雪ちゃんのプレゼント 前編
名無しさん
地平線が見えそうなほど広い草原に立った奏は、これが夢であることを自覚した。
実家がある 北海道ならこの景色もわからなくは無いが、夏休みでも冬休みでもなく学校はある。しかも、どのみち絵の勉強で休みの間も帰省しないつもりだ。まだ東京での寮住まいの身だった。
夢ながらも雄大な景色を眺める奏は、遠くに佇む人影を見つけた。長い髪を風に泳がせるそのシルエットは、彼女が大好きな人に違いなかった。
広い大地を息を弾ませて駆け寄ると、思ったとおり、雪乃が微笑んでいた。
「奏ちゃん、いい景色だね」
「そうだね」
そよ風に吹かれて微笑み合う。それだけで、心が温かくなる幸せを感じられた。
「この景色は奏ちゃんの夢。だから、奏ちゃんから私へのプレゼント。私もお返しにいい物をプレゼントするね」
「いい物って?」
「それは起きてからのお楽しみ」
少し不思議な夢から覚めた奏は、寝起きの半目で同じベッドの雪乃を探した。今の夢を忘れないうちに話したい。
でも、まだ眠っているようだ。すやすやと寝息を立てて、キツネ耳をぴくぴく震わせていた――。
(――キツネ耳ッ!?)
ぎょっとした奏は、もう一度雪乃をしっかり見た。耳は見間違いではなく、ふさふさの毛で覆われた獣耳だった。
よく見ると顔つきも手も小さく幼い。以前に夢で見た子ギツネ雪ちゃんだった。
(……なんだ。まだ夢の中か)
夢だと理解することで落ち着かせた奏は、子ギツネ雪ちゃんへのコンタクトを試みた。あれ以来、夢にキツネの雪乃が現れることは無かった。この機会を逃す術は無い。
そっと身を寄せ、指先を頬に伸ばす。ほんのり赤いほっぺは、マシュマロみたいにやわらかかった。つつくたびにキツネ耳を震わせる。
(かわいすぎっしょ!)
小動物と幼子の合体技という反則的なかわいさに、奏はすっかりやられてしまった。興奮を自制できず、奏はベッドの中で身を乗り出した。
子ギツネ雪ちゃんは、ぶかぶかのパジャマで寝そべり、少しも起きる気配を見せない。
(雪ちゃん、いただきます)
心の中で感涙しながら、小さな体を抱きしめた。雪ちゃんの体は、想像以上にあたたかくて小さかった。強くすると壊れてしまいそうだ。
「ん、ん……苦し」
声を聞いた奏は、慌てて力を緩めた。興奮して力を入れすぎたようだ。
奏は少し体を離して顔をのぞく。
「ご、ごめん」
「もう少しやさしくしないと嫌われるよ」
「すみません……」
叱られた奏は、ただただ小さくなった。
(夢の中で謝って、何してんだろ……)と自分に呆れていると、不意にドアがノックされた。
「櫻井姉妹、朝の点呼」
同じ寮生の声だ。時計を見ると七時半近くだった。
(マズ、見られる!)
反射的に雪ちゃんを布団に押し込んで、開いたドアににこりと苦し紛れの笑顔を向けた。
「また見せ付けて……。いい加減に起きないと飯抜きにされるよ」
「はは、すぐ行くから」
ドアが閉まると、雪ちゃんがぴょこんと顔を出した。
「おなか空いたぁ」
危機が去ったと安心した瞬間、奏は違和感を覚えた。夢にしてはリアリティがありすぎる。声、時計、空気、部屋の景色。どれもが鮮明だ。
ただ、目の前の雪ちゃんの存在だけがリアルからかけ離れていた。
それでも、その雪ちゃんの獣姿も細部まできっちり描写されていた。獣毛の微妙なグラデーションもある。息づかいまでわかるほどだ。
「もしかして……夢じゃない?」
その可能性に気づいた時、軽く血の気が引くのを感じた。この状態でどうやって食堂に行けばいいのだろう。混乱した奏がまず考えたのはそんなことだった。
「んん?」と雪ちゃんが首を傾げる。奏のピンチに気づいてないのだ。
「ごはんがもらえなくなっちゃうよ?」
「そんな姿で言われても」
「だめなの?」
「そりゃダメっしょ……」
能天気な雪ちゃんに脱力した奏だった。
とりあえずベッドから出た奏は、万が一のことを考えて制服に着替えた。ありえないと本人は思っているが、これが夢ではなく現実かもしれないからだ。寮のみんなに迷惑をかけるのは先のことを考えるとまずい。
ベッドから這い出た雪ちゃんは、体に合わない大きなパジャマの袖をぶらぶらしながら、しっぽもぴょこぴょこ振っていた。ふさふさなしっぽは見ていると頬ずりしたくなるほど気持ちよさそうだった。パジャマのズボンは脱げてしまっている。
奏は抱きつきたい衝動を抑えつつ、雪ちゃんに着せる服を考えた。
