指先がなんとなく物足りなくて、半分無意識でその理由を探るうちに、私は目を覚ました。
 そこはひとり用のベッドで、だからふたりで眠るのはちょっと窮屈で、
けれど密着できるから好きな人と一緒ならむしろ好都合で、
なのに肝心のその人はいつの間にか行方不明、という状況だった。
 トイレという可能性もあるのだけれど、さっきまでその人のパジャマを握っていたはずの指先に、
私ひとり分の体温しか残ってないのが淋しくて、私はもぞもぞと起き上がった。
その人――唯先輩を捜すために。

 うっすらと差し込む朝日を頼りに、あまり音を立てないように移動し、廊下に通じるドアを開けた。
唯先輩と私のほか、今はこの家に誰もいないとわかっていても、ついつい辺りを気にしてしまう。
 平沢家の両親が不在なのは、今に始まったことではないから置いておくとして、
憂は昨日から、純の家にお泊まりに行っている。最初その話を聞いたとき、
そういう計画は私も誘われることが普通なのでおかしいなと思っていたら、
憂から、「私がいないとお姉ちゃんが心配だから、梓ちゃん、良かったらうちに泊まりに来てくれないかなあ?」と
言われてしまった。つまりそもそもが憂の計画通りなんだ。
彼女なりに、先輩と私がふたりきりになれるよう気を遣ってくれてるらしい。
 もちろん、せっかくのチャンスを有効利用しない手はなく、私は昨日の午後から、
お泊まりセットを抱えて平沢家にやってきた。憂からは程遠いにせよ、
唯先輩のレベルよりは格段に上のはずの手料理を振る舞った後は、
お風呂で背中の洗いっこをしたり、先輩のベッドで眠くなるまでいろんな話をしたり――憂の計画の一部なんだろうけど、
私の分の布団は用意されてなかった――そんなこんなで現在に至る、というわけなのだ。

 廊下に出てみると、下のリビングあたりから、アンプを通さないギターの音が流れてくる。
あっさりと尋ね人の行方が判明したことに拍子抜けしながら、ついつい私は苦笑していた。
部活では練習よりティータイムを優先するくせに、時には休日の早朝から練習しちゃう、
そんな理屈では説明できない唯先輩の行動は、いつも私の予想の斜め上を行く。

「唯先輩」
 驚かせるつもりはないので、ギターの音量に勝てるかどうかの声で呼びかけてみる。
すると、こちらに背中を見せていた先輩は、
「あ、あずにゃん、おはよー」
 肩越しに振り向き、いつもながらのふんわりとした笑顔で応えてくれた。
寝癖の付いた髪はそのままで、もしかしたらまだ顔も洗っていないのかもしれない。
「こんな朝早くからどうしたんですか?」
「んー、なんか目が覚めたらね、新曲の難しいとこが弾けるような気になってて、
そのイメージを忘れないうちにちょっと弾いておこうと思ったんだー」
 ここ最近、私たちが練習している曲の唯先輩のパートは、先輩よりギター歴が長い私から見ても
十分すぎるほど難しくて、パートごとの練習でも、みんなで合わせるときでも、先輩はかなり苦労している。
だったらアレンジを見直して、もう少し簡単にしようという選択肢もないことはないのだけれど、
妥協して作り上げた曲で満足するなんて、発展途上の私たちには似合わないので、
全員が納得するまでがんばろうってことになったのだ。
 正座を崩した女の子座りで、ギターを愛おしむように抱えた先輩は、身振りで私にも座るように促した。
「結構いい感じになってきたみたいだから、あずにゃん、聴いててくれる?」
「私も聴いてみたいです、お願いします」
 私は唯先輩の近くに落ち着き、期待を込めてうなずく。照れたような笑顔から一転、
真剣モードのかっこいい表情に変身した先輩は、間奏の、ずっと苦労してたソロのあたりを弾き始めた。


