ゆっくりいじめ系1478 壁の上のまりさ

憂鬱な朝の通学、いつも通る架道橋の下の柱で僕はソレに出逢った。

「ゆっくりしていってね!」

僕はそのまま無視して、というか気付きさえせずに通り過ぎかけて
あれ、と思って声のした自分の右側の柱を見た。
そこにはとぼけた顔をした、黒い帽子を被った金髪の人の顔が描かれていた。
「…?」
気のせいだったかなと首をかしげて、僕はそのまま学校に向かおうとした。
「ゆっくりしていってね!」
また同じ声が聞こえてきて僕は辺りを見回した。
部活の朝練で大分早めに家を出たためか、周りには誰も居なかった。
おかしいなと僕はますます首を傾げた。
そして柱に描かれているとぼけた顔の落書きを見た。

グラフィティとでも言うのだろうか。
まあそんなおしゃれで芸術的な感じは全くしないが。
どちらかというと子どもの落書きというのが一番近い。
オールカラーでしっかり彩色してあるところは子どもとは思えないほどの技術だが
センスという点においてはまさに子どものソレだった。

「ゆっくりしていってね!」

「…!?」
僕は落書きの口元が動いたのを見て目を疑った。
「え、え?」
何度も袖で目を擦ってから、僕は嘗め回すようにその落書きを見た。
幻覚でも見たのだろうか。
寝不足かな。
ははは、と乾いた笑いをあげながら僕は顔を引き攣らせた。

「ゆっくりしていってね!!」

「うわあああああ!?」
今度こそ僕はその落書きの口が動いたのを見て
そしてそこから声が発せられたのを聞いた。
「おにいさんどうしたの?ゆっくりしていってね!」
「ななななななんなぁ!?なんだおまえ!?」
僕はその場に尻餅をついて腰を抜かした。
「まりさはゆっくりまりさだよ!ゆっくりしていってね!」
そのとぼけた落書きは自分のことをゆっくりまりさとなのると
またゆっくりしていってねと言った。
「こ、これは夢だこれは夢だこれは夢だああああ!!!」
混乱極まる状態で僕は腰を抜かしたまま四つんばいでその場から逃げ去った。
「ゆゆ!?おにいさんもっとゆっくりしていってね!」


その日の下校時。
部活を終えてからなので大分遅くなった。
辺りはすっかり夜帳が降りつつあった。
「あれは夢、あれは夢、あれは夢…!」
僕は緊張しつつ、例の架道橋の下の柱の前に差し掛かりつつあった。
迂回してもよかったが、今朝の出来事
落書きが僕に喋りかけたのが本当かどうかを確認していかないと今日はとても寝付けそうに無かった。
恐る恐る、柱の前の落書きに立つ。
確かにあの落書きはあった。
だが今のところ何か話しかけてくる様子も無い。
僕は周りに人は居ないのを確認してゆっくりと深呼吸をすると
これはあくまで独り言なんだと往生際悪く自分に言い訳しつつ
ビクビクしながら声を出した。

「や、やあ」
「ゆゆ?おにいさんゆっくりしていってね!」

やはり、その落書きは喋っていた。
僕はごくりと唾を呑んだ。
驚きで息がうまく出来ず
なんとか浮かべた愛想笑いも多分めちゃくちゃに引き攣ってるのを自覚しながら尋ねた。
「お、おまえなんなんなんだよ?」
緊張の余りなんが一個余計に付いてしまったが一応通じたようだった。
そいつは元気に返事をしてきたのだから。
「まりさはゆっくりまりさだよ!」
「だ、だからそのゆっくりまりさってのは一体どういう存在なんだよ
なんで落書きが普通に喋ってるんだよ」
多少落ち着いてきた僕は少し強気に問いかけてみた。
「まりさはゆっくりしてるよ!」
全く意味が分からなかった。

