学期末試験も終わって、夏休みまで秒読みとなったある夏の日のこと。

「梓……ちょっといいかな」

 部室には珍しく、私と澪先輩の二人きりになっていた。他の先輩方は用事があるらしくて、もうしばらく遅れて来るそうだ。

「はい、なんですか?」

 根が真面目な澪先輩は、二人でも練習をしようと言ってくれた。便乗しない訳にはいかないので、私もむったんを取り出して演奏の準備をしていた、その時。

「キス、させて欲しいんだ」
「ああ、そんなことならお安い御用で……って、えぇっ!?」

 聞き間違いでなければ、澪先輩らしからぬ大胆発言なんですけど!
 思わぬ提案に身体が強張ってしまった。発言の真意を測りかねて、反応に困る。私はきっと、目を丸くして先輩を見ていただろう。それに気付いてか、先輩は胸の前で手を振りながら否定した。

「ご、ごめんな。嫌ならいいんだ……いいんだけど、な」
「すみません、突然すぎたので私も理解が及ばなくて……。どうしてまた、キスだなんて」
「歌詞を書くときにイメージし易くするのに……経験しておきたいと思って」
「……なるほど」

 言葉にして発してみたけれど、果たしてそんな理由で納得して良いのだろうか。いっそのこと、歌詞の方向性を変えてしまうのが近道なのでは……。
 色々考えを巡らせてみたものの、見るからにしょんぼりとした澪先輩を見ていられなくて――取り持つ為にも、会話を続けた。

「……そ、それは良い着眼点かもです!で、でも、私なんかだと……そうです!役不足じゃないでしょうか!」

 あれ?役不足ってこういう時に使うんだっけ?なんか違うような気がするけど……まあ、いいや。

「た、たとえば……えと……そうだ、律先輩とか」
「律はやだ!」

 私が提案するや否や、先輩は即答で拒絶し、そっぽを向いてしまった。私としては、真っ先に浮かんだ“相手のイメージ”なんだけど、先輩の中ではどうやら違うみたいだ。

「あ……すみません。出来れば、理由とか聞かせて貰えれば」
「律に頼むのは私も考えたが――これから先、いつまでもいじられる気がする」
「たしかに……じゃあ、ムギ先輩とか」
「勝手な想像だけど、それだけじゃすまない気がする……」
「あはは……」

 律先輩もそうだけど、ムギ先輩の言われようもちょっとばかし酷い気がする。
 ま、まあ、それは置いといて。

「それじゃあ、ゆ――」

 次の言葉が出掛けて――私は、咄嗟に呑み込んだ。

「――ゆ、由々しき事態ですし、私で良ければ、お相手になります」
「そうだよな……口が堅そうなのが他にいないもんな……。ごめん、梓。こんなわがままに付き合わせて」
「いえ、気にしないでください。この経験が放課後ティータイムをより良いものにするのなら、全然構いませんよ」

 澪先輩もようやく安堵した表情となってくれた。私は出来るかぎりやんわりと言う。
 笑顔が引き攣って見えないように、気をつけて。

 *

 ギターとベースを降ろして、私たちは今、部室の真ん中で向かい合っていた。

「そう言えば……先輩、やり方って分かるんですか?」
「その……読んだり、観たりで……」
「ま、まあ、そうですよね!そういうもんですよね!」

 そうだ。未経験だから、今試してみるんじゃないか。私、もしかして動揺してるのかな。

 ――澪先輩のはじめて、か。私もはじめなんだけどなぁ。

「い、いくよ。じゃあ、瞳を閉じて」

 それは私に言ったのだろうけど――言うより先に、澪先輩の方が瞳を閉じていた。私は緊張のあまりに、そう易々と目を瞑ることが出来ない。
 こんなに間近で先輩の顔を見るのは、きっと初めてだ。部活仲間として距離が近いからあまり意識してこなかった。けれども、その凛々しい顔立ちをまじまじと見ていたら、虜にされたファンクラブ会員の人たちの気持ちも、分かる気がしてくる。加えてこの身長差、頼れる憧れの人というイメージがぴったりだ。
 じっくりと、先輩の顔が近づいてくる。――私も覚悟を決めて、瞳を瞑る。この先はもう予想しないで、あとは先輩に身を委ねるだけだ。先輩は、私の肩をしっかりと掴んでいる。小刻みに震えていて、緊張感が伝わってくる。
 私は改めて考え直した。そう、これはバンドのため。部活動のため。放課後ティータイムのため。誰も損はしないだろうし――
 我ながら未練がましい。というかこれ、ノーカウントで構いませんよね?

