(退屈だな……)
窓から差す真夏の陽光に目を細め、わたしは気だるげにため息を付いた。
(かといって、外に出るような陽気でもないし)
陽光だけに限らず、窓を通して聞こえる蝉の大合唱もまた、否応無しに外の暑さを感じさせてくれる。クーラーの効いた部屋もその声だけで、温度が一、二度上がる気さえした。
(憂や純も旅行で家を空けているみたいだし)
そうなるとわたしは退屈を潰す手がない。
あーあ、去年の夏はこんな退屈を味わう事なんて事なかったのにな。
(寂しい……な)
先輩達と毎日のように練習?した去年の夏を思い出す。暑くて暑くて仕方ないのに唯先輩がベタベタとくっついてきて迷惑したり、律先輩が部活と称してプールに行くのを提案したり、澪先輩が……。
思い出すと楽しい反面、寂しさが大きくなった。もう去年のような夏は二度と送れないのだ。先輩達は受験が終わったら卒業してしまう。
先輩達を抜くと実質けいおん部はわたし一人。わたし一人じゃ部活もできないし、来年はどうなっちゃうんだろ。
(宿題でもしようかな)
考え出すと気が沈むばかりだから、夏休みの宿題に手を伸ばす。人目でやる気を削がすような数字の羅列に、思わずまたため息が漏れてしまう。う……ダメだ、わたし完全になまってる……
そういえば、唯先輩はしっかり勉強しているのかな。この暑さだし、ただでさえ回らない頭がますます回らなくなってるんじゃないか、と少し心配になる。
『勉強捗ってますか? 暑いからって怠けないでくださいね』
すぐに返信。
『おはよう、
あずにゃん。失敗しちゃったよー』
添付して送られてくるのは、何やら黒い物体。真ん中が盛り上がってるとこから……め、目玉焼き?
そういえば、今日は憂がいないんだっけ。だから、普段しない料理なんかして……この様なのかな。
『目玉焼き作るコツってあるのかなぁ』
『ふつうに焼けば良いんじゃないですか』
『普通にって何、わかんないよ~』
これではお昼ご飯も思いやられる。
『お昼はどうするんですか?』
『出前でも取るよ~』
『夕ご飯は?』
『出前でも取るよ~』
『……夕飯だけでもうちに来ますか?』
『え? いいの? あずにゃん』
こうして唯先輩がうちに来ることになった。
空が赤色に染まる頃、階下でチャイムが鳴った。
「こんばんわ、唯先輩」
「おじゃましまーす。暑かったよぅ」
扉を開けた瞬間、ムッとした熱気が部屋に入り込む。夕方とはいえ、外はまだ暑さが和らぐ兆しはないようだ。
「あずにゃんの家、何か可愛いね」
家に可愛いも何もあるんだろうか。
「ささ、こっちです。まずはわたしの部屋で勉強しましょう」
「えー、勉強。せっかく遊びに来たんだからゲームしようよ、ゲーム」
口を尖らせて、唯先輩は不平を漏らす。
「ダメです。受験生なんですから勉強してください」
「うー」
なおも唯先輩は口を尖らせる。
「唯先輩が勉強している間、わたしがご飯作ってきますから。しっかりやっててください」
「ご飯!?」
その言葉一つで唯先輩の表情が変わる。そんなに期待されても困るのだけれど。
まあ、ろくなご飯を取れなかったからお腹が減っているのだろう。
「何か希望とかありますか?」
希望に添えるほどのレパートリーがあるわけじゃないけれど、つい見栄を張ってしまう。
「うーんと、うーん……あずにゃんが作ってくれるものなら何でも良いや」
ふふふー、ととても幸せそうな笑顔。わたしは自分の顔が、少し熱を持つのを感じた。
唯先輩のこの笑顔を見ると、いつもこうだ。胸の奥がむずかゆくなる。気持ちが良いような、ちょっと苦しいような、自分でもよくわからなくて、持て余してしまうそんな気持ち。
「じゃ、じゃあっ 勝手に作ります!」
だからぶっきらぼうにそんなことを言ってしまう。
(実際、唯先輩と会うのも久しぶりなんだよな……)
去年はほとんど毎日のように、部活で顔を会わせていたのに不思議なものだ。何だかんだ言っても唯先輩も受験生なのだ。
(でも、唯先輩は相変わらず)
クスリと笑って窓を見ると、真っ暗な窓に写るニヤケ顔のわたしと目があった。何でわたしはこんなにうれしそうな顔してるんだろう。何だか妙に恥ずかしい。
(嬉しいのかな、わたし)
唯先輩に会えて……。
唯先輩は憂達とどこか違う。
先輩後輩だからとかじゃなく、わたしの中の意識から違うのだ。上手く言えないけれど、わたしの中で唯先輩は『特別』なのだ。
だから余計に嬉しい、のかな。
(な、何考えてんの、わたし)
さっき以上に頬が熱くなるのを感じる。これではまるで、まるで……。
でも、その好意はきっとあっちゃいけないものだ。
女の子同士だし、きっと唯先輩は迷惑するし……でも、もし迷惑しなかったら? そしたらわたしはどうするんだろう?
