僕達は、そのうねりに乗った。
 強く、それでいてウザイきめぇ丸にはものすごい勢いでファンが付いた。……アンチの、だが。
 そんな情勢をマーケティング能力に長けたテレビ局が見逃すわけが無い。

 勝ち続けるきめぇ丸に今度ぶつけられるのは正統派ヒロイン・めーりん。


 その厚い皮と強靭な精神力で相手の攻撃を全てまともに受け止め、何度ダウンしても這い上がって逆転KOを繰り返すめーりん。
 攻防一体の圧倒的な敏捷性を基にシステマナイズされたコンビネーションであざ笑うかのように勝ち進んでいくきめぇ丸。

 漫画から飛び出たかのような展開を繰り返すめーりんは子供や大人問わずヒーローだった。めーりんが倒れれば観客全てがめーりんコール
 で彼女を窮地から呼び起こし、逆転の一撃を決めれば誰彼構わずに隣の人と抱き合ってしまう魅力を持っていた。
 ちまちま当てては避けるという強い、そして地味過ぎるきめぇ丸はサイドスローからアウトロー一杯に決まる117㌔のスライダーを投げる
 左のワンポイント投手にニヤニヤするような一部のマニアだけに大絶賛された。

 温厚でいて忠誠心の強いめーりんは保護欲を掻き立てられる存在だった。
 ぶてぶてしい表情で相手を小ばかにするきめぇ丸はぶん殴りたくなる存在だった。


 あらゆる意味で対極な二匹の試合はぶっちぎりで注目を集め、連日連夜取り上げられて日曜のゴールデンに放映されたこの試合は、
 しかし考えられる限り最悪の相性だった。
 試合は多くの人の予想を裏切る一方的な虐殺だった。


 当たらない。
 いくら打っても当たらない。
 どんなに打っても当たらない。

 めーりんの体当たりは悉くかわされ、カウンターの噛み付きがもろに決まる。

「じゃ、じゃおおぉぉ~ん!?」

「ふふん。きめぇ丸は自分を客観的に見ることができるんです。貴女とはちがうんです!!」

 当たり前だ。
 めーりんの特徴は如何に被弾しようと止らないそのタフネスにある。いくらぶつけられようと、噛み付かれようと、
 一切構わずに突っ込み、疲れ切った相手をコーナーに追い詰めてからが本番。
 しかし、前後左右に加え、上下の動きさえできるきめぇ丸にとり、いかにめーりんのタフさが凄かろうと一切関係ない。
 きめぇ丸もまた、止らないのだから。玉砕精神で突っ込んできたところで、常に首を振りつつ円運動をするきめぇ丸を
 捉えることが出来ない。
 タフなめーりんとはいっても、それは通常のゆっくりを相手にしてのこと。
 僕によってビデオで丸裸にされためーりんの癖は当然にきめぇ丸に叩き込まれており、めーりんの予想だにしない角度から
 観客を煽りつつものすごいスピードで連打を繰り返すきめぇ丸。

 一発で倒せないならば、十発当てればよい。
 十発で倒せないならば、百発当てればよい。

 至極単純な、それでいて確実な戦法を採る我々はじわりじわりとめーりんを嬲り倒す。 


 「起きてよ、めーりん!起きてっ!!あんな奴、いつもみたいにやっつけてよぉぉ!!!」
 ちびっ子達の歓声から始まった怒涛の「めーりん」コール。
 会場はこれ以上無いほどに一体となってめーりんを支えた。


 だが、悲しいことに声援は背中を後押しする力とはなっても現状を打破する知恵は授けてくれない。
 きめぇ丸は容赦なく倒し続ける。めーりんは空回りし続ける。
 それは、第一ラウンドから最終ラウンドまで変わらない姿であった。

 ゆっくりの再生力を当てにしてか、それともめーりんがドル箱だからか、あるいはその両方からか、
 普段はめったに止めに入らないレフリーが流石にTKOを宣言しようとしたときに、めーりんは鳴いた。

