(まりさの優しさ)
せっかく昼休みに
ゆっくりをして幸せな気分になったのに、午後の出来事はそんな気持ちを吹き飛ばしてしまった。
あの後まりさは、Aがまりさの見ている前で窓の外に投げ捨てた鉛筆を探し、校庭を二時間も歩き回った。
やっと見つけた時にはすでに日も暮れ始め、体には生垣で引っかけてできた傷跡が。
ぴょこ、ぴょこ、と足取りも重く家路に就く。一跳ね毎に進む距離が登校時とは明らかに違う。
今朝は初めて通う学校が楽しみで楽しみで、人間ならスキップしている様な感覚で元気に跳ねていたのに。
今は俯きながらぴょんと一歩踏み出す毎にため息を吐く。
たった数百メートルの距離を歩くのに、こんなに時間がかかったのは初めてだ。
家に着いた時には既に日はすっかり暮れていた。社長の家から家政婦のおばさんが出てきた。
「あら、まりさちゃんお帰り。どうしたの、随分遅かったじゃない。」
「ゆ。おばさん、ただいま。」
「あんまり帰ってくるのが遅いからねえ、探しに行こうとしてたとこだったんだよ。」
「ありがとう。しんぱいかけてごめんね。」
「友達と遊ぶのが楽しいのはわかるけど、あんまり遅くなっちゃ駄目だよ。お母さん達が心配するからね。
あら、あんた怪我してるじゃないの。こっちおいで、手当してあげるから。」
おばさんに連れられて台所へ。おばさんはまりさの傷をタオルで拭ってきれいにし、水で溶いた小麦粉を付け
傷を覆ってくれる。水仕事で荒れたおばさんの手から優しさが伝わってくる。
おばさんの手の温もりがまりさの体の傷を癒す。傷はみるみるうちに塞がっていく。
しかしまりさの心の傷は容易には消えなかった。
おばさんが用意してくれた晩ごはんを食べ終え、庭の犬小屋で今夜も帰りの遅い両親を待つ。
まりさが一日の中で一番嫌いな時間。真っ暗なおうちの中で、心細い思いをしながら両親の帰りを待ち続ける。
普段なら歌を歌って気を紛らわしたり、その日あった楽しかった事を思い出して過ごすのだが
生憎と今日はそんな気分にはなれなかった。
しばらくして、家の前に一台の車が止まる。聞こえてきた声。大好きなお母さん達の声。
「今日も一日ご苦労さん。遅くまで仕事させて悪かったなあ。」
「ゆ!おつかれさまでした!」
「おにいさんこそ、おつかれさま!おうちまでおくってくれて、ありがとうね!」
「いいっていいって、気にすんな。どうせ帰り道の途中だしな。
明日の朝も今日と同じ時間に迎えに来るから。明日も頼むぜ。」
「わかったよ!ゆっくりきをつけてかえってね!」
「おやすみなさい、おにいさん!」
「おう。」
両親がおうちの中に入ってきた。一生懸命働いて溜まった一日の疲れも、可愛いまりさの顔を見ればすぐに吹き飛ぶ。
だからまりさは精一杯の笑顔で両親を迎える。たとえそれがカラ元気でも。
「まりさおかあさん、れいむおかあさん、おかえりなさい!」
「ただいま!ゆっくりかえったよ!」
「おそくなってごめんね。ゆっくりしすぎたね。さみしかったでしょ。」
「ううん。へいきだよ!」
両親が遅い晩ごはんを食べ終わると、三匹はお互いにぺーろぺーろと舐めあって一日の体の汚れを落とす。
それが終わったら後は寝る時間。本当は両親に遊んでもらいたいのだが、まりさは我慢する。
お母さん達は疲れているし、明日の朝も早いのだ。
親子三匹一塊りになってタオルに包まる。右の頬と左の頬に感じる両親の温もり。
両親はいつもの様にまりさに今日あった事を聞く。
「がっこうはどうだった?たのしかった?おともだちはできた?」
「おかあさんたちはしんぱいだったよ。まりさがみんなとうまくやっていけるのかなって。」
「たのしかったよ!おともだちもたーーーっくさんできたの!」
嘘。まりさがうまれて初めて吐いた嘘。両親を心配させまいとする健気なまりさの優しさ。
両親の安堵と喜びが頬を通して伝わってくる様だ。痛い。とても痛い。
「あしたもはやいからもうねようね。」
