「た・だ・い・ま~」
部屋のドアをくぐった瞬間、私のルームメイトは気の抜けたような声(実際に抜けてるんだけど)を引きずりながらベッドへ飛び込んでいった。
「もう、布団が汚れちゃうじゃない。寝転ぶのはメイク落としてからにしてよ」
「え~、今日はもうめんどいよぉ」
「だーめ。肌にだって悪いんだから。それにシャワーだって浴びないと。明日レコーディングなのに疲れ取れないよ?」
「…あ~ずさ♪」
「…はいはい。まったくもう…メイクくらい自分で落とそうよ」
「梓にやってもらうからいいんだよ~」
「聞き飽きたってば」
いつもこんな調子。
だらしないこの人を注意して、世話を焼くようになってからずっとずっと変わらない調子。
この人と出会う前より、出会ってからの年月のほうが長くなっても、私たちは何も変わらない。
そりゃ敬語は使わなくなったし、
先輩後輩って関係からもっとずっと距離は近くなったけどね。
でも、この人に世話を焼いて、…ときどき引っ張って貰うのは、いつまでも変わらないんだろうなぁ。
「はい、落とし終わったよ。次はシャワーね」
「梓は?一緒にシャワーする?てゆーか、一緒しようよ~」
余分なものが落ちて素顔に戻ったルームメイトが、…出会ってから今日まで私の一番慣れ親しんでる姿に戻った唯が、
脱力しきった笑顔を浮かべながら私の身体に腕を絡ませてくる。
これはこの人のサイン。
私と唯の間でしか通じない“特別なサイン”だ。
「だーめ。唯がシャワー浴びてる間にメイク落とすんだから。時間は効率的に使わないと」
「たまにはいいじゃん。お化粧はシャワーで落としちゃえばいいよ」
「またそんな大雑把なこと…。もう三十越えてるんだから、そんなんじゃだめだよ、唯」
「四捨五入すればまだ三十ちょっきしです!」
「…悲しくなるような言い訳はいいから」
唯から出されたサインは、私の心を溶かしてしまいそうになるけれど、
ふと明日が大切なレコーディングだと言うのを思い出し、
押し寄せる衝動へ身を委ねる前になんとか踏みとどまることができた。
危ない危ない。レコーディングの前に喉をからしちゃうわけにはいかないよ。
四捨五入すればぴったり三十歳、つまり四捨五入しないともうすぐ折り返し地点という残酷な現実を突きつけられた唯は
名残惜しそうに私の唇を貪ってから、「まだまだ私は三十歳!」と悲しくなるような小唄を引き連れてシャワーに向かっていった。
「まだまだ女子高生気分が抜けないね」
その姿をぼんやりと眺めながら、私はベッドに横になる。
ふふっ…これじゃ唯のこと、注意できないな。
♪キミを見てるといつもハートどきどき…
唯の携帯が不意に着信音を鳴らし始めたのは、思い直して自分のメイク落としに取りかかった直後のことだ。
小窓をのぞき込むと、そこには「真鍋憂」の名前とメール着信を知らせる表示。
憂はお嫁に行った後も何かにつけて私たちのことを気にかけてくれる。
それは憂だけじゃないかな。真鍋婦妻はすっかり私たちの相談役だ。
きっと今日も仕事で疲れてないか、心配してメールをくれたんじゃないかな。
今頃は和先輩から他のメンバーのところにも同じメールが送られてると思う。
憂も和先輩も、私の憧れだ。私や他の人たちのことは勿論、唯のことをすごく気にかけてくれて、
いつも一緒にいる私でさえ気づかないことをすぐに見抜いてしまう。
それはきっと、“私が唯と出会う前の時間”の中で育まれたもの。
すごく羨ましくて、ふたりみたいな気配りが私の密かな目標だ。
(…今は私が独り占めしてるからいいもん…)
そんな子どもみたいなことを考えた自分に苦笑いしつつ、とりあえず適当にボタンを押して着信音を止めておいた。
♪キミを見てるといつもハートどきどき…
シャワー室から同じ「ふわふわ時間」が聞こえてきたのは、まさにボタンをプッシュしたその直後だった。
唯だ。静かになった携帯から引き継ぐように私たちの代表曲を歌い始めたみたいだ。
肩の力が抜けた歌声って言えばいいのかな…。
いつもの唯の歌声もすごく好きだけど、やっぱりどこかで“仕事”っていうフィルターがかかってしまうから。
だから、何も気負っていないときの唯の歌声はすごく柔らかくて、私はその歌声にとろけてしまう。
音楽が好きで好きでたまらない唯のことだから、ホントは最初から何も気負ってなんかなくて。
気負ってるのは実は私のほうなんじゃないかなって思ったりもするけど。
あぁ、だけど………
………だけど………
………
………………
………………………
「――ふあっ!?」
今、寝てたよね!?
意識飛んでたよね!?
慌てて周りを見回そうとしたら、いつの間にか私の向かい側に座っていた唯と目が合った。
…いつの間にかってことはないか。私がうたた寝してる間に出てきたんだよね。
気づかないうちに肩にかけられていたカーディガンからは、
きっとこの人だけが醸し出せるんだろう優しいものが薫っていて。
けれどもそれに身を委ねたら、今度こそ本当に寝入ってしまうのは間違いないから、
甘い甘い誘惑を断ち切って、私の顔をニコニコしながら眺めていた恋人にいつもの悪態をついてみる。
素直にアリガトって言わないのは、もう言葉遊びみたいなもの。
出会う前より後のほうが長くなった私たちだけのスキンシップ。
だって素直に態度で示さなくても、私もこの人もちゃんと理解(わか)るから。
だから私はいつもみたいに悪態を吐く。
「人の寝顔見ながらにやけるなんて趣味が悪いよ」
「だって可愛いんだもん♪」
…この人のこーゆーところも変わらないなぁ。
「三十超えたおばさんに可愛いなんて言っても何も出ないよ?」
「歳なんて関係ないよ。梓はいつまでも可愛い可愛い天使だもん」
「はいはい」
「あ~、流したな~。やっぱり可愛くないよっ!」
ひとしきりじゃれ合ってから、いい歳して何やってんだろうねって笑い合って、それから軽くキスを交わす。
もうとっくの昔に初々しさとか照れくささなんか置いてきたけど、
出会ってからも、恋人になってからも、
これから先もずっとずっと、これだけは変わらない。
「先にシャワー行っちゃう?後にしようか?」
「ううん、先に呑みたい。寝ぼけた頭を覚ましたいもん」
「メイクは?」
「シャワーで流しちゃうよ」
「ほ~ら、梓だって横着者じゃ~ん」
「十何年もだらしない人と一緒にいたからね。伝染しちゃったよ」
「またまた可愛くない言い訳だぞ~」
「だって三十路全開のおばさんですから」
最後にビールで乾杯。
今日もありがと。明日もよろしくね。
そんな気持ちをおつまみにして、私たちは一日を終える。
「かんぱ~い!…ん~、たまんないねぇ~」
「ほら、口の周りに泡が着いてるよ」
「梓、拭いて~♪」
「まったくもう…しょうがないなぁ」
三十超えのおばさん同士だけど、なんてことのない日常だけど、私は今日も幸せだ。
- 新鮮ですな -- (名無しさん) 2010-12-21 23:36:15
- 二人にはずっと仲良しでいてほしいですね -- (名無しさん) 2011-01-13 17:35:15
- これすごい好き -- (名無しさん) 2011-05-04 16:07:23
- いいね! -- (名無しさん) 2012-02-17 17:19:44
最終更新:2010年12月21日 22:10