 「じゃ、じゃお!じゃおお~じゃおおぉぉ~ん!!!」
 “めーりんはまだたたかえるんだっ!!めーりんはもっとたたかいたいんだ!!”
 とでも言っているのだろうか。滑稽な話だった。

 左目が殆ど潰れて物が見えず。
 きめぇ丸の攻撃を耐えるために試合中に酷使した歯はボロボロ。
 激しくかき混ぜられた餡子はもはや正常な統制機能を果たさない。

 人間であれば棺おけに片足どころか腰までどっぷり浸かっているとしか思えない状態での狂言だった。
 BJ先生だってもはや治せまい。

 めーりんの体は決定的な何かを失った。
 きめぇ丸の猛攻に耐え切れなかったのか、蓄積した積年のダメージが現れたのかはわからない。
 めーりんの下半身部分は刻一刻と衰えていき、今ではもう殆ど引きずるだけだ。意識など当の昔に飛んでいる。
 この状態のめーりんを見て、天寿をまっとう出来ると慰めるのは失笑ものといえよう。

 それでもなお、めーりんは戦いを求めて吼えた。
 やっとできた、かけがえの無い存在のために。
 めーりん種はその温厚な性格から、元々争いを好まない。そんな彼女が静止を振り切ってまでも戦う理由。
 掃き溜めから生まれたゴミクズ同然のめーりんが文字通り身体一つで得た昔日の財産と栄光。
 それらを全て差し出して余りある無形の宝を守るために。

 永らくめーりん種というだけで差別を受け続け、孤独に苛まれていた彼女に仏の皮を被った強欲な人間は
 蜘蛛の糸を差し伸べた。

 いつも通りのトレーニングを終えためーりんの前に見せられたのは、カラフルな翼をした女の子。
 一週間。その間、めーりんはその子と遊ぶことが許された。めーりんが狂喜したのは言うまでも無い。

 一緒にむ~しゃむ~しゃした。
 頬擦りをした。
 添い寝をした。
 ふぁーすとちゅっちゅも体験した。
 たくさんの子供と、カワイイつがいに囲まれた生活がリアルに想像できた。


 8日目にして、彼女はピタッと顔を見せなくなった。いぶかしむめーりん。
 9日目も来なかった。めーりんは不安になった。
 10日目も来なかった。めーりんは孤独の恐怖に苛まれた。

 元々ありもしないものに、幻想を抱くことは無い。
 一旦、目の当たりにしたからこそ、もう諦めること等できはしない。

 そして、首輪をつけた女の子がめーりんの前に引っ立てられた。

 “きめぇ丸に勝つことが出来たら、そいつをお前のつがいにくれてやる。負ければ、そいつは処分する。”
 人間らしい、命に対する冒涜といえる飴と鞭だった。

 普段は、ただただ生き残るために戦っていためーりん。
 そんなめーりんは生まれて初めて誰かのために戦う決意をしたのだ。


 そんなめーりんの一世一代の決意は。
 僕ときめぇ丸には一切関係なかったし、知る由も無かった。 
 だから、相変わらず、容赦せずに嬲り続けた。

 試合が終わった頃には、ぶてぶてしい表情を一切変えることなく、ニタニタ笑い続けるきめぇ丸を尻目に体中の餡子を飛び散らせ
 ながらキャンバスに蹲るめーりんの様子がありありとテレビに放映されていた。

 観客の期待とかテレビ局の思惑とかそういったものを一切読まないきめぇ丸の圧勝によって、交差した両者のゆっくり生は全く異なるものとなった。

 めーりんは壊された。攻撃力こそ持続できたものの、いつものタフネスはそこに無く、勝ったり負けたりを数回繰り返して引退した。
 当然の帰結だ。あの試合でめーりんはおそらくいつもの十倍は被弾した。それでピンピンされてはこちらの矜持が廃るというものだ。