だが、一つわかったことがある。
こいつワケワカラン。
それはもう確かと言っていい気がした。
「ぜんっぜんわかんないから」
なので率直な感想を僕はまりさと名乗る落書きに述べた。
「だからゆっくりしてるよ!おにいさんもゆっくりしていってね!」
僕はもうそういうものなんだと諦めて詮索するのをやめた。
そしてそれと入れ替わるようになんだか腹の底から笑いがこみ上げてきた。
まりさのことをよく見れば見るほど笑える顔してると僕は思った。
「くっくっく、意味わかんねー
ほんと変な奴だなーお前」
口元を押さえて笑いを堪えながらそう言ってやった。
「ゆゆ!まりさへんじゃないよ!
ゆっくりしてるだけだよ!」
「はいはいゆっくりゆっくり
まーワケわかんないけどもうどうでもいいや
帰るわ」
そう言って僕は手をぷらぷらと振りながらその場を後にした。
「おうちでゆっくりしていってね!」
堪えきれなくなって噴出しながら僕は帰路についた。


「オッス」
「おにいさん!ゆっくりしていってね!」
「いやいや遅刻するから」
それから一月ほど経った。
僕はまりさと通学の際に二言三言会話するのが日課になっていた。
まりさはいつもゆっくりがどうのこうのとしか言わないが
まあそれでもなんとなく会話になっていた、と思う。

不思議なことに、この落書きと会話できるのは僕だけのようだった。
未だまりさと僕以外で話をしている人は見たこと無いし
まりさに聞いても僕以外とは話したことが無いと言っていた。
かといって僕以外誰にも話せないのかと言われると別にそうだという確証も無い。

結局のところまりさの正体については、まあ全く進展無し。
何一つわからなかったが、別にだからどうというわけでもない。

別に何かまりさと出会うことで大きな変化があったわけではないが
僕は憂鬱だった通学を、それほど嫌に感じなくなっていた。


そんな風にどうということもなく
月日はゆっくりと過ぎていった。
僕がまりさと知り合って特に変化も無く一月半が過ぎた。
そしてその日、初めて具体的な変化がまりさに訪れた。
そう、かなりわかりやすい具体的な変化が。

「あ、やべ!にげろ!」
架道橋の下の柱の前でワイワイやってた三人の子どもが
蜘蛛の子を散らすように走り去っていった。
ソレが僕に姿を見られたからだというのに気付くのに僕は少し時間を要した。
「なんかしてたんか…ぶっ!?」
僕はまりさの姿を見て思わず呑んでいたジュースを噴出した。
「とってもだんでぃ~♪」
まりさの顔に、立派なカイゼル髭が書き足されていた。
まりさは嬉しそうにその髭をピコピコと動かしている。
頬が興奮気味に赤らんで目に何やら涙まで溜めている。
多分嬉し涙だろう。
まりさはなんかもう幸せの絶頂としか言いようのなさそうな顔をしていた。
「うっわ…」
ジュースで汚れた口元をティッシュで吹きながら俺は呻いた。
「っていうか書き足されたもん動かせるんだなお前」
「ゆっゆっゆまりさはとってもゆっくりしたじぇんとゆめんになったよ」
「いや髭だけで紳士自称されても」
僕は呆れ顔で腕組みして溜息をついた。



「やっべにげろにげろ!」
柱の前から蜘蛛の子を散らすように子ども達が走り去っていく。
「またか」
そう思いながら僕はそっとまりさの描かれている柱を見た。
「はっえ!めっちゃはっえ!」
そう来たかガキ共、と僕は唸った。
足の生えたまりさがその場ですごい勢いで足を交互に前後させていた。
足は棒人間のような適当なものではなく結構リアルな感じの造形で
膝の辺りやくるぶしとかかかとなんかよく描けていてやるなガキ共と僕は感心した。

しかしまりさがいくら足を動かしてもその場から全く進んでいるように見えないのだが
はっえ!とか言ってるからにはまりさ的にはかなりすごいスピードで
走っているのだろうかと思うと僕は不思議に感じた。
ちなみに走るたびにカイゼル髭もピコピコと揺れている。
「おーなんか知らんが喜んでるみたいで良かったがゆっくりしなくていいのか」
なんとなく気になって僕は尋ねた。
「ゆっくりはしってるよ!!!!」
汗をかきすごいスピードで足を動かしながらまりさは言った。
「そっか、なら別にいいけど」
ひょっとして僕らの考えるゆっくりという単語と
まりさの言うゆっくりという単語は全く違うものではないかとの疑問を覚えつつ
僕はまた明日と言いながらまりさに別れを告げた。