「ゆっくりおやすみなさい。あしたもゆっくりとしたいちにちでありますように。」
「おやすみなさい・・・」
(出口の無い悪夢の様な日々)
朝の眩しい日差しがまりさを現実の世界へ引き戻す。楽しかった夢の時間の終わり。憂鬱な月曜の朝。
本当ならばゆっくり達のゆっくりとした一日を祝福してくれる太陽の恵みの筈なのに、
今のまりさには現実世界の象徴である無慈悲な太陽の光が恨めしかった。
永遠に朝が来なければいいのに・・・永遠に夢から覚めなければいいのに・・・
まりさが学校に通いだして一週間が経っていた。状況は相変わらず。
まりさに対するイジメは終わらない。理由無き理不尽な仕打ちにまりさはひたすら耐え続けていた。
火曜日。まりさは皆に笑い物にされた。
なぜか自分の後ろからクスクスと笑う声が聞こえる。
なんだろう。振り返って見ると笑っていた人達は一斉にそっぽを向く。
誰もまりさと目をあわせようとはしない。
また歩き始めると、再び笑い声が。自分が笑われているのは何となく判った。
でも何で笑われているんだろう。廊下に掛けられた全身鏡で自分の姿を見てみるがどこもおかしな所は無い。
一人の男子生徒がまりさの背後に近付く。そして手に持った鏡をまりさの後頭部に近づけた。
その鏡に映ったまりさの後姿。いつの間にか紙が貼られていた。何か文字が書いてある。
まりさも平仮名なら一応読む事ができる。そこに書かれていたのは三文字の卑猥な言葉。
「ゆーっ!ゆーーっ!ゆーーーーーーーーーっ!!!!!!」
まりさは真っ赤になって貼り紙を取ろうとする。しかし手を持たぬゆっくりである。
後ろに貼られた貼り紙を取る術など無い。それでも懸命に舌を伸ばして紙を取ろうとする。
まるで自分のしっぽを追いかける犬の様に、その場でくるくる回り続けるまりさ。
「とってね!だれかうしろのかみをとってね!!!」
それを聞いて助けてくれる者など誰もいない。皆、まりさの困っている姿を見てニヤニヤ笑っている。
紙は取れない。走ってみても、跳ねてみても、壁に後頭部をごしごし擦りつけてみても取れなかった。
やがてチャイムが鳴り皆教室に戻る。まりさも仕方なくそのまま自分の机へ。
恥ずかしい姿のまま机の上に乗ったまりさ。顔を真っ赤にして俯く。
そんなまりさに手を伸ばす隣の席のA。まりさの後頭部に貼られた紙をはがす。
え、まりさをたすけてくれたの?どうして?
Aが紙を自分の机に仕舞うのを見て、彼が紙をはがしてくれた事を知る。
A君がまりさを助けてくれるなんて信じられない、といった表情のまりさ。
勿論助けた訳ではない。何のことはない。教師に見付からぬ様、授業が始まる前に紙を隠しただけだった。
そして授業が終わり教師が退室すると、まりさの後頭部には二枚の紙が貼られた。
水曜日。まりさは粉まみれにされた。
この日まりさは日直をやる事になった。
もう一人の日直は隣の席、まりさをイジメる者達の主犯格A。
先生に「二人で協力して日直の仕事をして下さいね」と言われたまりさとA。
授業が終わると黒板をきれいにするのが日直の仕事の一つ。
手の無いまりさにはできない事。きっとAが一人でやるんだろうと思っていたまりさ。
「咥えろ。」
「え、なんで・・・」
「聞こえねえのか?あ゛?」
「ゆ・・・ぅ」
Aが目の前に黒板消しを差出し、まりさに咥える様命令する。
まりさが黒板消しを咥えると、Aはそのまままりさを持ち上げ黒板を拭き始めた。
「ゆ!いだい!はなして!」
「喋るんじゃねえよ。お前は黙って黒板消しを咥えてればいいんだよ。」
わざと爪を立ててまりさを持ち上げたA。尖った爪がまりさの柔らかい肌に食い込む。
更に過剰な力を掛けて黒板を拭く。黒板に押し付けられたまりさの顔が歪む。
黒板をきれいに拭き終ると、Aは黒板消しを咥えたままのまりさを窓の縁に仰向けに置く。
そしてどこからか持ってきた棒で黒板消しを叩き始めた。
黒板消しから出てきたチョークの粉がまりさに降りかかる。