 バタン。

 突然、大きな音がした。この音は――部室の扉が開いた音だ。
 想定外の闖入者の登場に、瞬時に瞳を開けた。澪先輩は既に、視線を扉の方へと向けていた。次いで私も、確認する。
 扉の傍で、伏し目のまま息を荒げて、肩を震わせ立ち竦んでいたのは――

「……」
「……」
「……」

 唯先輩だった。

「ゆ、唯! 誤解するなよ? これはその……ええっと……訳合って梓に協力して貰ってだな……」

 澪先輩はいつも以上に動揺しながら、必死に弁解を続けた。
 私は、何を言っていいのか分からなくて、ただ黙ることしか出来ない。
 唯先輩は俯いたまま何も語らず、鞄とギー太をいつもの場所に置いて――

「……えっ!?」

 私の手を引いて、駆けだした。

 *

「……ちょっと、唯先輩!停まってください!」

 手を引くなんて優しいもんじゃなく、完全に引っ張られている状態で、私と先輩は廊下を疾っていた。音楽室からどんどん離れていくが、その足の運びに目的地があるのか、私には判らない。

「あっ」
「……唯先輩!」

 それは瞬間の出来事だった。何もない廊下で、突如として唯先輩は派手に転んだ。慣れない運動に足が縺れてしまったのかもしれない。そうでなくても転びそうではあるけど。

あずにゃん……」

 唯先輩は涙声になろうとも立ち上がろうとはせず、上半身だけで振り返る。先輩の目元には、転倒の衝撃から来たのか、うっすらと涙を浮かべていた。
 まだ意地らしいことをする気力があるようなので、大事に至る怪我はしてなさそうだ。それでも身を案じて、私は先輩に近づこうとした。

「……唯先輩、大丈夫ですか?」
「あずにゃん――私のこと、好き?」
「……へ?」

 ――今、何か言いましたか?

「それとも、嫌い?」
「せ、先輩、何を言って……」

 涙ぐんだ瞳に外連味のないトーンで、唯先輩は訴えかけてくる。

「澪ちゃんと比べて、どっちが好き?」

  ――あ、そうか。これってもしかして。

 私の頭の中で、先輩の行動が何を意味するのか分かってしまった。
 そうか、先輩もこんな子供っぽいことしちゃうのか……ぷっ。

「あずにゃん?何で笑ってるの?」
「……先輩、もしかして、やきもちですか?」
「えっ!」

 我に返った唯先輩の顔が、一気に紅潮し始めた。なるほど、図星でしたか。

「そ……そんなんじゃないもん!」
「私のこといつもからかっておいてズルいですね」

 口を尖らせて否定する唯先輩を諭す為にも、私はなるべく淡淡と喋ろうと心がけてから、事のあらましの説明をする。

「澪先輩に頼まれたんですよ。作詞の参考に、そういう経験をしてみたいということだったので」
「……あずにゃん。私、途中から覗き見してたけど、結構乗り気じゃなかった?」
「そんな訳ないですよ。私じゃ似合わないと思ったので、他に依頼すべき相手が居ないか考えましたし。でも、部外者にそんなことさせるのはおかしな話じゃないですか」

 友達やファンクラブを含めたら、まだまだ沢山候補は挙げられた筈だけど、絞りに絞って律先輩とムギ先輩を推すだけに留めたに過ぎない。

「もっとも、二人ともNGを出されてしまったので、仕方なく私がお引き受けした訳です」
「……ねえ。私の名前を忘れてない?」
「忘れてませんよ。ちゃんと覚えてました」
「じゃあ、澪ちゃんの反応はどうだったの?」

