ピリリリリ、ピリリリリ……
(ん……)
枕元で耳慣れた音が鳴っている。
ピリリリリ、ピリリリリ……
重い頭を上げて、窓の外にチラリと目を向ける。
霧雲一つ無く澄んだ夜空には、望月が黄金色の輝きを堂々と放っていた。
鳴り続ける携帯を手に取り、液晶パネルの時刻を確認する。十八時三十五分。
同時にそこには「唯センパイ」の五文字が浮かんでいた。
(唯先輩……)
私は電話に出ることを躊躇った。
まるで、あの小説の悲劇を辿るような展開。
ここで先輩の優しさに縋ったら、今にも溢れ出しそうなこの想いを堪え切れることはできないだろう。
唯先輩は寛大な心の持ち主だから、歪曲した私の激情だって受け止めてくれる。と、思う。
別に、自惚れているわけではない。
何となくそんな確信が持てるだけ。唯先輩は優しすぎるから。
だからこそ、怖い。
間違った道に唯先輩を引き摺りこんで、あの話のように傷付けてしまうことが何よりも怖い。
周囲から白い目を向けられて、親にバレて別れざるを得なくなって、唯先輩のことを忘れなきゃいけなくなるなんて……
そんなの絶対……嫌だ。
無機質な音に神経を強張らせながら、時間は刻々と過ぎていく。
三十秒くらいが過ぎた頃だろうか。着信音はピタリと鳴り止んだ。
イルミネーションの消失した携帯を手に取り、恐る恐る着信履歴を確認する。
十八時三十四分 唯センパイ
十八時五分 唯センパイ
十八時三分 唯センパイ
……
…
数えてみたら、「唯センパイ」十八件。
それと、「律センパイ」三件、「澪センパイ」二件、「紬センパイ」二件、「憂」一件、「純」一件。
計二十七件。そのうち三分の二は唯先輩からだった。
きっと私が部室を飛び出してから、日没を迎えた後も必死に探してくれていたのだろう。
膨大な履歴数に驚く暇もなく、再び着信音が鳴り始める。
ピリリリリ、ピリリリリ……
画面を見る。唯センパイだ。
これ以上、心配をかけるわけにはいかない。
でも電話に出てしまえば、今の日常には二度と戻って来れない。そんな気がする。
矛盾する二つの自分。堂々巡りの葛藤が続く。
ピリリリリ、ピリリリリ……
三十秒経っても、六十秒経っても、着信音が鳴り止む気配は一向に無い。
最低だよ……私。
結局どっちを選んでも、唯先輩を傷付けてしまう結果に変わりはじゃないか。
電話に出れば、唯先輩は安心するだろう。でも、彼女を間違った道へ誘うことになる。
電話に出なければ、唯先輩を堕落させることはないだろう。でも、必死で探す彼女の気持ちを裏切ることになる。
ピリリリリ、ピリリリリ……
優に九十秒は経っただろうか。着信音はまだ鳴っている。
流石にこれ以上、無視を続けるわけにはいきそうもなかった。
私はついに、行動を起こす決心を固めた。
もう……これしかない。
こうするしかないんだ。二人が不幸を免れるためには。
震える指先に力を込める。
ピッ。
プッシュ音と同時に跳ね返ってくる、電話の主の声。
唐突に繋がったからか、唯先輩は裏返ったような高音を発した。
「……唯先輩」
『良かった、良かったよ……!本当に無事で良かった……!』
『りっちゃんと、澪ちゃんと、ムギちゃんと、それにさわちゃんにも頼んで……皆で手分けして探していたんだよ』
『もう、すっごく心配したんだから……』
「……ごめんなさい」
涙を目に溜める唯先輩を浮かべて、心がズキンと痛む。
それでも私の声を聞けたからか、その声には少し安堵の色が戻ったようだった。
『うん……もういいよ。こうやって声を聞かせてくれたから』
「……」
『あずにゃん……今、どこ?』
「それは……言えません」
『……どうして?』
「唯先輩を……傷付けることになってしまいますから」
『……』
暫しの間、唯先輩は何も言わなかった。
やがて、静かに沈黙を破る。
『あずにゃん……今日さ』
『何か辛いことを思い出して……部室を飛び出したんだよね』
「……」
『私には分かるよ。だってあの時、私のこと……とても悲しそうな目で見ていたから』
「……」
『ねぇ、あずにゃん。もし良かったら、私にその悩みを話して…』
「ダメです!」
『!』
つい大声を上げてしまった。
電話口の向こう側で、はっと息を飲む音が聞こえる。
「ダメなんです……この悩みは、絶対に話すわけにはいかないんです」
『あずにゃん……』
「話したところで……何が変わるわけじゃない」
「偏見に満ちた世界なんて……何一つ変わりやしない」
『……』
「それに……何よりも」
「私の悩みを打ち明けることは、唯先輩を傷付けてしまうことに等しいから」
分かって下さい、唯先輩。
「お願いだから……これ以上私に構わないで下さい」
全ては、あなたのためだから。
「これ以上、私に……優しくしないで……」
──あずにゃん。
ふと。
私を呼んだ声。
とっても、優しくて。
とっても、柔らかくて。
とっても、温かいその声は。
──好きだよ。
氷のように冷え尽くした、堅牢な私の心を溶かした。
『あずにゃんのこと、大好きだから……傷つくのなんてへっちゃらだよ』
『一人で苦しんでいるあずにゃんを見ている方が……私にはよっぽど辛い』
『会いたいよ、あずにゃん』
私だって……
会いたいですよ。
でも、世間はそんなに寛容じゃないんですよ。
同性愛者と聞いただけで、奇異の眼差しを向けられるんですよ。
女同士が愛し合ったところで……幸せな未来なんて用意されていないんですよ?
