「唯先輩」
 私の隣で、注意された部分を何度も何度も繰り返し練習している唯先輩に声をかける。
 二人っきりの音楽室。今日は他の先輩たちがいない、皆さん用事だとかなんだとかで残ったのは私と唯先輩だけ、という訳。
「どうしたの?」
 譜面から顔を上げて、視線を私に移す。同時に手も止めて、最後にぽろんと弾いたCの音が部室内に響いた。
 その音が完全に消えるのを待って、私は鞄からあるものを取り出し、それを唯先輩に差し出す。
「これ、何?」
「クッキーです。試しに作ってみたらこれがなかなか面白くて、ついつい作り過ぎちゃったので唯先輩におすそ分けしようと思って持ってきたんです」
あずにゃんの手作りかぁ~」
「あまり根を詰めすぎるのもよくないので、少し遅いですけどティータイムにしましょう」
「そうだね」
 唯先輩が机の上を片付けて、できたスペースに私は次々とクッキーを置いていく。
「あ、あずにゃん……?」
「どうしたんですか?」
「多すぎない? これ……」
「言ったじゃないですか、作りすぎた、って」
「確かにそう言ったけど、それならみんながいるときに出したほうが良かったんじゃないかなぁ」
「それだと味が落ちちゃうかもしれないですか、それに――」
「それに?」
「……唯先輩に食べてもらおうと思って、作ってきたんですから」
 その言葉に、唯先輩は少し驚いた風に口を開ける。だけど、やがてそれがとても優しい笑みに変わって、小さな唇から「そっか」と小さな呟きが漏れた。
 そして、持ってきたものを全部テーブルの上に並び終えて、自分の席に座る。唯先輩は、私の対面に座った。
「唯先輩、席違いませんか?」
「いいのいいの、今日は二人っきりなんだから、細かいことは気にしな~い」
「ま、いいですけど」
「うんうん。それじゃ、早速食べようか」
「そうですね。初心者なので、味はあまり自信がありませんけど」
「味なんて気にしないの。気持ちが篭ってればそれで充分嬉しいよ?」
「それはどうも」
 この人は何の前触れも無く攻撃をしかけてくるから困る。不意をつかれて顔がにやけそうになるのを抑えるのも、結構大変なんですよ?
 別に、にやけ顔を見られたからといって何か損するようなことがある訳では無いのだけれど。
「まずはこれから食べようかな~?」
「あ、それは……」
 そう言って唯先輩が摘み上げたのは少し焦げてしまった失敗作。
 それは止めといたほうがいいですよという私の言葉を無視して、唯先輩はそれを口の中に放り込んだ。
 唯先輩が口を動かす度に、サクサクとした音がこちらにまで聞こえてくる。
 やがて、充分それを租借した唯先輩は、用意したミルクティに口をつけずに、そのまま強引に喉に流し込んだ。
 ――あぁ、そんなパサパサしたものを飲み水なしで飲み込んだりしたら、咽ちゃいますよ。
 私の予想通り、全て飲み込んだ後に唯先輩はゲホゴホと大きく咽た。
「ちょ、ちょっと、大丈夫ですか?」
 声をかけながらミルクティが入ったカップを唯先輩の口元に持っていき、そのまま、薄く開いた唇から、零れないように注意してミルクティを口内に流し込んでやる。
 白い喉をゴクゴクと鳴らして、ゆっくりと、味わうようにミルクティを流してゆく唯先輩。
「ん……ぷはー、死ぬかと思ったぁ」
「親父くさいですよ、唯先輩」
 それに、咽たぐらいで死ぬことは無いと思う。いや、もしかしたらもしかするかもしれないけど、それはかなり可能性が低い。
 しかも、注意してあげたのにそれに耳を貸さなかったのだから、自業自得だ。
「あぁ、うん、そう、味のことだけどね」
「わざわざ言わなくても解ってますよ。美味しくなかった、でしょ?」
 作った本人なのだから、それぐらいは解る。
 しかし、唯先輩はノンノンと人差し指を左右に振り、否定のポーズ。
「美味しかったよ、あずにゃん」
「嘘です。焦げたクッキーなんかおいしい訳が無いじゃないですか」
「ほんとだって、あずにゃんも食べてみなよ」
 あ、飲み込むときは気をつけないと、咽ちゃうかもしれないからね。という唯先輩に、あなたほどバカじゃありませんよと聞く人が聞けば失礼な言葉を返し、渡されたクッキーを口の中に放り込んでみる。
 そして、少し躊躇しながら焦げた表面に歯を立てる。
『サクッ』
 口の中に広がるのはとても甘いとは言えない苦い味――ではなく、ほどよく苦味と甘味が混ざった不思議な味だった。
 あれ、そんなに不味くないな……。そんなことを考えながら、充分に租借を済ませると、そのままそれを喉に流し込み――
「ゲホゴホッ」
 盛大に咽た。
 そんな私を見て唯先輩はあぁんもう何をやってるんだいあずにゃんと、ミルクティの入ったカップを私の口元に運んでくる。
 ……完全にさっきと立場が逆転していた。
「んぅ……ぷはっ」
 ゆっくりと味わう余裕は無く、気が付いたらカップの中が空っぽになっていた。
 目の前には膨れっ面な唯先輩。
「んもう、だから気をつけてって言ったのに」
「すみません」
 完全に忘れてました。
「……ん、まぁいいや。それで、味はどうだった?」
「味ですか……そこまで、悪くなかったかもしれませんね」
「でしょ? ほら、あずにゃんはもっと自信を持ってもいいんだよ」
「そう、ですね」
 それでも、まだまだ美味しく作れるはずだ。
「それじゃ、残りも片付けちゃおうか」
「はい」
 ――その後、残りのクッキーをお互いに『あーん』させて食べさせていると、いつの間にか全ての箱が空っぽになっていた。
「あれ、もう無くなっちゃった……」
「唯先輩が食べ過ぎるからですよ、もっとゆっくり食べましょうよ」
「ごめ~ん。あずにゃんが食べるときの顔が可愛くって、つい」
「理由になってません」
 まったく、この人は……。
「でも、あずにゃん」
「はい?」
「美味しかったよ、できればまた食べさせてほしいな」
「……」
 本当に、この人は。
「……しょうがないですね、そこまで言うならまた作ってきてあげますよ」
 ――今度は、今日よりもずっと美味しく、そしてその後は更に美味しく……。



Fin


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最終更新:2009年11月15日 01:08