「……」
 呼吸は無意識のうちに止まり、私は、唯先輩のプレイに引き込まれていた。
昨日までのたどたどしさが嘘のようだ。フィンガーボードの上を、力強く滑らかに指が動く。
もちろん完璧とは呼べないけれど、メロディーもリズムもフィーリングまでも、想像してた以上の出来だ。
「――っと、こんな感じ」
 16小節を弾き終え、唯先輩が顔を上げた。ちょっと得意げな、それでいて弾いてる自分が
1番楽しんでいるような、とびっきりの笑顔だ。
「どう? どうだったあずにゃん?」
「……すごかったです。っていうか、びっくりしました。いつの間にか弾けるようになってたんですね」
「いやあ、私もよくわからないんだけどね」
 さっきまでのかっこいい表情ではなく、いつものとろけそうな顔で、
「きっと、あずにゃんがそばにいてくれたからだよ。あずにゃんの体温に包まれて、
あずにゃんの心臓の音聞きながら眠って、あずにゃん分が私のすみずみまで補給されたからだよー」
 こっちが赤面しそうな台詞を事も無げに言ってのけ、先輩はギターを放さないまま私を抱きしめた。
「ありがとね、あずにゃん」
 唯先輩特有のストレートな愛情表現は、はずかしいけれど癒されるのも事実だ。
「い、いえそんな、私は何も――」
 しかし、いい話で終わりはしないのが唯先輩クオリティ。私が目の前にいるのにも関わらず、
先輩は私との間のギターに視線を転じ、
「ギー太もありがと、大好きだよー」
 ネックに頬ずりして、キスまでし始めた。
「唯先輩、ギー太が大事なのはわかりますが、ちょっとこの体勢では……」
 一応さりげなく注意しても、ギー太とふたりだけの世界に旅立ってしまった唯先輩には、
多分、私の声は届いていない。
「もう、恋人の目の前で浮気だなんて、いい度胸ですね、先輩」
 私がそう言うと、やっと私の方を見てくれた先輩から、
「あずにゃん、やきもち?」
 今まで何度となく繰り返された台詞を、またも言われてしまった。
私をからかって遊んでいることは明白なので、いつもの私なら「違います」と即答するのだけれど、
今日の私は、自分でも説明のつかない反応をした。

「やきもちですよ? 悪いですか?」
「……へ?」
「当然じゃないですか。だって、せっかく遊びに来てるのに、なんで私を放っておいてギー太なんですか?」
 唯先輩は少し困った顔をしている。私だって心の中では、こんなこと言うつもりじゃないって思ってる。
それでもなぜか、自分じゃない自分の口は動くのをやめない。
「私だってギタリストの端くれですから、ギターを大事にする気持ちは先輩に負けてないと思います。
でも、先輩のギー太に対する愛情は、私の想像を超えています。
先輩にとってギー太は唯一無二の存在で、私はいくらでも代わりがいる恋人のひとりなんですよね?」
 先輩を困らせたくなんかない。ギー太と私を比べるなんて、先輩にもギー太にも失礼だってことも理解しているのに、
「私は先輩が好きです。ギー太を弾いているときの先輩が大好きです。けれど、
ギー太しか見てない先輩と一緒にいるのは、ちょっと悲しいです……」
 私の頭は混乱したままで、何を言っているのか自分でもわからなくなってきた。
 先輩は、ギー太をそっとソファーの上に置き、
「ごめんね、あずにゃん」
 悲しげな笑顔で私に向き直った。その顔を見たとき、一瞬の思考停止の後、
どうにか状況を把握した私は、自分が言ってしまったこと、唯先輩にぶつけてしまった暴言を後悔した。
「す……すみません、私、先輩にひどいこと――」
 その後の言葉は続かない。私は、息が詰まるくらい強く抱きしめられていた。
私よりほんの少し大きいだけなのに、不思議に包容力のある唯先輩の身体に。
「ううん、私こそごめんね、あずにゃんの気持ちも考えずに。あずにゃんが怒るのも無理ないよね」
「違うんです、やきもちじゃなくて――いえ、やきもちも少しあるかもですけど、
そんなことが言いたかったんじゃなくて……」
 しどろもどろになりながら、私の視線は泳ぐ。ずっと心の奥に仕舞っていた言葉を言うべきかどうか、
言うなら今しかないのだけれど、言っていいかどうかの判断が付かなくて、先輩の肩に頭を預けた。
 目を閉じると、それ以外の感覚は余計に敏感になり、耳は先輩の息遣いを捉える。
合わさった胸は先輩の鼓動を感じ取る。
 ――私は、この場所を失いたくない。