 先輩は腑に落ちないらしく、首を傾げて疑問を投げかけてきた。

「候補に、挙げませんでした。だから、消去法で私に」

 ――私には、その名前を挙げることが出来なかった。前に挙げた二人のリアクションからすると、澪先輩がどんな反応をするのか大体予想がついた。でも、もしも。もしも、不服なく承知されてしまったら。可能性がある以上、それだけは何としても避けたかっただけだ。
 全部、私のエゴに依る判断に過ぎないのだけど。

「……唯先輩?」
「あずにゃん……それ、やきもちじゃないの?」
「……なっ!」

 冷静になって考えてみれば――私の行為そのものも、嫉妬からきたものに過ぎなかったのではなかろうか……
 指摘を受けて戸惑う私を窺ってから、得意気な笑みを浮かべて、唯先輩は鋭く追及してくる。

「ねえねえあずにゃん。私と澪ちゃんがしちゃうの、想像したの?」
「してません!」
「私たちがしてるのが嫌だったの?」
「……何とも思いません!」
「うぅ……あずにゃんはやっぱりかわいいなぁ」
「あ゛ー!もう!」

 私がリードしてたと思ったのに、いつの間にやら唯先輩のペースに持ってかれてしまった。悲しいほどにいつも通りを繰り広げてしまっている。先程とは打って変わって、唯先輩もすっかり笑顔を取り戻している。私はこれで、一安心。
 ……かと思いきや。

「あずにゃん、私に許してほしい?」
「ですからあれは頼まれて……不可抗力です」
「でも、きっぱりと断らなかったんだよね?」
「……まあ、仕方ないと思いましたし」
「じゃあ、私ともしてくれる?」
「……何をですか?」
「やだなー。さっきのアレだよ。澪ちゃんとアツアツしてたくせに!」
「アレって、別に……というかそもそも未遂ですし……」
「じゃあ許してあげない!」

 ここぞとばかりに駄々っ子になる唯先輩に、私はどう対処していいのか、少しだけ考えて。

「分かりました。してあげますので……瞳を、閉じてください」
「う、うん」

 あっさりと承諾した事に少し戸惑った唯先輩は、それでもすることに執着しているらしく、さっさと瞳を瞑ってしまった。……なるほど、これは性格で分かれるのかな。

「……」

 ところで、私はどうすればいいんだろう?さっきは受身だったから承諾出来たものの、いざ自分からやるとなると、分かるものではなかった。

「……」

 キスをせがむ先輩の顔はどこかあどけない。こんなこと口にはできないけど――何故だかそれに、そそられてしまう。

 ――ええい! やってやるです!

 目を瞑って、先程の光景を思い返す。澪先輩のやったように、肩を掴んで、少しずつ距離を縮めていけば、それでいけるはず。
 少しずつ近づいて……近づいて……

「……ひっくし!」

「……」
「……えへ」
「……なんで、くしゃみなんかしちゃうんですか……ぷっ」
「だってぇ~~!!」

 私も覚悟を決めたつもりだったのに……唯先輩ときたら。それもまた、先輩らしくて好きなんですけどね。

「……なんかもう、そういうムードじゃないですね。冷めちゃいましたよ」
「えーっ!そんなぁー!」
「でも、今のは明らかに唯先輩が悪いじゃないですか」
「う……まあ、そうだけどさ……」
「だから、もうおあいこです」

 私は立ち上がって、唯先輩に手を差し伸べる。

「さ、立ってください。そろそろ部室に戻って、練習しましょう?」
「……うん、そうだね」

 ――唯先輩が取り乱したことも、元はと言えば私が源因なんだ。安易に引き受けてしまった為に、ここまで私を引っ張ってきた。多少乱暴だったけど、好意の裏返しだと捉えれば……満更でもない、かな。
 今度は、私が手を引いてあげる番になりましょう。その笑顔を曇らせないように、なるべく、優しく。


「ところであずにゃん。部室に戻ったら何の練習しよっか?」
「え?ギターじゃないんですか?」
「甘いよあずにゃん。この流れでいけば、みんなして部室でちゅーの練習に……」
「……あり得ませんって」

【おしまい!】


  • 頑張って!!あずにゃん -- (あずにゃんラブ) 2012-12-28 23:36:25
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最終更新:2010年10月20日 21:09