目が痛い。息が苦しい。まりさは逃げようともがくが、Aの左手がしっかり押さえてそれを許さない。
「けほっ!けほっ!けほっ!」
「動くんじゃねえよ。あんまり暴れると下に突き落とすぞ。三階から落ちて生きていられるとでも思ってんのか?」
やっとAの拘束から放たれた時、まりさは上から下までチョークの粉まみれで真っ白になっていた。
まりさのトレードマーク、命の次に大事な黒い「すてきなおぼうし」も真っ白に。
まりさは泣きながら帽子のつばを咥え、壁に叩きつけて粉を落とす。
体に付いた方は、チョークの粉まみれのまりさに気付いた先生に取ってもらった。
どうしてこんな事になってしまったの、と聞かれても正直に答える訳にはいかない。
Aがこちらを見ている。仕方が無いから嘘を吐く。
「まりさね、ひとりでやろうとしたの。そしたらしっぱいしちゃった。」
「まあ、そうだったんですか。まりささんは頑張り屋さんですね。
でも時には人に頼る事も大事ですよ。人間誰でも完璧なわけではありません。当然できない事もあります。
だから人は一人でなく家族や仲間達と一緒に生活をするんです。」
「人には一人ではどうにもできない欠けたところがあるから、だから皆で助け合い補い合うんです。
お互い支えあうからこそ生きていけるんですよ。まりささんもきっと誰かの支えになれる筈。
だから困った時は人に頼ってもいいんですよ。困った事があったらクラスの皆に何でも相談してくださいね。」
まりさは先生の言葉に何と応えてよいかわからず、ただただ俯くしかなかった。
木曜日。まりさは倒れるまで走らされた。
昼休み、いつもの様にゆっくりぷれいすでゆっくりしようとしたまりさ。
廊下をぴょこぴょこ歩いていると、不意に後ろから伸びてきた腕に掴まれる。
「ゆ!なにするの!はなしてね!」
まりさを持ち上げた生徒は何も言わずに歩き出す。ゆっくりの力ではいくら暴れても逃げられない。
連れてこられたのは体育館。待っていたのはまりさのクラスの男子生徒達。当然Aもその中心にいる。
まりさは帽子を取り上げられ、体育館の床に放り投げられた。
「かえして!まりさのすてきなおぼうしをかえしてね!」
帽子を盗った生徒に詰め寄るまりさ。するとその生徒は数メートル離れた仲間に帽子をパスする。
慌てて帽子を追いかけるまりさ。ぴょんぴょんぴょんぴょん走って行く。
やっと帽子の元まで辿り着き、「すてきなおぼうしかえしてね!」と言おうとした瞬間、帽子はまた次の人へ。
フリスビーの様に帽子を投げ合って遊ぶ生徒たち。まりさはその間を必死に駆け回る。
「やめてね!まりさのすてきなおぼうしであそばないで!」
「かえしてね!まりさのおぼうしかえしてね!」
「おねがい!おぼうしかえして!それがないとゆっくりできないの!」
まりさは必死に頼み続けるが当然聞き入れられない。生徒たちはニヤニヤ笑いながら帽子を投げ合うだけ。
結局まりさは疲れきって動けなくなるまで走り続け、やっと帽子を返してもらった時には既に昼休みは終わっていた。
金曜日。まりさは唯一の楽しみを奪われた。
その日は朝から具合が悪かった。原因は校門の前にできていた水溜り。
ゆっくりは水に弱い。雨が降っていたなら学校を休むのだが、天気は快晴。まりさは普通に登校した。
何の問題も無く学校まで来たが、校門の前でまりさは立ち尽くす。
校門の前に大きな水たまりができていた。どうして・・・あめなんてふってないのに・・・
原因は明白。まりさをイジメている生徒達がやったのだ。
今から裏門まで回ったのでは遅刻してしまう。ここを通るより他に方法は無い。まりさは意を決めて水に足を入れる。
「ゆっ!」
まりさの肌が水たまりの泥水を吸い上げる。早くしないと、ぐずぐずしてたら皮がふやけて破れてしまう。
まりさは急いで、しかし着地の衝撃で皮が破けぬ様慎重に水たまりを渡る。
なんとか無事に渡りきったが随分水を吸ってしまった。
体が重い。体の中に異物が入り込んでいる様な感覚。気持ち悪い・・・