「先輩、私……怖いんです」
「……何が?」
「先輩がギターを……音楽を始めたときからずっと、先輩とギー太はいつも一緒で……」
 言いたいことが伝わるかどうか不安なまま、私はとにかく話し始めた。
「先輩自身もそう思ってるでしょうけど、私だって、先輩がギー太以外のギターを手にするところなんて
想像できないんです。ギー太を弾く先輩はすごくかっこよくて、先輩とギー太なら、
どんな不可能も可能になるように思えて」
 先輩はギー太を、軽々と自由自在に弾きこなす。ほんとは力持ちじゃないはずなのに。
私のムスタングよりずっと重いレスポールなのに。
レスポールは先輩のために作られたギターなんだと思えるくらい、ギー太を持つ先輩は絵になるのだ。
「でも、いくら大事にしてるギターでも、いつか壊れるときもありますよね? 
交換の利かない部分がダメになってしまったり、もっと大げさに言えば、
何かの事故で修理できないほど壊れちゃったりすることも、絶対ないとは言い切れませんよね?」
「……」
「もしギー太がそうなってしまったら……怖いんです。もしギー太を弾けなくなったら、
先輩は、ギターをやめちゃうんじゃないかって。バンドも音楽もやめちゃうんじゃないかって」
 ギターを通じて出会えた私たちも、終わりになっちゃうんじゃないかって。
 数回の呼吸のあと、先輩は言った。
「……そうかもしれないね」
 それは聞き間違いではなく確かに肯定の言葉で、予想していた答えのうちの最悪パターンだった。
衝撃で脱力する私に気付いているのかどうか、先輩は私を抱きしめたまま、同じ言葉を繰り返す。
「そうかもしれないね。――あずにゃんがそばにいてくれないなら」
 聞き流しそうになって、私は思わず固まった。先輩は今、何て?
 背中に廻されていた先輩の右手が、下ろしたままの私の髪を撫でる。
私は先輩に身を任せたまま、動けずに次の言葉を待った。すると先輩は、
少し身体を離して向かい合う体勢を取ると、私の目を見て言った。
「私も怖いよ。ギー太を弾けなくなる日が来るなんて、想像もしたくない。私が私でなくなっちゃう気がするよ。
でもね、もしあずにゃんが私の1番近くで支えててくれるなら、何とかなると思うんだ」
「先輩……?」
「しばらくは立ち直れないかもしれないし、かっこ悪いところ見せちゃうかもしれないけど、
あずにゃんがいてくれるなら、私、がんばれるよ。絶対、ギターもバンドもやめない。
だから、あずにゃん、私のそばにいてくれるかなあ?」
 先輩の柔らかい声が、私の中にゆっくりと舞い降りてくる。

「いいんですか……? 私でいいんですか?」
 今度は私の方から、唯先輩を抱きしめた。先輩はいつも暖かい。先輩に触れているだけで、
どんな悩みも溶けてしまう気がする。
「あずにゃんでいいんじゃなくて、あずにゃんじゃないとダメなんだよ」
「私はギー太と違って、多少乱暴に扱われても壊れたりしませんよ? 部品の交換もできませんよ? 
だから、もう飽きたとか好きじゃなくなったって言われても、先輩から離れたりなんかしませんよ? 
それでもいいんですか?」
 先輩は苦笑しながら、「あずにゃんも言うようになったねー」と、軽く私の頬を撫でる。
そして、少しだけ真顔に戻って囁いた。
「……ずっとそばにいてくれる? その日が来ても来なくても」
 その日――先輩と私をつないでくれたギー太が、ギターとしての生を終える日――がもしも来てしまったら、
私はギー太に約束しよう。ギー太の分も、私がしっかり先輩を護ると。
 私は、私の返事を待つ唯先輩の唇に、ダイレクトに肯定の意思を伝えた。


 しかし、いい話で終わりはしないのが唯先輩クオリティ。
「あ、もしもギー太を弾けなくなって、私がギー子やギー坊を弾くようになったとしても、
ギー太にはずっとそばにいてもらうつもりだから、あずにゃん、やきもちはダメだよ?」
「そんな心配は必要ないですっ! っていうか、唯先輩のネーミングセンスっておかしいでしょ絶対。
何ですか、ギー子やギー坊って……」
「えーー、おかしい? そうかなあ……。ならあずにゃんも一緒に考えてよー。
いい名前を付けてあげるのは、お父さんお母さんの大事な役目なんだから」
「誰がお父さんお母さんですか、誰がっ」

-おしまい-


  • お父さん=唯先輩 お母さん=梓
だね♪ -- (あずにゃんラブ) 2013-01-17 18:15:06
名前:
感想/コメント:

すべてのコメントを見る

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2010年08月18日 04:23