「——ちゃん。お姉ちゃん」

 平沢家に、いつも通りの朝が来る。
 何の変哲もない日常は、普段と変わらない朝から始まるものだ。

「お姉ちゃん、起きて。学校に遅刻しちゃうよ」

 階段を上がる足音と伴に、私を呼び掛けてくれる。愛しの妹は、毎朝のように私のこと
を起こしに来てくれる。いつもありがとう。今日は、起こされる前にちゃんと起きたから、逆に驚かせてみよう。ふふ、我ながら名案だ。
 こんこんと二回ノックをして、私の部屋へと入ってくる。

「おはよう、お姉ちゃん」
「おはよー、う…………うん?」
「うん? お姉ちゃん、どうかしたの?」
「お、おね……お姉ちゃん!?」

 記憶に間違いがなければ、妹は私とよく似た顔をしているはずなのだけど、そこに居た妹はどう見ても違う。きっちりと制服を着こなし、髪の毛を両側に結っていて、猫耳が超絶似合うその姿は、紛れもなく部活の後輩ことあずにゃんで、間違いない。

「あ……あずにゃん、だよね。なんでここにいるの?」
「なんでって……妹だからに決まってるでしょ。もう、ヒドいこと言うなぁ」
「……あずにゃん。起こしに来てもらって悪いけど。私、もう一度寝るね。まだ夢を見ているみたいだよ」
「そ、そんな! それじゃ遅刻しちゃうよ!?」
「えー。だってぇー、なんか変だもんー」

 もう一度蒲団をかぶり、あずにゃんに背を向けるように寝返りを打つ。あずにゃんは両手を使って私の身体を揺さぶるが、敢えて無視を決め込んでみる。

 ——憂じゃなくてあずにゃんが妹って、どうなっちゃってるんだろう? 一夜にして妹が入れ替わって、極自然に接してくるなんて、やっぱり変だよね。そうだよ、きっと夢だよ。……夢に違いないよね。

「お姉ちゃん、こっち向いて」
「うん?」

 あずにゃんに『お姉ちゃん』と呼ばれることが妙に照れくさくて、少しばかり気恥ずかしさを感じながらも、再度寝返りを打ってあずにゃんと対面してあげる。
 あずにゃんは、ベッドの傍で腰を下ろしていた。横たわる私とベッドの高さが相まって、頭の高さは丁度同じぐらいになっている。こうやって、まじまじと顔を見つめるのは、あんまり無かったかも知れない。
 あずにゃんの表情はとっても真面目で、いつになく真剣な眼差しをしている。何事も、直向きに努力をする頑張り屋さんなあずにゃん、私は大好きだ。
 ふと、あずにゃんは目を瞑った。可愛らしい口元を強調させるかのように唇を窄めいてて、思わず目を奪われる。心なしか、少しずつ、少しずつ顔が近づいているような気がするけれど——って、これってまさか!?

「あ、あ、あずにゃん!!」

 後輩——もとい、妹の突然の行動が何を意味するのか、この時ばかりは瞬時に理解出来た。咄嗟の判断で蒲団を退けて、壁に背を預ける形で距離を取る。私の取り乱し振りに、あずにゃんは呆然としていた。

「ど……、どういったおつもりで……」
「うん。また寝ちゃったら困るし、おはようのチューでもすれば、起きてくれるんじゃないかなって思ったんだけどね。起きてくれたのはいいけど、ちゃんと出来なかったのは、ちょっと残念かな」

 くすりと笑みをこぼし、あずにゃんは立ち上がる。その立ち振る舞いに澱みはなかった。

「ほら、お姉ちゃん。下で待ってるから、朝ご飯、一緒に食べよ?」
「……う、うん」

 立ち去るあずにゃんを見送って、のらりくらりとしながら、登校の支度を始める。

 ——朝から一体なんなんだろう? あずにゃんが起こしに来てくれて、妹だと言い張って。私の不貞寝を止めさせる為に、いたずらを……。

 起こったことをそのまんま言葉にしてみて、それから頭の中で考え直そうと思ったけれど、どうやっても整合しない。もやもやとしたまま、制服に腕を通す。

 ——あずにゃんの唇、柔らかそうだったなあ……。

 指先で、唇を軽く触れてみる。

「……はっ」

 慌てふためいた割には、ちゃっかりと意識をしていた自分が、なんだか恥ずかしくなってきた。今まで、正面からだと、あんな距離まで近づいたことなんてなかったから、なおさらドキドキしちゃったり……。
 何だか、身体が熱くなってきた。眠気なんか、とっくに覚めちゃったよ。