――――――――――――――――――――――――――――――
「うわなんだこりゃ」
その落書きを見て眉を潜めながら彼は呻いた。
「マジダッセー」
「俺等のシマにこんなん描かれちゃ沽券に関わるぜ」
「そうだな…んじゃまあいっちょやりますか」
彼は仲間達の意見に頷きながら腰のポーチからスプレー缶を取り出した。
「お!待ってました!」
「サイコーにキマったグラフィティを頼むぜ!」
彼がそのスプレー缶を手に取ると仲間達は次々に歓声を上げた。
「任せな、サイコーにCOOLなアートを見せてやるぜ」
そう言って彼はそのとぼけた子どもの落書きに上からスプレーを吹きつけた。
――――――――――――――――――――――――――――――



「な…!?」
柱に描かれたソレを見て、僕は絶句した。
おどろおどろしい黒い髑髏の何も無い筈の眼窩の奥が怪しく輝きまるで見るものを見つめるような絵。
今にもカタカタと顎を鳴らして笑い出しそうなほどの存在感。
下にスタイリッシュな赤い文字でHUNGRY MONSTER等と描かれている。
相当に高度な技術で描かれているのは素人目にも分かるほど素晴らしい絵だった。
別に落書きなんていたるところにあるしそれを咎めるつもりも無い。
だが僕は憎々しげに呻いた。
「なんでわざわざ…ここに描いたんだよ!」
僕は拳を握りその髑髏を叩いた。


僕は学校をサボって落書きの消し方を役所やら何やら色々なところに聞いて回った。
そこから得た結論としては、「上から塗料で塗りつぶせ」だった。
「…畜生!」
僕は壁を叩き一人ごちた。
別にどうということの無い、どうでもいい存在のはずだった。
なのに胸の奥からこみ上げるような、この不快感は何なんだ。
「畜生…畜生…」
わけも分からない感情に身を任せて僕はその場にうずくまって泣いた。


一頻り泣き腫らして、僕はあの柱の前にまでやってきていた。
あのとぼけた顔の落書きはもう無い。
今あるのはおどろおどろしい髑髏の落書き
それをそっと撫でながら僕は呟いた。
「まりさ…」
『ゆ!おにいさんゆっくりしていってね!!』
「うぎゃあ!?」
僕は恐ろしい形相の髑髏が顎をカタカタ言わせながら野太い声でそう言ったのを聞いて尻餅をついた。
「んななななななな!?」
地べたにへたり込んだままソレを指差しな僕は喚いた。
「なんで普通に喋ってんだよ!?」
『ゆ!まりさだっておしゃべりしたいよ!』
体中の力が抜けていくのを実感しながら項垂れて僕は呻いた。
「原型留めてなかろうが大丈夫とかほんとなんでもありかよ…」
余りのあほらしい顛末にぐったりしながらまりさにまた明日といって僕は家に帰った。

――――――――――――――――――――――――――――――
彼は自分の自信作のグラフィティを見に架道橋の下の柱の前に立った。
そして我ながら見事な出来だと思わずほくそえんだ。
まるで今にも動き出しそうなそのリアリティと迫力に自作ながら震えてしまう。
「サイコーにCOOLだぜ」
憚ることなく彼は自らのグラフィティを賞賛した。
『てれるよ!』
「あ?」
彼はどこからともなく聞こえてきた重苦しい声に
辺りを見回して声の主を探した。
「気のせいか…」
はてなと首をかしげて彼は呻いた。
『ねえおにいさん』
「ってやっぱ誰かいんのか?」
また彼は辺りを見回した。
しかしやはり辺りには誰も居ない。
『まりさね』
また聞こえてきた重苦しい声に彼は舌打ちした。
「いい加減にしやがれ!
隠れてないで出て来いよ!」
苛立ちながら自信作の描かれた柱を思い切り叩いた。
『おなかすいたの』
ぐちゃり、と何かが潰れるような音がした。
彼はそっと音のした方、柱の方を振り向いた。
壁を叩いたはずの手が見つからなかった。