ぶんぶんと私は首を振る。迷惑するしないじゃない。女の子同士だからおかしいんだ。迷惑するしないとかそういう問題じゃない。恋愛は男の人と女の人がするもんなんだから。
(唯先輩もいつか男の人を好きになるのかな)
キュゥと何かに胸が締め付けられる。息が苦しくて、胸がズキズキと痛む。
男の人と手を繋ぐ唯先輩の姿、キスをする唯先輩の姿、……する唯先輩の姿。
男の人と幸せそうに歩く唯先輩の姿。わたしには見せてくれない笑顔で微笑む唯先輩の姿。
(ダメだ、許せない)
そんなの許せない。耐えられない。
でも……先輩は卒業してしまう。大学には男の人がいっぱいいるだろう。その中の誰かと恋に落ちるかもしれない。
そしたら、そしたらわたしは……。
(寂しい……な)
今以上に会えなくなって、わたしのことは過去のことになってしまう。もうわたしに抱きついたりしなくなる。あずにゃん、あずにゃんってわたしの事を呼んでくれなくなる。そうして、わたしのことなんてどうだってよくなるんだ、きっと。
視界がぼやける。そんなの嫌だった。でも、どうしようもない……
「あずにゃんの料理可愛いね」
「…………」
「どうしたの? あずにゃん」
「え? あ、どうかしましたか唯先輩。おかわりですか?」
「ううん、何か元気ないなって思って」
心配そうに唯先輩はわたしの顔を覗き込む。
唯先輩の丸っこくて無垢な瞳を、今はどうしてもまっすぐに見ることができなかった。
「何だかいつもより静かだし」
「別に何でもないです……」
「顔上げて喋らないし」
「別になんでもないです」
「目も赤いし」
「別に何でもないですって!」
つい声を荒げてしまう。唯先輩はまったく悪くないのに。勝手に泣いて落ち込んでいるのはわたしなのに。
「ごめんね、あずにゃん」
「謝らないでください」
悪いのはわたしだ。唯先輩が謝る必要なんて微塵もない。
「……ねぇ、あずにゃん。寂しかった?」
「さ、寂しくなんかないですよ。憂も純もいるんですもん。唯先輩と会わなくたって、別に寂しくなんか……」
「そっか、よかった。あずにゃんには憂達がいるもんね。わたしはね、あずにゃん。寂しかったよ」
「え?」
「ずっと会いたいって思ってた。和ちゃんと勉強してる時も、りっちゃん達と夏期講習受けに行っている時もずっと。何だか、あずにゃんはみんなと違うんだよね」
唯先輩がわたしと同じ事思ってる。わたしを特別だって、唯先輩が。
「みんなといると楽しくて、あずにゃんといると嬉しいんだ」
へへっ、とはにかむように笑う唯先輩の顔は、珍しくちょっと紅かった。
「わたしも……寂しかったです」
「え?」
「ずっとずっと寂しかった。メールもいつもより少ないし、電話もあんまりしてくれないし、やっぱりわたしより受験のが大事なんだ、って思ってずっとずっと寂しかった」
堰を切ったように言葉が溢れ出る。もうわたしの意思じゃ止められない、止まらない。
「でも、でも、もっと寂しいのは、先輩が卒業しちゃうことです! 卒業したら今以上に先輩と会えなくなるし、彼氏ができたらきっとわたしの事なんて忘れちゃうし、もうギュッとしてくれな……」
ギュッ。
唯先輩の柔らかい胸がわたしの顔を包み込む。わたしの大好きな感触……。
「会いたくなったら言えば良いよ。会いたい、って」
「そんなワガママを言う権利わたしにはないです。ただの後輩ですから」
わたしは男の人じゃないから唯先輩の恋人には成れなくて、恋人じゃないから会いたいなんて言えない。そういう権利は恋人だけが持つものだから。
「ううん。あずにゃんにはワガママを言う権利があるよ。だって、わたしあずにゃんの事大好きだもん」
「え?」
わたしは顔を上げた。唯先輩が頬を赤らめながら微笑んでいた。
それはわたしが初めて見る唯先輩の表情だった。
「わたしも……大好きです」
わたしはそう言って初めて唯先輩とキスをした。脳裏にわたしと幸せそうに歩く唯先輩の姿と、わたしにしか見せてくれない笑顔で微笑む唯先輩の姿を浮かべながら……
- 良きかな -- (名無しさん) 2015-02-07 12:20:24
最終更新:2010年07月31日 15:08