかなぁ~? 広い複数の建物の中に米俵や米が入った紙袋を沢山積んであった所で、鳩はそれらから溢れた米を食べてたみたいで「ノンちゃん」は藁と米粉が入り混じった独特の臭いがしたなぁ~。

「農業倉庫」の屋根裏は、子供が漸く腰を屈めて歩ける高さの物もあれば、子供でも這い蹲ってしか移動出来ない物もあって、特に後者の場合は、移動中必然的に、セーターの肘とか腕の部分が屋根裏の埃をたっぷり吸ってしまう。で、鳩の巣を物色した後セーターをほろった(?)時に出て来る埃が我々の誇りでもあって、悪さをした満足感からか、皆競ってセーターをほろって(?)自慢しあったものである。(本稿、未だ未だ続く!!!)

南小学校の旧校舎の秘密

旧校舎時代の悪がき達、それもごく一部の生徒しかしらない事実であるが、旧校舎には教師の知らない秘密の冒険コースが存在した。

1)体育準備室から放送室天井に抜ける屋根裏コース

南小学校にはふたつの体育館があり、それぞれ大体育館、小体育館と呼ばれていた。大体育館後ろの倉庫、体育具を置いてあるので体育準備室と呼ばれていたが、その2階部分には屋根裏への抜け穴があった。そこから教師宿直室の便所上を通過し、最後は放送室のスタジオの天井の蓋を開けて出ることができた。誰に教えてもらったのかは忘れてしまったが、筆者も2度ほど冒険したことがある。ちょうど宿直室上を通過中、とある教師が用を足しに入ってきて、緊張しながら息を凝らし時が過ぎるのを待っていた事もあった。

2)体育館ステージ下から正面玄関床下に抜けるコース

大体育館ステージ上手側には扉があり、そこからステージの内部に入ることができた。そこまでは比較的多くの生徒に知られており、生徒だけの秘密の集合場所になっていた。ここから先は筆者自身で開拓したコースなので、他に知る人間はいないかもしれない。ステージ内部の奥にはコンクリ製の土台があり、土台には通気用に子供だけが通ることの出来る穴が開いていた。同じ様な土台が学校の床下全体にわたって存在しており、1度目の挑戦は途中で心細くなりプール前の床下から外へ。2度目の挑戦はかなりの時間を要したが、そのまま校舎を半周、最終的には教師用の正門床下から外へ出ることができたのであった。
jundiver記

南中第一校舎時代の薪の争奪戦

南中が現在の様に統合される以前の話、旧一中である南中第一校舎は現在の看護学校の場所に建っていた。当然その頃は薪ストーブ、毎朝薪置き場より自分のクラスの割り当てを教室まで持ってくる習慣になっていた。ある頃から、ある種の遊びの一環として、薪置き場の自分のクラスの薪の山に、隣のクラスのそれから1,2本拝借するのが流行っていった。お互いに同じ事を行うわけであるから、虎視眈々相手の出るタイミングを見ながらである。それがエスカレートし、他教室に移動済みの薪まで手をつけるようになってから、いかに自分達の薪を守るかというのが課題になってきた。そこで筆者達が考えたのが天井裏に隠す事であった。教室の天井の端には扉があり、そこから入れて隠すわけである。最終的にかなりの本数を天井裏に隠し、天井がしなっていたのを記憶している。
jundiver 記

南中玄関前の少年像について・・星の会 昴

南中学校玄関の前には空を見上げる少年の像が建っている。彼は私の友人でもあった小西譲君である。小学校時代から他の生徒達とは一線を画す勉学の才を発揮していた彼は、小六の時に「星の会 昴」を立ち上げ、会員である筆者らと共に宇宙の事を調べたり、議論しあったりしていた。1972年頃にブラックホールがどうしたこうしたと議論していたわけであるから、かなりの早熟な小学生だったのかもしれない。共に南中、統合直前の第一校舎に入学、これから一緒に天体観測をと思っていた矢先、トラックにはねられ若くして先立っていった。少年の像が見上げているのは青空ではなく、無限の宇宙なのだろうと思わずにはいられない。
jundiver 記

ユキチ爺さんのはしまき屋

1960年代の一部の子供達にとって強烈な印象を残したお好み焼き屋、それがユキチ爺さんのはしまき屋である。最初は正平寺赤門前の広場に屋台を出していたが、後半は清川町の住宅街の奥に移り、住居の一部を改造した店舗で続けた。