たぷんたぷんと揺れる体を何とか引きずって教室まで辿り着く。
具合が悪い。頭がぼうっとする。人間で言ったら高熱を出している様な状態。
まりさは体の餡子を吐き出してしまいそうになるのを何とか堪える。
そして昼休み。まりさは急いで校庭のゆっくりぷれいすへ向かう。
体の外側は乾いたが、体の芯にはまだ水分がたっぷり残っている。
これを除くにはゆっくりぷれいすで太陽の光をたっぷり浴びてゆっくりするしか無い。
「ゆゆーーーっ!どうしてえええええええ!!!」
ゆっくりぷれいすの前でまりさは立ち尽くした。ゆっくりぷれいすが荒らされている。
散乱するゴミ。空き缶、紙屑、残飯、お菓子のカラ。これではゆっくりできない。
まりさのゆっくりぷれいす。大事な大事なゆっくりぷれいす。校内で唯一心安らげる場所。今では見る影もない。
まりさは泣きながらゴミを片付ける。残飯の放つ悪臭に耐えながら、ゴミを一つ一つ口で拾って遠くへ捨てる。
ようやく自分ひとりがなんとかくつろげるスペースを確保した頃には、すでに昼休みは半分終わっていた。
まだまだ周りにゴミはあるが仕方ない。まったくゆっくりできないよりはマシだろう。
まりさが目を閉じゆっくりとし始めたその時。
ドッ
ゆ?なんだろう。なにかうえからおちてきたよ?
ゆっくりと目を開けるとそこにあったのは・・・丸々と太ったネズミの死体。
「ゆーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!」
更に頭の上に何かが降ってくる。まりさの帽子にあたって地面に落ちた黒い物の正体はゴキブリ。
まりさは真っ青になって逃げ出す。まりさの聖域、ゆっくりぷれいす。まりさは唯一の居場所も奪われた。
まりさはとぼとぼ歩きだす。この学校にゆっくりできる場所なんて他に無い。
まりさの行き先は一つしかない。教室。まりさをイジメる生徒達のいる教室・・・
土曜日。まりさは机を舐めさせられた。
平日と違い土曜日は半日授業。午前中さえ耐えきれば、地獄の様な一週間の終わり。
まりさは祈る様な気持で教室に入るが、当然平穏無事に過ごせる訳がない。
自分の机に上ったまりさの目に飛び込んできたのは、机一面にチョークで書かれた落書き。
机に書かれた罵詈雑言。御丁寧にもまりさに理解できる様すべて平仮名で書いてある。
まりさは静かに泣きながら机の落書きを消していく。
人間なら雑巾を使って消すのだろうが、手を持たないゆっくりにそれはできない。
舌でチョークの粉を舐めとって、少しずつきれいにしていく。
いくら雑食のゆっくりとはいえ、チョークなんか食べられる筈もない。
しかしこれしか方法が無い。気持ち悪いのを我慢して黙々とチョークの粉を舐めていく。
「ゆぎゃあああああああああああ!!!!!」
半分ほど終わった頃だろうか。まりさが突然奇声をあげて飛び上がる。
だれかがまりさの机に練りからしを塗っていたのだった。
ゆっくりにとって辛い物は毒。早く舌を水で洗わないと死んでしまう。
急いで水飲み場に向かうまりさ。しかしこんな時に限って誰も水道を使っていない。
当然まりさの力では水道の蛇口を捻ることができない。ひりひりする舌を伸ばして回そうとしてみてもビクともしない。
まりさは必死に走り回って水のある場所をさがす。
プール。駄目。今は水が抜かれている。校庭の池。駄目。周りに柵があって近寄れない。
「どうした?水が欲しいのか?」
頭上からの声。一番聞きたくない奴の声。まりさをイジメるAの声。
「黙ってちゃわかんねえぜ。まあいい。こんな事で死なれてもつまんねえしな。」
そう言うとAは近くに置いてあった花瓶を傾け、中の水を廊下に垂らす。
まりさはその水に飛びつく。何でAがこんな事をするのか解らないが、今はそんな事を考えている余裕は無い。
まりさが廊下に溜まった水をぺーろぺーろと舐めていると、自分のすぐ真後ろで大きな音がした。
ガッシャーーーン!