「……なんてすごい効果なんだろう」


「というわけで、改めて紹介するよ! 私の妹のあずにゃんだよ!」
「あー、知ってる知ってる」
「今更何を言い出すんだよ……」
「……あ、あれー?」

 私としては重大なニュースだと思ったのに、どうやら軽音部の中では周知の事実だったみたいで、りっちゃんも澪ちゃんも大分しらけた反応だった。

「先輩達、聞いて下さいよ! お姉ちゃん、朝から変なんですよ」
「あら。変って、どういうことなの?」

 この様子だと、ムギちゃんも違和感を覚えてはいなさそう。……知らなかったの、ホントに私だけなのかな?

「今のもそうなんですけど……、今日になって、急に態度が変わっちゃったんですよ。私のこと、本当の妹じゃないみたいに言うんです」
「おい、唯。それはちょっと酷くないか?」
「えっ……だって……」

 昨日までは可愛い後輩。今日からは愛しい実妹。そんな嘘みたいな変貌を鵜呑みにしろっていうのは、いくらなんでも、ちょっと……。
 しかし、この釈明だと、この場では圧倒的に私は部が悪い。敢えなく口を噤んでいる間も、あずにゃんは言葉を続ける。

「起こしに行ってあげたのに、全然起きようとしてくれなかったんです。おはようのチューもしそこなっちゃったし……」

 チューという単語に、ぴくりとして、みんなの動きが固まった。あくまで婉曲的な表現でありながらも、それがなんの行為を意味するのか。この場にいる人に、理解できない人がいないはずがない。

「ちゅ、ちゅー……」
「ゆ〜い〜? どういうことだ〜?」
「ち、ちがうって! あずにゃんとはまだそこまでしてないよ!?」
「梓ちゃん。その話、もっと詳しく聞かせてくれないかしら?」
「ムギ、お前はおちつこうな」

 あずにゃんのうっかり爆弾発言で場は騒然としたのだが、当の本人はなに喰わぬ顔でにこにこしている……。あずにゃん、この状況を楽しんでる!?

「……お前ら、ホントに仲良いよな」
「それほどでもないですよ、律先輩」
「姉妹愛……。美しいわ……」

 ちょっと引き気味のりっちゃんに、にこにこしながら返すあずにゃん。ムギちゃんはほっぺに手を当てて、ぽわぽわした表情を浮かべている。
 ああ、私、完全にアウェーな気がするよ……。

「そうか、わかったぞ!」

 その時、意識を取り戻した澪ちゃんが言いました。

「澪ちゃん、どうしたの?」
「何かがおかしいと思っていたんだ……。そうだな、うん。間違いないよ」
「なんだよー。澪、もったいぶらないで教えてくれよ」
「いいか? 律、ムギ。さっきから、唯は梓のことを『あずにゃん』と呼んでいるんだ」

 りっちゃんとムギちゃんは、驚愕と言わんばかりの表情をしました。
 けれども私は、取り立てて弁論することもないので、さらりと流してケーキを食べ続けることにします。

「え〜? だって、いつも通りじゃない?」
「唯ー、お前、ホントに忘れちゃったのか? 昨日まであんなに『梓』って呼んでたじゃん」
「…………」

 フォークがぽとりと落ちてしまった。
 うんうんと頷きながら、続けてあずにゃんも言う。

「そう言えば、そうですね。お姉ちゃん、今朝から『あずにゃん』って呼ぶばっかりで、今日はまだ一度も『梓』って呼んでくれてないです」
「それは大変だ。よし、唯。言ってやれ」
「え〜……でも……」

 ここまで渋るのも、一応理由はあって……。私の中で『あずにゃん』が定着しすぎていて、改めて『あずさ』と呼ぶことが、すっごく恥ずかしく感じるのだ。
 仲良しの友達同士なら、少し照れくさいと感じるだけで、全然構わないだろうけれど。少なくとも私の中では、あずにゃんの存在は、単なる友達でもないし、可愛い後輩ってだけでもないし、ましてや姉妹ですらもなくて——大事に想う人になってしまったからこそ、余計に口にしづらくて。
 たったそれだけのことだけれど、それだけを越える勇気が、私にはまだ足りないのだけど……。