『そんなことないよ』
泣きながら訴える私の憂慮を、唯先輩はきっぱりと否定した。
『私たちまだ……何も始まってすらいないじゃん』
『未来なんて、変えようと思えばいくらでも変えられるんだよ』
『ううん、変えてみせる。あずにゃんと一緒なら、何でも乗り越えられるって信じてるから』
確証なんてないのに。
唯先輩の言葉は、勇気と自信で満ち溢れていた。
沈降していた硬骨な感情が、不思議な揚力によって引き上げられていく。
『それに……』
『私たちには、信じてくれる仲間がいるから』
「…!」
仲間。
歪な感情を自覚して以来、切り捨てるしかないと思っていた存在。
今は仲が良くても、真実を伝えれば途端に態度を翻すだろう。そう思い込んでいた。
『りっちゃんも、澪ちゃんも、ムギちゃんも、さわちゃんも、憂も、和ちゃんも、きっと純ちゃんだって……』
『みんな、理解のある人たちだから。私たちのこと、必ず受け入れてくれる。私はそう信じている』
周りの人たちを信じるなんて、考えたこともなかった。
だって、付き合ってしまえばみんな敵だと思っていたから。たとえそれが親友でも。
でも、今なら……もしかしたら。
信じられるかもしれない。根拠なんて何一つ無いけど。
唯先輩と一緒なら……本当に不思議だけど、大丈夫な気がする。
『だから……あずにゃん』
『会いたい……会いたいよ』
私は……
あの声を、もう一度聞きたい。
あの笑顔を、もう一度見たい。
あの温もりを、もう一度感じたい。
「唯先輩っ……お願い、来て……!」
抑え込んでいた感情が、爆発した瞬間だった──
三十分後。
インターホンが鳴るよりも早く、ガチャリと玄関のドアを開ける。
その勢いで、両手を広げながら愛おしい胸の中へと飛び込んだ。
「唯先輩っ……うう、ぐすっ……」
何も言わずに私を抱きしめる唯先輩。
その腕は力強く、決して私を離そうとはしなかった。
もちろん、私だって離れる気は更々なかったけど…
「……寒いから、中入ろっか」
玄関先で抱き合ったままのわけにもいかず、とりあえず私の部屋へと移動する。
部屋に到着するや否や、私は再び唯先輩に抱きついた。
唯先輩は胸の中で、しっかりと私の身体を受け止めてくれる。
背中に回された両腕は、温かくて。
ふわふわな栗色の髪の毛からは、良い匂いがして。
密着させるように押しつけられた豊潤な膨らみは、柔らかくて。
何もかもが、愛おしくて。
足をもつれさせるようにして、私たちはベッドへと倒れ込んだ。
押し倒すような体勢の私を、唯先輩は全身を使ってぎゅっと下から抱きしめてくる。
その感触に少しの間身を委ねるも、腕を立てて意志を表示する。
それに答えるかのように、唯先輩は私を抱きしめる力を緩めた。
唯先輩と目が合う。
熱い視線、紅潮した頬、漏れる吐息。
そして……瑞々しい唇。
全てが魅力的だった。
欲しい。唯先輩が欲しい。
離れて行かないように、唯先輩を私のものにしたい。
目を閉じて、顔を近づけようとした時だった。
「あずにゃん……その前に、聞かせて」
──私のこと、好き?