 きめぇ丸はこの試合を最後に引退を決意した。というのも、僕ときめぇ丸は戦いに意義を見出せなかった。相手を再起不能になるまで潰して
 その余韻に浸る。自分達が最強なのだと言う何にも勝る矜持の残香はひどく不愉快だった。
 そこにあったのは、汚い大人の世界。

 僕達が目指したはずの世界一強いゆっくりはそこには無かった。
 誰かを倒して初めて感じる強さにもはや何の感慨も沸かなかった。
 重要なのは、強さではなく、金になるか、だけであった。
 そんな現実に迎合できるほど、僕達は大人にはなっていなかった。

 それに口には出さなかったが。僕はきめぇ丸が心配だった。あんなタフなめーりんでも壊れることがある。
 その当たり前すぎる現実に遅まきながら僕は気付いてしまった。
 避けること。
 それが僕がきめぇ丸に最初に教えたことだった。
 次いで、守ること。
 攻撃は二の次三の次。
 あくまでダメージを残さないように指導した僕の理念を具現化した戦法は、実は最も効率の良い勝ち方でもあったらしい。


 きめぇ丸もまた、戦いに酔いしれることは無かった。
 ただ、自分と僕の居場所を守る。それが彼女の唯一にして絶対の目的だった。

 だから、僕から引退を切り出されたとき、きめぇ丸はさして残念がることも無く了承した。
 両親も、金には頓着しない人間だったので、特にもめることもなかった。
 どうせ元々身一つ、出稼ぎでここに来た両親にとってみれば泡沫の銭には興味がなかったらしい。

 きめぇ丸との触れ合いのおかげか、僕もだいぶ明るい性格になった。
 持病も成長し、身体が強くなる過程で徐々に和らぎ、高校も半ばを過ぎた頃にはほぼ完治した。

 「アルティメット・ゆっくり」の人気は更に高まり、いつしかきめぇ丸はこの業界のトップ・スタァ
 にのし上っていた。今のチャンピオンがいかに強かろうと。どんな戦歴を誇ろうと。
 めーりんを潰したきめぇ丸の影がちらついて一番にはなれない。

 そんな美味しい状況を、あのハゲダカどもが見逃すわけが無かった。





 「おお、快諾快諾。」

 「な、勝手に決めるなっ!!僕は自分の力で大学ぐらい入れる」

 「どうせ、きめぇ丸は世界一強いゆっくりを目指しているんです。あそこの環境が一番良いんですよ。
 ただ、それだけです。もやしさんの大学なんて知りませんよ。おお、無関係無関係」

 嘘だった。
 きめぇ丸は別に一番を目指したことなんて無かった。
 ただ、僕ときめぇ丸の絆であった、それだけの理由できめぇ丸は戦い続けた。
 元々、きめぇ丸は好戦的なゆっくりではない。好奇心の赴くままに生きる。それがきめぇ丸の“ゆっくり”なのだから。

 きめぇ丸は賢いゆっくりだったから分かっていた。僕が行きたい大学に合格しようとも、4年間通い続けるお金なんて
 捻出できるわけが無いことを。確かに、ウチはそこまでお金に困っているわけではない。だが、所詮中流社会に生きる我が家
 が理系の大学、しかも私立に行かせる余裕などあるはずも無い。それでも、僕が子供の頃からその大学に強い憧れを持っていることは
 きめぇ丸には筒抜けだったのだ。 