【HUNGRY MONSTER】

腹ペコの化物

その彼の描いた文字が視界に入ったかと思うと、彼は何も分からなくなった。
――――――――――――――――――――――――――――――
通学途中に通りかかったまりさの居る架道橋の下は、黄色いテープで仕切られていた。
「…?何かあったんですか?」
僕は艶やかな黒髪をショートカットにしたタイトスカートを履いたスーツの女性に尋ねた。
「んー、ちょっと学生さんには刺激の強すぎるのよねー
多分学校からホームルームかなんかで説明あると思うから
今は悪いけどここ迂回して学校行ってくれる?
帰りも別のルートで帰ってね
あ、学校さぼっちゃ駄目よ」
「はあ…」
その女性は直接の明言は避けたが、何か血なまぐさい事件が起こったのはわかった。
多分彼女も警察の人なのだろう。

僕は、まりさに会えないのを残念に思いながら渋々と別の道を通って学校へと向かった。

それから一週間ほどずっとそこは閉鎖されっぱなしだった。
僕はもどかしく思いながら、あの場所を閉鎖している事件について調べていた。
好奇心か、それともまりさに会えなくて寂しかったのか。
どちらかは良く分からない。
そこで起こった事件については、学校が伝えるより多くの情報が生徒の間で噂話として飛び交っていた。

「やっぱさあ…あそこで起きた事件って殺人?通り魔とか?」
「人が死んだのは間違いないってー」
「こわーい」
「なんか死体やばかったらしいぜ?」
「どんなん?」
「なんか上の方が無いとか…」
「どういう意味?」
「あ、ネットに画像上がってるって」
「マジで?」
「誰か携帯携帯」
「あ、これじゃね?」
「え、どれどれ?」
「キャー!」
「うるせえ」
「うわグロ」
「コラじゃね?」
「人間じゃないだろこれ」
「爆弾とか?」
「それだったら跡残るんじゃない?」
「どっかで殺してからそこに捨てたとか」

そんな風にクラスのみんながその話題でわいわい盛り上がる度にその隅っこに座って何度もぼーっと話を聞いていれば
なんとなく事件の概要くらいは知ることが出来た。

被害者は腰から上が無くて、傷口はまるで食い千切られたようにグチャグチャだっただの
被害者はグラフィティ、所謂壁の落書きの高度な奴みたいなのをやってて
殺害現場は被害者の描いたグラフィティの目の前だっただの
大体そんな感じの噂を僕は聞いた。

【HUNGRY MONSTER】
そう記された、今はまりさになっている髑髏のことが脳裏に浮かぶ。
僕は馬鹿な、そんなはずは無いと自分に言い聞かせる。
あれはただの落書きだしそんなこと出来る奴でもないしそんなことするような酷い奴なんかじゃない。
疑うなんて馬鹿げている。

――――喋ったりする落書きが普通?馬鹿じゃないの―――

それから一週間程、僕は他の何にも身が入らなかった。


日時が経って現場検証も終わったのか
あの場所はまりさを囲うように黄色いテープで小さく囲われてるだけで
誰でも通れるようになっていた。

「…よ」
『ゆゆ?おにいさんゆっくりしていってね!』
カタカタと顎を鳴らしながら鉛の様に重苦しい声が架道橋の下に鳴り渡った。
「ああ、うん」
僕は帰りに、久々にまりさの所に寄っていった。
我ながらぎこちないことこの上ないと思う。
目が泳ぐし胸もバクバクと鳴っている。
「なあ、まりさ
ここでなんかあったらしいけど、知らないか?」
『ゆ?それってゆっくりしてること?』
髑髏のまりさは、マイペースにそんなことを僕に尋ね返した。
「さあ、あんまり…ゆっくりしたことじゃないかな」
言い淀みながら僕は、なんとかそうとだけ言った。
『ゆっくりしてないことなんてしらないよ!ゆっくりしていってね!』
「そっか、そっか…」
それ以上問い詰めるのが怖くて僕はそのまま家に帰っていった。