ずっと封印してきた、その言葉。
もう迷うことはない。今ならはっきりと言える。
──好きです、唯先輩。
「ありがとう……私も好きだよ、あずにゃん」
その言葉を最後にして。
私たちはそっと、唇を重ね合った。
柔らかい感触が伝わる。
「んっ……」
大好きな人との、初めてのキス。
それは、想像していた唯先輩の唇よりずっと柔らかくて。
幸せで、気持ち良すぎて、おかしくなってしまいそうだった。
「ふむっ……」
私はさらに強く唇を押しつける。
呼応するように、唯先輩の腕が首に回される。
啄ばむような短いキスを繰り返した後、どちらからともなく舌が割って入る。
「んん……ちゅくっ……唯先輩……」
「はむぅ……んちゅ……あずにゃん……」
唇と唇を繋ぐのは、唾液の応酬によってできた銀色の橋。
荒くなる息遣いと、無意識に漏れる声が二人の興奮を高めていく。
何度も何度も、蕩けるような甘いキスをして。
やがて私は、白いブラウスの第一ボタンに手をかけた。
「いいよ……あずにゃん、来て……」
それが私の覚えている、最後の言葉だった──
ピリリリリ、ピリリリリ……
(うーん……)
枕元で耳慣れた音が鳴っている。
ピリリリリ、ピリリリリ……
気だるい上半身をゆっくりと起こす。
横を向くと、幸せそうな寝顔が月明かりに照らし出されていた。
(そうだ私、唯先輩と……)
今さらながら、先程まで無我夢中だった自分を思い出して恥ずかしくなる。
一体私たちは、どれだけ行為に没頭していたというのだろう……
とりあえず携帯を手に取り、液晶パネルの時刻を確認する。
「二十二時四十五分……って、お母さん!?」
電話をかけてきたのは、父と共に年末のジャズ公演で出張している母だった。
こんな状況でかけてくるなんて……あまりにもベタ過ぎるよ。
かと言って、しらばっくれるわけにもいかない。軽く咳払いをした後、通話ボタンを押す。
「も、もしもし」
『やっと出たわね、梓』
「え?」
『もうこれ、三回目のコールよ?』
「ごめん……ちょっと寝ちゃっててさ」
『家にいるの?』
「うん」
『そう……今日、クリスマスだけどお祝いできなくてごめんね』
「ううん、全然気にしないで」
そういえば今日、クリスマスだったっけ。
せっかくのパーティー、台無しにしちゃったな……先輩たちに謝らなきゃ。
『明後日、お父さんと
プレゼントを持って帰るから、楽しみにしててちょうだい』
「……ありがとう」
『それじゃあ……メリークリスマス、梓』
「メリークリスマス、お母さん」
『おやすみなさい』
「……おやすみ」
そう言って、通話は切れた。
唯先輩が寝ていて良かったけど、騙しているみたいで少し罪悪感があった。
……いつか。
お母さんとお父さんにも、このことを話せる日が来るのかな。
そんなことを考えていると、寝ていたはずの唯先輩が突然口を開いた。
「お母さん?」
「わっ……なんだ、唯先輩起きていたんですか」
「うん。声出しちゃマズいと思って、寝たフリしてたの」
ふんす、と得意気などや顔。
特にそれが面白いわけではなかったんだけど。
「……ぷっ」
「っふふ……うふふ」
「あはは、あははははっ」
何だか可笑しくて、暫く二人で笑っていた。
ついの今まで感じていたネガティブ思考は、どこか遠くに吹き飛んでしまったみたい。
「あはは……はぁ、あずにゃん」
「何ですか?」
「私たち、もう恋人だね」
「……はい」
ぎゅっと、唯先輩は私を抱き寄せる。
私も唯先輩の背中に手を回しながら、柔らかい胸元に顔を埋めた。
恋人。
望んでいたけど拒み続けてきた、先輩と後輩を超越した関係。
それは私が、あの小説のような結末を迎えることを恐れていたから。
でも、もう大丈夫。
唯先輩と一緒だから。
仲間を信じているから。
両親にだって、いつか自分から話せると思うから。
「あ……」
ふと唯先輩が、何かに気付いて声を漏らす。
「どうしました?」
「見て……」
その視線を追った先には。
「ホワイトクリスマス……だね」
私たちを祝福するかのような純白のクリスマスプレゼントが、星屑の隙間から優しく降っていた。
END
- これは続編がないとダメだ -- (名無しさん) 2011-01-08 13:21:31
- 大長編の予感 -- (名無しさん) 2011-01-08 14:11:59
- 素敵だ・・・ -- (名無しさん) 2011-01-14 19:07:03
- これは名作 gj -- (名無しさん) 2012-11-15 20:28:16
- きっと2人の愛を知ったら父母は認めてくれるよ!!唯と梓は 2人だけじゃない。 律先輩に澪先輩に紬先輩にさわ子先生に 憂ちゃんに純ちゃんがいる!みんなわかり合える仲間だから…。だから2人は愛を築いて行けばいい。だって、味方…いや、仲間がいるから…2人の決めた運命だから。女の子同士でもその好きって気持ちは普通の男女のの好きって気持ちとは変わらないから。同性愛でも好きって気持ちがあれば良いんじゃないかな? だって女の子同士でも男女でも好きって気持ちはみんな同じだから。それを女の子同士は気持ち悪いとか言われたら男女だって同じようになってしまいます。だから女の子同士が悪いも何も好きって気持ち、愛があれば良いんじゃないかな?愛があれば男女だろうと女の子同士だろうと、その人が好きって気持ちは気持ち悪いと思う人がいくら否定しても同性愛は普通の異性愛と、同じ愛があるから。 例え否定されても、 同性愛と異性愛は同じ位、好きって気持ちがあるから。それだけは分かって欲しい。
でもこれを読んでるって事はあなたも同性愛は認めるって事ですよね?
すいません。長くなりました。
同性愛最高ーー!!!!! -- (あずにゃんラブ) 2013-01-10 18:13:27
最終更新:2011年01月07日 11:49