「……来ましたね」

 一日分の授業を終え、一仕事終えたぞと緩んでいた気持ちがぴんと張り詰める。
 部活開始時間だから、ではない。勿論練習開始となればそれ用に気持ちは持っていくけれど、そもそも私たちの部活はその名の通りティータイムから始まるのだから、この時間はメリハリ的な意味で緩めておいたほうが都合がいい。
 実際、私はそれを常としてリズムを整えていたのだけれど。
 半ば蹴り退けるようにして椅子を立ち、重心を低くスタンスを広く、前後左右どちらにも瞬時に動けるよう、身構える。
 理想を言えば俊敏な黒猫のように。実際のところ、毎日毎日繰り返しているうちに私の動きはそれに類するくらいに研ぎ澄まされているという自覚はある。
 だけども油断はできない。何故なら、私がどんなに会心の動作を見せようとも、結局私は一度たりとも――
 ――あの人から逃げられたためしは無いのだから。

「あーずーにゃーん!」

 バーンという音と共に、私を張り詰めさせていた気配が、その形を現す。
 周囲10Kmくらいの幸せを集約させたんじゃないだろうかってハッピーな笑顔を浮かべ、ふわりと柔らかくて暖かなその胸をこちらに広げたまま駆け寄ってくる。
 このまま私が立ちすくんでいれば、ぎゅうっと抱きしめられてしまうだろうと、そう予想を浮べてしまう光景だ。
 そう、ついこの間までなら、その予想通りにことが運んでいたのは確かだった。けれど――
 その一瞬、ほんの一瞬だけ思考に意識を向けてしまったその僅かな隙。それだけで、唯先輩の姿は、気配ごと私の眼前からかき消えていた。
 低くした重心を更に落とす。感覚を研ぎ澄ませる。その姿を視認できないことは、今問題にすべきことじゃない。
 それに思考を囚われ失敗を繰り返した経験が、私にそう教えてくれた。そう、目的はわかっている。如何にめくらましを使おうとも、その終着点はここなのだから。
 その兆しを見落とさず、最後の一瞬に対応できてしまいさえすれば、私の勝ちなんだ。

「ふふ、あずにゃん?」

 耳元を打つ甘い声に、戦慄が走る。唯先輩の俊敏さは知っていた。この数日間でこれでもかというほど思い知らされていたから。
 だけれども、まさかあの一瞬で背後まで取られてしまうとは思わなかった。いや、俊敏さだけではなく、この位置までその存在を感じ取らせない隠匿技術を褒めるべきなのか。

 ――もう、この努力を練習の方にまわしてくださいよ。

 湧き出てきた突込みを、慌てて放り投げ、身を翻す。まだ終わっては無い。ここで諦めるわけには行かない。
 その気になったときの先輩の運動能力を知っている私にとっては、この位置関係は最早絶望的ではあるものの、だからと言って諦めるわけには行かない。
 メリットデメリットの問題ではなく、これはもう勝負として成り立っているのだから。だから、私はあっさりと負けを認めるわけには行かないのだ。
 視認している時間はない。先輩の声から位置を推測し、その反対側へと体重ごと大きく利き足を踏み出す。同時にそれを支点としてぐるりと体を反転させ、前進の勢いを殺しつつ、背後へと振り返った。
 いない。だけど、それは既に予想していた。唯先輩が、私に位置を知らせたまま、その場所に留まっているはずがない。
 移動中、瞬きせず視界を巡らせていた。唯先輩の動きが、私の動体視力の限界を超えない限りは、背後に回りこまれていることはない。
 だとすると。