はしまきとは

一言で言えばお好み焼きを割り箸に巻いた物である。小麦粉はかなり少なめすることにより、水分を多く含むそれは餅の様な食感である。その為、割り箸に巻いてもしっかりときりたんぽ形状を保つことができた。ユキチ爺さんはマグカップ上の入れ物で小麦粉・水・具を混ぜて、軽く焼いた後、器用に割り箸に巻き、最後に刷毛でソースを塗って渡してくれた。

はしまきの具

基本は「白」、つまりまったく具の入っていないものである。価格は10円だったであろうか。鉄板の前には紅しょうが、桜でんぶ、刻み昆布、鮪フレーク等々の具の入った缶があり、一品10円位で追加することができた。「肉」は例外で若干高く30円位であったろうか。ただし「肉」と呼んでいたが、実際は鮪フレークであった。紅しょうがを入れたときははしまき全体がピンクに染まったものである。

高級品「たまご」

めったに食べることの出来ないものが「たまご」である。肉よりもさらに高価で50円くらいだったはずである。卵を持参した場合は請求されない。卵が入った場合は割り箸に巻くことはできないため、ユキチ爺さんは黄色いアルマイトの皿を出してくる。皿が汚れぬようあらかじめ油紙を敷いておく。鉄板の上で薄めのお好み焼きを四つ折にし、皿に載せた後、フライ返しでお好み焼きに格子状の切れ目を入れてくれる。最後に刷毛でソースをでろでろ塗ってできあがりである。小麦粉が少ない為食感は卵焼きに非常に近い。

はしまきの再現

はしまきを作るのはそれほど難しくはないが、いくつかのポイントがある。筆者の経験では、「なるべく大きなフライパンを用意する」--フライパンが小さいと割り箸に巻く際にふちが邪魔になる。「小麦粉少な目、水多目」--仕上がりが半透明な餅状にするのがユキチ爺さん風である。またそうでなければ割り箸を持って食べることは出来ない。「具も少なめ」--こちらも割り箸に巻く為に不可欠である。

まとめ

はしまきは当時の子供達にとってはご馳走であった。味はともあれ、少ない材料で作れ、割り箸1本皿要らずで最後まで持って食べることの出来る非常に合理的な食べ物であった。決して清潔とは言えないユキチ爺さんの店、親に禁止され食すことの出来なかった子供達もいたことを記しておく。
jundiver 記

横手やきそばの名店 近江屋

四日町、鍛治町、清川町が交わるT字交差点。松與商店の向かいの角に近江屋という横手やきそば屋があった。建物がビルに建替えられた後もしばらく営業していたが1980年代には廃業したと思われる。もともとラーメン屋よりも焼きそば屋の方が多かった横手において、なぜ近江屋が特別であるのか。現在、横手やきそばと言えば、「茹で麺、ひき肉、目玉焼き、福神漬」と食材とトッピングの妙を特徴として紹介されることが多いが、横手やきそばの真魅力は「麺、出汁、喉越し」にあるのではないかと筆者は思っている。ひき肉も目玉焼きも入っていない、いわゆる「並」を食べた時に、最も横手やきそばらしさを感じることができるのではないだろうか。その点で言えば、近江屋は「並」の旨い店であった。勿論、「肉玉」はさらに旨いのであるが。近江屋の麺とソースと出汁の絶妙のバランス、食後に皿に溜まるほどの量であるにもかかわらず辛すぎないソースに喉越しのいい麺。未だに近江屋に匹敵する横手やきそばは食べたことが無いのである。ここまではあくまで筆者の私見であり、自分だけの味の記憶であったわけだが、最近になり同じ様に近江屋をBest of 横手やきそばと推する同胞が現れた。それが東京西荻窪のTheロック食堂のオーナーである。彼もまた近江屋のそれを雨だれ焼きそばと称して絶賛している。