 あからさま過ぎるバーター契約だった。
 農学部にゆっくりを研究する学科を新設しようとするその大学は看板が欲しい。
 きめぇ丸が戦えば、大金が動く。

 僕の4年分の学費と、一生分の誇りは。きめぇ丸が身を擲った成果だった。




 「きめぇ丸、お楽しみの時間だ」

 「おお、理解理解」

 「あのクソ生意気な饅頭に現実を教えてやれ」

 「おお、了解了解」


 今夜の相手はチャンプ。
 まりさ三姉妹とかで売り出していた、長女だ。なんでも、元々親がドスまりさという希少種らしく、話題には事欠かなかった。
 僕が見た限りでは、さして強いとも思えない。全戦全勝全KOという華麗なる経歴は、どう考えても金とコネにものを
 言わせた産物だった。

 徹底的に過保護なマッチメイク。少しでも危ないと思ったら難癖をつけて絶対に戦わない。
 執拗なまでの煽り文句。聞いていて恥ずかしくなるくらいだ。
 ゆっくりらしい、ぶてぶてしいウザさの合間に混ぜられる人情脆い一面。聞けば、今日は病気の子供に勝ちを約束したらしい。

 全てが計算されていた。
 全てが、僕ときめぇ丸の逆鱗に触れた。

 自身が最強だとアピールする傍らで必死に保身に走るその滑稽で惨めで哀れな姿に、僕ときめぇ丸の思いが汚されるようだった。

 きめぇ丸と戦わせる魂胆はミエミエだった。
 最高のヒールである、きめぇ丸。未だに最強であるという幻想に守られた絶対王者。
 そのきめぇ丸を完膚なきまでに叩き潰して、新たなヒーローを“創り出す”。

 そうでなくば、通常は3ヶ月以上の調整期間が与えられるのに、わずか1ヶ月で、しかも復帰戦でいきなり王者と戦わせるような
 無謀極まりない戦いを押し付けてくることはあり得ない。

 奴等は狡猾だった。決して、八百長を頼むようなことはしない。業界に対しては素人である僕がバラす危険を考えたのだろう。
 だから、きめぇ丸が全力で戦えなくなるシチュエーションをこれでもかとぶつけてきた。
 難癖をつけても、大事にならないように、姑息に。 

 その程度で、きめぇ丸を止められると思ったのだろうか。
 上等だ。
 目に物見せてくれる。








 きめぇ丸は、圧勝した。
 所詮は現場を知らぬ者たちの勝手な思い込み。
 この程度の状況がきめぇ丸とまりさの圧倒的な実力差を覆すに至ることは無かった。





 「ヒャッハッハッ虐待だーっ!!」

 「やめてください!死んでしまいます!!!」 


 僕は組み伏せられ、きめぇ丸はあのふてぶてしい顔に汗と涙を浮かべて懇願した。
 そんな泣き言が聞き届けられるはずはないとわかってなお、追い詰められた者はかような行動を取る。


 きめぇ丸が気に入らなかったのだろう。
 試合後、帰路に着く僕達を待っていたのはチンピラ達だった。


 僕は必死に抵抗した。捨て身になった者は強い。
 ただ僕達にヤキを入れてやろうという程度の気持ちで襲ってきた輩に対して、文字通り全身全霊を賭けた
 抵抗。圧倒的な戦力さにも拘らず、何とか一人を倒したのは奇跡に近い。
 しかし、悲しいかな喧嘩に慣れていない僕ではそれが限界だった。
 かえって彼等の戸惑いと怒りを煽り、標的を僕に替え、再起不能にすることを決めたらしい。

 何度も何度も殴られ、蹴られた僕の意識は虚ろになった。
 腕にきめぇ丸を抱えながら、遠のく意識で聞いてはならない言葉を拾ってしまった。


 「きめぇ丸が代わりになります。おお、身代わり身代わり」
 なに……やってんだ、馬鹿ヤ……ロウ。チャンス……見……て逃げ……ろよ。


 「んン?なぁに~~きこえんな~~~これじゃぁまるで僕がいじめしているみたいじゃないか。
 そんなこと僕にはできないよおぉぉ!」


 わざとらしく丁寧な言葉で白を切るチンピラ。

 チンピラ達は身震いがした。
 圧倒的な優越感に彩られた、何物にも代え難い快感であった。
 これほどまでに“女”を貶めるのは初めての経験である。これは病みつきになると思った。
 例えるならば、他人が必死に積み上げたドミノを横から事もなげに叩き潰す悦び。
 昨夜、思う存分ホームレスの親父を殴ってやった時も、これほどの快感は得られなかった。もっと早くやっておけば
よかったと思った。