「上ですね!」

 確信はない。ただの消去法だ。だけど、その程度の根拠はあった。一瞬にして天井まで飛び上がった唯先輩はそのまま張り付き、私の隙を伺って――

 ――いや、私の中の先輩像どうなってるの。それじゃもう人外の範疇っていうか、某蜘蛛男とかそんなレベルだよそれじゃ。

 そんな自動的に沸いて出たセルフ突っ込みの通り、そこには先輩の姿はなく、

「ちがうよ、こっち」

 直後、私の胸元付近に突如現れたその気配に、自分の敗北を悟らされていた。

「あずにゃんっ!」

 どうやら先輩は、体勢を低くしたまま、私の意識の死角をついて移動してきたようだ。
 気がついたときには先輩の両腕は私の脇の下から背中に回っており、そのままぎゅうっと抱え上げられるようにして抱きしめられていた。

「えへへ~今日も私の勝ちだね」
「わ、ちょ、ちょっと待ってください……っ」

 先輩は嬉しそうに私を抱きしめる腕に力を込める。
 私の身長は、先輩よりもかなり低い。つまり、こういう抱き方をされると、私の足は地面につかなくなるということになり、そして先輩も私の体重を支えきれるほどの膂力は無い。
 そして、どうなるかというと、

「わ、ととと、とっ」
「きゃ……た、たおれ……!」

 私を抱えたままの唯先輩と、抱えられたままの私はもつれ合うようにどすんとソファーの上に倒れこんでいた。
 そう、ソファーの上に。それも角に体をぶつけるとかそんなことも無く、柔らかいクッションの上に都合よく。
 ああ、つまりはここまで唯先輩の計算どおりだったということですよね。まったくもう、これじゃ、今日も完敗じゃないですか。

「えへへ、あずにゃ~ん」
「もう……今日も私の負けです」

 敗者は大人しく、その胸に抱かれる。ご褒美とばかりに先輩はまたきゅーっと私を抱きしめる腕に力を込めて、私の体からは力が抜けていく。

 ああもう、これじゃ負け癖がついちゃうよ。勝つよりも、負けたほうが……気持ちがいいし。負けず嫌いという私のポリシー、あっさりと崩れ落ちてしまいそう。

 というか、なんでこんなことが日常になってるのか。
 発端は本当にたわいもないこと。とある日ちょっとした悪戯心から、抱きつこうとする唯先輩からひらりと身をかわしたことだったかな。
 すると唯先輩もムキになっちゃって、私もなんか流れ的に本格的に防衛に入っちゃって。
 いつの間にか唯先輩が抱きつくか、私が逃げ切るかの勝負に発展してしまっていた。
 それから部活開始直前のこの追いかけっこが、私たちの恒例となってしまっている。本当にもう、なんでこうなっちゃったのか。
 ちなみに5分逃げ切れば私の勝ち。お互い直接間接問わず、相手にダメージを与える行為は禁止。いつの間にかこんなルールまでできてるし。
 まあ、勝負と言いつつも、私の全敗なんですけどね。勝負にすらなってないというか。ああもう、悔しいです。気持ちいいですけど。
 先輩の方はといえば、抱きしめられるままちらりと垣間見た顔は本当に嬉しそうで、勝者への報酬を存分に味わいつくしてます!なんて表情だ。
 実際に先輩のハグは、それまでのものよりずっと遠慮の無いものになっていた。それまでに遠慮があったかといわれればまた疑問なんだけど。
 ぎゅーっとより強く抱きしめられるようになったし、それじゃ足りないよって言わんばかりにさわさわと撫で回されたり、ペロペロと舐められたり、むちゅーとされたり。
 何で敗者にこんなにご褒美が――いやいや、違いますよ。敗者ですからね。勝者からの仕打ちに大人しく耐えているだけです。気持ちいいですけど。

 まあ、そんなこんなで今日も私たちは仲良くにゃんにゃんしているわけです。
 でも、明日は勝って見せますからね。唯先輩。

(終わり)


  • 唯(負けて気持ちなんてMにゃんだね♪あずにゃん? -- (あずにゃんラブ) 2013-01-21 20:14:12
名前:
感想/コメント:

すべてのコメントを見る

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年02月01日 02:00