近江屋の味の再現

昔と違い、専用ソースが市販されるようになった今では家庭で横手やきそばを作るのも簡単になってきた。筆者が近江屋の味を再現しようとする時の方法を簡単に紹介してみる。ソースを本来より2倍程度に水で薄めたものをコップ1杯程度作っておく。その半分の量で通常に横手やきそばを作り、フライパンから上げる寸前残りのソースも入れ、ソースに熱が通ったらすかさず皿に移す。ソースで煮込むと麺が台無しになるので注意。全てはタイミングで、失敗すると麺が水を含んでべたべたになってしまう。成功すれば、さらりとしたソースが絡む近江屋風やきそばになるはずである。専用ソースを使わず、市販のウースターソースに和風だしを混ぜる方法も試みているが、往年の近江屋の味はなかなか再現できないものである。
前述の東京西荻窪のTheロック食堂でも近江屋の味の再現を試みている。ソースの調合から正攻法でアプローチしているようである。

近江屋のオヤジさんは映画好き?

近江屋で印象深かったのは、映画専門の写真誌である。「スクリーン」だったか「月刊近代映画」だったか、往年の名優達が載っているB4サイズ位の雑誌が常に置いてあり、それを眺めながら食べたものである。

近江屋のオヤジさんは相撲好き?

これはTheロック食堂のオーナー氏から聞いた話であるが、店内に相撲の番付表が貼ってあり、彼が来店すると隣に座り、千代の富士の筋肉についての薀蓄を語ってくれたそうである。
jundiver 記

かど焼き

昔はさくら祭りといえば「かど焼き」(にしんの塩焼き)だったそうですよ。
雪深い横手のようなところでは冷凍技術のなかった昔、雪解けとともに川を遡って運ばれた「かど」は、季節の縁起物として珍重されたそうです。数の子抱えたかどを焼いて酒を酌み交わし、春の喜びを感じるという文化だとのこと。

昔の宿題

小学校の時、いなご取りの宿題があった。一人いっこずつビニール袋持って田んぼん中帰った記憶が
小学校の運動会「どじょうすくい競争」のために一人一匹以上どじょうを捕まえて学校に持って行った

出てくる!出てくる!皆様の思い出!

  • 硬雪渡って学校に行った(それって学校公認!!?)
  • 除雪車が雪寄せしてできた雪山さえ、遊び場
  • その雪山が通学路
  • スキー場だって自分達で雪踏んで滑ったもん。(えっと。。。いつの時代??w)
  • ユーワにピンポンとブロック崩しのテーブルゲーム機が入った時は足しげく通った
  • 愛宕山で小判見つかった話、平成生まれは知らないだろう?

話はサイダー遍歴まで及び。。。。
きんらんサイダー、地球サイダー、宝サイダー。バンブル。
宝サイダー卒業後は「ミリンダ」へグレードアップ。
キリンレモンの瓶、箱買い(←セレブだ!という噂も。。。)
等々。。。

暖飯器と暖乳器

暖飯器

筆者が中学2年になるまで、横手の小中学校では給食が始まっておらず、皆弁当を持って学校に通っていたものである。暖房といえば薪ストーブ。そんな時代の冬の風物詩、弁当のおかずの匂いとともに思い出されるのが暖飯器である。簡単に暖飯器の構造を説明すると、金属製の四角く深いトレーである。底は二重になっており、蒸し器のように下段には水を入れるようになっている。その上段部分に各自の弁当を入れ、暖飯器をストーブの上に載せるわけである。現在で言えば、さしずめ弁当をチンする感覚であろうか。冬に暖かい弁当を食べられるナイスアイディアな器具であったが、ひとつだけ難点があった。ご飯だけを分けて暖めれば問題ないのであるが、そこはこちらも小学生、おかずの入ったままの弁当を考えなく放り込んでいった。当然の事ながら、卵焼き、焼き魚、ウィンナー、カレー・・・全ての匂いが渾然一体のなった、もはや「臭い」が教室中に漂うのである。

暖乳器

こちらは正確には覚えていないが、たぶんこの様な名前であったはずである。給食のなかった当時であるが、牛乳給食と称して瓶入り牛乳だけは全員に配布されていた。冬季に牛乳を温めるのに使用されたのが暖乳器である。暖飯器と同様ストーブに載せて用いるのであるが、牛乳をお湯にひたすだけなので二重底にはzなっていなかったうである。もしかすると暖飯器の中底を外し流用していたのかもしれない。
jundiver記

田中町松竹館

昔、田中町松竹館という映画館があり弁士の名前が鈴木ライオンと言う人でした。

最終更新:2011年01月30日 12:37
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