が、小さな子供に着せるような服があるはずもなく、適当なTシャツを着せてあげた。袖が余らないだけましだろう。
「いい? 絶対に部屋から出ないでよ」
「私のごはんは?」
「食堂で頼んで持ってきてあげるから」
「ほんと?」
「ほんとだから」
動物らしく食欲は強いらしい。奏は雪ちゃんを納得させると、大急ぎで食堂に向かった。
奏が持ち帰った朝食を、雪ちゃんはそれはおいしそうに食べていた。箸を口に運ぶたびに、しっぽを振る。見ている奏は自然と笑みを浮かべた。
結局、奏は雪乃が風邪を引いたことにした。みんなにうつすといけないからと、食事だけをゲットすることに成功したのだ。
ついでに学校も休むと言っておいた。こんな姿で学校に行けるはずがなかった。
そして、次の一言で奏も休むことになる。
「雪ちゃん、おいしい?」
「ゆきちゃん? それが私のおなまえなの?」
奏の胸に不安がよぎる。
「え、えっと……いちおう聞くけど、雪ちゃんだよね?」
「わかんない」
「いやいや、わかんないって……」
頭の中が真っ白になりかけた。耳としっぽを除けば、どう見ても雪乃の小さい頃の姿なのに、本人はわからないと言う。
あっけらかんと言い放った雪ちゃんは、ばくばくと箸を進めていた。
雪乃の看病をするという理由で奏は学校を休んだ。後で周りからいろいろ言われそうだが、休むしかない。
自分の名前も知らない雪ちゃんを置いて外出なんて、それこそ気が気じゃない。
「奏ちゃん、何かして遊ぼうよ」
退屈に耐えかねた雪ちゃんが、奏の腕を引っ張る。奏の名前を覚えたようだ。
学校を休んでいる手前、奏はそんな気になれない。というか、騒いでいるのが見つかったら怒られる。奏は机に教科書を広げていた。
「ねえねえ、奏ちゃん」
「ムリ言わないでよ」
「んもー」
ほっぺを膨らませて怒ったと思ったら、しゅんと肩を落として元気をなくしてしまった。
奏は一つ大きく息を吐くと、教科書を閉じた。雪乃が悲しむ姿は、どんな理由であれ見たくなかった。
スケッチブックとパステルを手に持ち、雪ちゃんに見せた。
「それじゃ、お絵かきしよっか」
「うん! お絵かきする」
雪ちゃんに笑顔の花がぱっと咲いた。
奏はこれも絵の勉強だと自分に言い聞かせ、画用紙を雪ちゃんの前に置いた。
「好きなように描いていいよ」
「奏ちゃんは何を描くの」
「そうだね――」
思案中の奏の目に留まったのは雪ちゃんだった。
夢で見たキツネ雪ちゃんが今目の前にいる。夢の記憶をたどってまでスケッチした被写体がこの場にあるのだ。こんな絶好の機会はそうない。
「雪ちゃんを描かせてもらおっかな」
「じゃあ、私は奏ちゃんを書く!」
一時間ほど見合いが続いて、絵は完成を迎えた。
「できた!」
「どれどれ、見せてごらん」
すっかり先生気分の奏が、元気よく完成を宣言した生徒の絵を覗き込む。
その絵は、スカートで性別が判断できる程度の絵だった。定番の花と太陽も描かれている。子供の絵だから、そんなものだ。
「うんうん、よく描けてる。元気があってよろしい。花マルをあげよう」
「わーいっ。奏ちゃんのも見せて」
「ちょっと恥ずかしいな」
奏のスケッチは、雪ちゃんを驚かすには充分だった。二つの人物画を比べるなら、写真とへのへのもへじ。雪ちゃんにはそう思えた。
「すごーい! 奏ちゃん絵描きさんなの? どうやったらこんなに上手く描けるの?」
「いや、そんなに大したこと無いって。ていうか、絵描き目指してる途中だし……」
「奏ちゃんなら絵描きさんにぜったいなれるよっ。こんなにすごいの描けるんだから」
「そうだと嬉しいんだけど。あはは」
子供の言う事だとわかっていても、こう言われたら悪い気はしない。奏は照れ笑いを隠せなかった。
「雪ちゃんのもいい絵だよ。もったいないから、私のと一緒に部屋に飾ろっか」
「うんっ。飾る飾るぅ!」
何をするにも大喜びする雪ちゃんがかわいくて、奏は終始笑顔だった。
雪ちゃんという新しい刺激が加わった一日は、瞬く間に終わろうとしていた。
嫌がる雪ちゃんをどうにかお風呂に入れ、へとへとになった奏は、それでも何とも言えない充足感に満ちていた。
ドライヤーで雪ちゃんのふわふわキツネしっぽを乾かしながら、奏は頬を緩ませる。
「かわいいしっぽだね」
「掴んだらやだよ」
「じゃあ、雪ちゃんを抱っこさせて」
「苦しいからやー」
「ケチ」
拗ねたふりをしてすぐに笑う奏。
夢のように幸せな時間が、そこに流れていた。
最終更新:2010年11月11日 18:12