「ゆゆっ!」
花瓶の割れる音。辺りに響き渡る。飛び散った破片。音を聞き駆け付けた教師。
「こらあ!何やってるんだお前!!!」
大声で怒鳴られるまりさ。当然Aは消えている。まりさは犯人にされてしまった。
割れた花瓶を片付けさせられた後、怖い生徒指導の教師にみっちりと説教された。
日曜日。まりさはひとりぼっちだった。
長い一週間が終わり、やっと訪れた休みの日。学校に行かなくてもいい日。おうちでゆっくりしていていい日。
本当なら両親に遊んで欲しかった。舌で優しく舐めて慰めて欲しかった。
でも両親はいない。隣県に出張中。ダム建設予定地に住むゆっくりへの住民説明会の為、来週の週末まで帰ってこない。
ゆっくりは孤独が苦手な生き物である。だから子供をたくさんうむ。
しかしまりさに姉妹はいない。雇用主にあてがわれたおうちは親子三匹が住むのがやっとの広さ。
だから両親はまりさの妹達をうむのを泣く泣く諦めた。
それでも今までまりさの両親が共働きをできたのは、近所の小さい子供達がまりさと一緒に遊んでくれたからだった。
すぐ近くにある公園に行けば、まりさを仲間に入れて仲良く遊んでくれる人間の子供達がいる。
しかし今のまりさには近くの公園に遊びに行く事すらできなかった。
朝目が覚めて公園に遊びに行こうとしたまりさ。その目に飛び込んできたのは遠くを歩くまりさのクラスメイト達の姿。
すぐにおうちに逃げ戻ったので気付かれる事はなかったが、まりさはおうちから一歩も出られなくなってしまった。
日曜日。みんな休みの日。当然クラスメイト達も。家の外を歩いているかもしれない。
怖い。もし見つかったら。イジメられる。外に出られない。
おにわで遊ぼうか。駄目。誰が見ているかわからない。誰かに見られている気がする。
怖い。怖い。怖い。ゆっくりできない。ゆっくりできない。ゆっくりできない。
おかあさんたすけて!おかあさんたすけて!おかあさんたすけて!
でも両親はいない。
夜。ゆっくりは闇を恐れる。暗闇がまりさの孤独を更に煽る。
一日中遊び回ってくたくたになるまで疲れていたならぐっすり寝られるのに。
怖くて家から一歩も出られなかったまりさ。目が冴えてしまって寝られない。
こんな時、いつもなら両親が子守唄を歌ってくれる。おかあさんの歌う優しい子守唄。
とてもゆっくりできる子守唄。おかあさんが隣にいてくれたら安心してゆっくり眠れる。
でも両親はいない。
「ゅ~~~。ゅ~~~。ゅ~~~。」
まりさはか細く鳴く。両親を呼ぶ鳴き声。
「ゅ~~~。ゅ~~~。ゅ~~~。」
ゆっくりの赤ちゃんの鳴き声。これを聞けば親はすぐに駆けつける。
「ゅ~~~。ゅ~~~。ゅ~~~。」
まりさは鳴く。両親を求めて鳴く。届く筈もないのに鳴く。聞える筈もないのに鳴く。
「ゅ~~~。ゅ~~~。ゅ~~~。」
「うるせええええええええええええええええええ!!!!!」
「!!!!!」
突然響いた表を歩く酔っぱらいの怒声。別にまりさの鳴き声を聞いて怒鳴った訳ではない。
何か気に入らない事があって発せられた言葉なのだろうが、それはまりさに向けられたものではない。
しかしまりさは自分が怒鳴られている様に感じた。
酔っぱらいはさらに何やら大声で独り言を発している。呂律が回っていない。意味不明な言葉。
しかしまりさには自分をイジメる相談をしている様に聞こえた。
怖い・・・怖い・・・。まりさは頭からタオルを被り、ぷるぷる震えながら長い夜を過ごす。
いつのまにかまりさは眠っていた。まりさは夢を見る。
楽しい夢。幸せだった頃の夢。たった一週間前の事。今では遠い昔の事のよう。
両親は久しぶりの休みを貰い、家族三匹水入らずの休日。
近所の花畑にお花見に行く。きれいに咲き誇る花々の間を三匹並んでゆっくりおさんぽ。
お昼ごはん。母まりさが帽子の中から取り出したのは、まりさが大好きなクッキー。
口一杯に頬張って「むーしゃむーしゃ、しあわせー♪」と笑う。
お昼を食べ終えたらおひるねの時間。暖かな風がまりさの肌をやさしく撫でる。
太陽の恵みをたっぷり浴び、幸せそうに眠るまりさを見て微笑む両親。