「ねえ、お姉ちゃん。一回で良いから、呼んでよ。『梓』って」
「……う゛っ」

 あずにゃんは、上目遣いで私の瞳を覗き込む。普段はめったに見られない、おねだりをする時の表情。
 ——そんな顔をされたら、断れるわけがないよ。今日こそ、言わせてもらおう。

「……、あずさ。」

「うん。なーに?」

 とても甘くて、囁きのような声音で、あずにゃんは——梓は、返事をくれる。
 言えてしまったこと、素直に受け入れてくれたこと。
 嬉しさと恥ずかしさが入り交じり、顔の火照りは最高潮に達した。

「あ……、も……も……もう……だめ……」

 急に全身の力が抜けて、その場に倒れ込んでしまった。
 そこで、私の意識は途切れてしまった。


「——あれ」
 気がつくと、自分の部屋に居た。寝間着姿で、布団に潜り込んだままだ。
 ということは……
「お姉ちゃん、起きて。学校に遅刻しちゃうよ」
 階段を上がる足音と伴に、私を呼び掛けてくれる。愛しの妹は、毎朝のように私のこと
を起こしに来てくれる。
 こんこんと二回ノックをして、私の部屋へと入ってくる。
「おはよう、お姉ちゃん。今日は早起きだね」
「……おはよー、憂」
 部屋を訪ねたのは、間違いなく憂だ。だけど、念のために、確認しておこう。
「ねえ、憂は私の妹だよね?」
「えっ?」
 質問の意図が全く読めないらしく、憂はきょとんとした顔をした。
「お姉ちゃん……どういうこと?」


「先輩、聞きましたよ。朝から憂を困らせたそうじゃないですか」
「いやーお恥ずかしい限りで……」

 いつもの交差点でみんなと別れたあとの、二人切りの帰り道。一緒に帰るのはいつものことだけど、昨夜の夢の所為もあって、この状況に少しだけ緊張している。

「私が先輩の妹かあ……。やっぱり、憂みたいになっちゃうのかな。唯先輩のことはきっと放っておけないでしょうし」
「あずにゃんは、夢の中でもあずにゃんだったよ。ただちょっと……」
「ちょっと、なんですか?」
「……いや、なんでもないや」

 夢の中ではドキドキさせられてばっかりだったなぁ。チューとか求められちゃったし……。そんなこと、本人に対して口が裂けても言えるわけがないけれど。
 追及されると苦しいので、話題を変えるべく、話を振ることにする。

「そ、そういえば。あずにゃんは、お姉さんが欲しいって思ったことある?」

 あずにゃんは少し眉を顰めて、考え込むようにしながら答えた。

「うーん……そうですね。頼りがいのあるお姉さんなら、欲しいですね。おとぼけで、だらしなくて、いつも妹に世話をかけてばかりのお姉さんは、ちょっと考えちゃうかもです」
「あずにゃん……しどい」
「自覚はあるんですね……」

 一切の他意はありませんので——と付け加えてくれたけれど、ピンポイントに言葉を並べられてしまうとは、私の姉としての評価はあまり芳しくないようだ。

「……でも」

 でも、とそこで言い掛けてから、あずにゃんは三歩だけ私の前を進み、立ち止まった。私も合わせて、歩みを止める。それまでは並んでいたので顔は見えたけど、この立ち位置で全く見えなくなった。
 そして、あずにゃんは言う。

「でも——そんなだらしない人がお姉さんでも、それが唯先輩だったら、欲しいです。しっかりしたお姉さんでも、そうじゃなくても、唯先輩は唯先輩ですから。す……嫌い、に、なることなんか、ありませんよ」
「……あずにゃん」

 一歩、二歩と近づき、俯いているあずにゃんの体を抱き寄せてあげる。いつもは体重を預けるように抱きつくけど、今日は、違う。

「にゃっ! 唯先輩、いきなり何するんですかっ」
「……ありがとう、あずにゃん。私、そう言ってもらえて、とっても嬉しいよ」
「……先輩」

 ——私の精一杯の気持ちを伝えておこう。

「今度から私のこと、お姉さんだと思ってくれていいからね。私にできることなら、何でも言ってね」

 ——次は私から、ちゃんと言葉にするから。待っていてね、梓。

「……では」

 まるで前々から用意をしていたかのような口ぶりで、あずにゃんは言った。

「もうしばらく、このままで居させてください」
「うん。いいよ」


【おしまい!】

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最終更新:2010年08月02日 16:45