その次の日は学校は休みで、僕はもんもんとしながら部屋に篭っていた。
その次の朝、またあの場所で人が死んだことを知った。

またあの場所は警察の手で閉鎖された。

死体は以前の事件と同じような状態で発見されたらしい。
被害者は浮浪者だったそうだ。


まりさの目の前で起こった二つの殺人。
僕はそれを聞いて背筋が凍った。
もう、僕はまりさの恐行を疑わないことが出来なかった。
だが信じたかった。
まりさのことを大事な存在かと聞かれれば、別にと答えると思う。
でも、まりさはもう僕の日常の一部だった。
そのまりさがそんな恐ろしいことをしたなんて信じたくない。
僕はまりさのことを信じたいのに信じきることが出来ない。
真実を知りたい、それで何もかもすっきりさせたい。
僕の心はその想いに焦がれて焼きついた鉄板のようだった。
腹の中に拭い去れない悪寒と吐き気がずっといつ居ているような嫌な感覚。
まりさに会って話を聞こう。
そう僕は決心した。


だが、今度はそこに入れるようになるのに二月もかかった。
待ちくたびれた僕は一刻も早くまりさの話を聞きたかったが
流石に当分は警察が見張っていると思って、二週間の間はなんとか耐え続けた。
だがそれ以上待つことは僕には出来そうに無かった。


日曜日、辺りもすっかり暗くなって街灯の明かりだけが頼りのような時間帯に
僕は着ているジャケットのポケットというポケットをパンパンに膨らましながらあの場所へと向かった。
「まりさ…居るか?まりさ」
あの架道橋の下に足を踏み入れて僕は恐る恐る声をかけた。
『ゆゆ!おにいさんゆっくりしていってね!』
前に聞いた鉛のような声がさらに錆びたような声でまりさは答えた。
その声を聞いてごくり、と唾を呑む。
血が体中を駆け巡り、熱が篭っていくのに僕の背筋はゾクゾクと冷めきっていた。
「まりさ…」
僕はじっと、変わり果てた姿になったまりさに話しかけた。
「腹…減ってるのか?」
僕は左の人差し指でそっと【HUNGRY MONSTER】という文字に触れながら尋ねた。
『うん!』
次の瞬間、髑髏の口が動いた。
そして気が付くと僕の左人差し指は消えてなくなってしまっていた。
『むーしゃ、むーしゃ、しあわせー♪』
燃えるような痛かった。
けれどそれ以上に燃え盛っていた僕の真実を知りたいという想いが氷解して
逆に全身の熱は下がったように感じた。
手を押さえて三歩あとずさる。
歯軋りをし、痛いほど右手で人差し指の無くなった左手を握りしめながら、認める。

ここで殺された二人を殺したのはまりさだ。
【HUNGRY MONSTER】
僕にだって読める簡単な英語。
腹ペコの化物。
食べたのだ、こいつは、人を。

僕の頬をぬるい水滴が伝った。

『おにいさん!もっとたべさぜでべ!?』
僕はジャケットのポケットから、スプレー缶を取り出しまりさに吹きかけた。

『まりざのおべべがああああああ!!』
カタカタと顎を鳴らしながら瞳を塗りつぶされた髑髏が喋る。

スプレーで落書きされてこんな化物になったのなら
きっとスプレーで壁に何かを描けば何らかの影響は有るはず。
何か無力な物に描き換えてしまえればそれが一番良かったが生憎とそんな技術は無いので
目潰し代わりに使うのが精一杯だ。

それでも、人を喰らう化物相手に
僕が少しでも勝てる可能性の有る手段と言ったらこれくらいしか思いつかなかった。
警察に言ってもどうせ信じてもらえない。
だから僕がこの手で、このまりさとケリを付ける。
『ゆ゛ぐがぁ!!』