歌を歌い、追いかけっこをし、かくれんぼをし、ゆっくりする。
楽しかった思い出。楽しい夢。しかし、所詮は夢。いつか必ず覚めてしまう。
朝の眩しい日差しがまりさを容赦なく照らす。まりさは現実に引き戻された。
今日は月曜日。新たな一週間の始まり。終わりの無い、地獄の様な一週間。
永遠に朝が来なければいいのに・・・永遠に夢から覚めなければいいのに・・・
家政婦のおばさんが用意してくれた朝ごはんがおうちの前に置いてある。
食べたくない。食欲が無い。まりさはそのままとぼとぼと学校へ向かう。
しばらくして普段と様子が違う事に気が付く。歩いている人が少ない。登校中の生徒がいない。
学校に着いてやっと状況を理解した。授業がすでに始まっている。まりさは遅刻してしまったのだ。
朝はいつも両親に起こしてもらっていたまりさ。盛大に寝坊していたのだった。
校門は閉まっていた。他の生徒達なら自分で開けて中に入れるのだろうが、まりさにはどうする事もできない。
学校には入れない。それに、どうせ学校に入ってもイジメられるだけだ。
まりさは開き直って学校をサボる事にした。
しかし、学校をサボってしまった後ろめたさからか、そのままおうちに帰る気にもなれない。
まりさは当てもなく町をぴょこぴょこ歩いて行く。
まりさをイジメる人達は今、皆学校の中にいる。夕方まで出てこない。まりさは今自由だ。
久しぶりにゆっくりできる・・・筈だった。イジメる人はいない。ゆっくりできるはずなのに・・・
なぜか落ち着かない。なぜかゆっくりできない。人の視線が気になる。
道行く人達。誰もまりさの事など気にも留めない。なのになぜか彼らに見られている様な気がする。
知らない人達。誰もまりさをイジメるはずなどない。なのになぜか彼らの一挙手一投足にビクビクする。
怖い・・・人間が怖い・・・
まりさは人のいない方へ人のいない方へと歩いて行き、気が付くと町の外れの原っぱにポツンと立っていた。
ここなら誰もいない。怖い人間はいない。ここならゆっくりできる・・・
「ゆっくり・・・」
まりさはゆっくりしようとした。いつもの様に。そうすれば嫌な事はすべて忘れられる。忘れられる筈なのに・・・
なぜかゆっくりできない。
この一週間まりさが受け続けたイジメ。まりさの小さな心には余りに大きすぎた負荷。
蓄積された心の傷が既に一線を越えてしまっていたのだ。ゆっくりにとって一番大事なところを壊された。
まりさはもう二度とゆっくりできない。
まりさは目から涙を流しながら「アハハハハハハ」とゆっくりらしからぬ乾いた笑い声をあげる。
まりさは泣いた。ひたすら泣いた。
涙が枯れもう何も出なくなると、最後にぽつりと呟いた。
「どうしてまりさがこんなめにあうの。」
「どうしてゆっくりできないの。」
「まりさはなんにもわるいことしてないのに。」
「おかあさん、まりさはゆっくりだよね。ゆっくりするのがゆっくりだよね。」
「まりさ、ゆっくりできなくなっちゃった・・・」
「ゆっくりできないゆっくりなんて・・・ゆっくりできないゆっくりなんて・・・」
「おかあさん、ありがとう。ごめんなさい・・・」
まりさは歩き出した。行く当ても無く。そして二度と戻って来る事は無かった。
この町では特別珍しい事でもないゆっくりの失踪。今日もまた一匹のゆっくりが消えた。
今までに消えていったゆっくり達と同じ言葉を残して・・・
「もっとゆっくりしたかった・・・」
end
今まで書いたもの 「ゆっくりTVショッピング」 「消えたゆっくり」 「飛蝗」 「街」 「童謡」
「ある研究者の日記」 「短編集」 「嘘」 「こんな台詞を聞くと・・・」
「七匹のゆっくり」 「はじめてのひとりぐらし」 「狂気」 「ヤブ」
「ゆ狩りー1」 「ゆ狩りー2」 「母をたずねて三里」 「水夫と学者とゆっくりと」
「泣きゆっくり」 「ふゅーじょんしましょっ♪」 「ゆっくり理髪店」
「ずっと・・・(前)」 「ずっと・・・(後)」 「シャッターチャンス」
「座敷ゆっくり」 「○ぶ」 「夢」 「悪食の姫」
最終更新:2009年04月07日 03:01