まりさの顔が壁から飛び出したように見えた
気付くとスプレー缶は食い破られて、中からインクがボタボタと零れ落ちる。
幸い、手は食い千切られては居なかった。
多分スプレーのかかってくる方向にがむしゃらに突っ込んだのだろう。
目が見えないのは確かなようだった。
なら大丈夫だと僕は自分に言い聞かせ、懐から大振りな金槌を取り出して
まりさの下顎の付け根に渾身の力で振り下ろした。
左の人差し指が無いからうまく力が入らなかったが
それでも振り下ろした部分のコンクリートが砕けて僕の血と一緒に地面に落ちた。
『ゆぎゃぁああああああああ!!』
顎の片側が外れてブランブランと揺れているのに何故喋れるのだろうか。
相変わらず、不思議な奴だな。
こんな状況なのにそんなことを思って少しだけ笑みがこぼれた。
出来るならばずっと笑っていたかった。
まりさと、毎日二言三言話して、少しだけ笑って
そんな生活がずっと続けばいいのにと願っていた。
一瞬の逡巡の後、僕はまりさの歯に金槌を振り下ろした。
『ゆ゛ぐぉ!?』
人の肉を裂き骨を砕く歯なのに、不思議なことにソレは簡単に砕けた。
強度はコンクリートとなんら変わらないらしい。
「………!」
歯を食いしばるのは痛みのためか、それともまりさを打つためか。
苦みばしった表情で僕は何度も何度も金槌をまりさに向かって叩き付けた。
砕けて落ちたコンクリートの破片に左手からこぼれていく血がボタボタとかかって赤く染めた。
僕にはそれがまりさの流す血のように見えた。
「――っ!――っ!」
『い゛だい゛…い゛だい゛よ゛おにいざん…い゛だい゛』

「ぅぅうううううううう…!!!」
止まらなくなった涙が口元へと流れ込んでしょっぱい味がした。
もうなんと言っていいのかわからずに僕は腹の底から叫んだ。
「こんなお別れ無いよまりさぁ!!!」

どのくらいの時間が経っただろう。
僕にとって辛く、無限のごとく感じたその時間は実際にはそんなに長いものではなかったのだろうか。
まりさの顔は殆ど砕け散り、僕はこれで最後だと思って金槌を振り下ろした。

パキン、と変な音がして一面崩れ去っていく。
僕は目を見開いた。
崩れた壁の奥には、最初に出逢ったころと同じ姿のまりさが驚いたような顔をしていた。
『もどれた!もどれたよ!』
髭を描いてもらった時みたいに嬉し涙を流してまりさはその場でぴょんぴょんとかわいらしく跳ねていた。
「あ…」
僕はそれまでの胸の痛みから来た涙とは別の、暖かい涙を流した。
『おにいさんありがとう!ゆっくりしていってね!』
「よかった…」
僕の口からは自然とそんな言葉が漏れていた。
『おにいさん!これからもずっといっしょにゆっくりしようね!』
まりさは僕との、この形での再会を心から喜んでいるんだろう
本当に嬉しそうにそんな風に感極まった声をあげた。
僕も全く同じ気持ちで、そう呟いたんだと思う。


「最後に…こうして出会えてよかった」
僕はまりさに向かって金槌を振り下ろした。




それから、駆けつけた警官に僕は取り押えられて
手の傷を見た警官に病院へと運ぶために応急処置をした後近くにあったパトカーに乗せられた。
「あんたねぇ…何があったのか知らないけど
いくら現場検証ばっちり終わったからっても現場にあんなことしたら
器物破損やら何やらでちょっとした悪戯でしたーじゃすまないわよ全く…
黄色いテープ見えなかった?」
その女刑事はむくれながら言った。
「はい…」
女刑事の話には上の空で僕はそう答えた。
「たく…
で、あんなとこで何してたのよあんた」
僕はその質問に、本当のことを赤裸々に答えるわけにもいかず
どう答えればいいのだろうと途方にくれた末にこう答えた。

「友達に…さよならを言ってました…」

僕を乗せたパトカーは夜の闇の中をサイレンも鳴らさずに静かに走っていった。

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最終更新:2008年11月13日 01:05
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