 ならば、思い知らせてやろうではないか。
 自分が犠牲となって男を助ける。そんなヒロイン気取りの饅頭にある思い上がった気持ちが如何に傲慢でおろかであることを。

 徹底的に貶めてやる。

 「閉じるなよぉ~、絶対に閉じるなよぉ~」

 カチッ、カチッ、カチッ。
 目の前数センチの距離から押し続けるシャープペンシル。 
 その澄んだ気にいらねぇ目。二度と見えないようにしてやる。

 「きめぇぇぇまるちゃぁぁぁん!おいしゃさんごっこしましょ~~!!
 ぼくがはいしゃさんでぇぇ、きめぇぇまるちゃんがかんじゃさんだよぉぉぉ」
 口をあけたきめぇ丸に向けられるのは、ド・リ・ル☆
 チュィィィウイイイィィン!!という音が恐怖を誘う。
 そのぶてぶてしい顔。怯えてもう笑えないようにしてやる。


「ところで俺のコレをを見てくれ。こいつをどう思う?」
 その穢れを知らぬ身体。汚してやる。洗っても洗っても決して落ちない汚れを擦り付けてやる。



 悪夢のような儀式も終わりを告げるときがあるようだ。


 「うっ…へへ……ゆっくりを虐待したあとは小便がしたくなる!!」

 ジョボジョボジョボ。
 頬を伝う不快な温もりと共に水を叩きつける音がきめぇ丸の耳朶を打った。



 病院で目が覚めた僕が見たのは。
 とても目を覆いたくなるような光景だった。


 「あややややぁ?おきたようですね。おお、寝ぼすけ寝ぼすけ」

 何事も無かったかのような口調で語りかけるきめぇ丸。

 彼女の誇りであった帽子は何処にも無かった。
 濡れ烏を思わせる髪はボサボサで、所々が根元から抜けていた。
 気高き真紅の瞳は片方が深淵を連想させる空洞になっていた。


 後から聞いた話によれば。
 騒ぎを聞きつけた住民が駆けつけるまで、きめぇ丸はうめき声一つ上げずにこの虐待に耐え続けたらしい。
 人に保護されて彼女の第一声は、「もやしさんを助けてください!!おお、はやくはやく!!!」だったらしい。
 安心したすぐに彼女はぶてぶてしい表情のままで気を失ったとのこと。
 僕がこれ以上やられないように。彼女は圧倒的な暴力に心底震えながらもぶてぶてしい表情を崩さず、必死に注意を向かせたのだという。

 そんなきめぇ丸の健気な行動は、実のところ僕の心をうつものではなかった。

 僕は一体何がしたかったんだろうか。
 きめぇ丸を拾い、きめぇ丸を育て、きめぇ丸を戦わせ、きめぇ丸を汚し、そしてきめぇ丸を壊した。
 罪悪感、とも違うと思う。身体の一部を喪った喪失感、とでも言えば良いのだろうか。

 去来していたのは虚無感。
 こんなものだった。僕ときめぇ丸の数年はこんなにも無意味なものだったのだ。
 家族同然に思っていたきめぇ丸、ゆっくり界ではもはや常勝無敗のスターであるきめぇ丸。
 世界一強いゆっくりはしかしそこら辺のチンピラに到底及ばない程度の強さでしかなかった。


 あの日、僕ときめぇ丸の誓いは。急に色褪せていった。


 退院しても、僕ときめぇ丸の仲は元に戻らなかった。
 きめぇ丸はいつもの通りだった。だから、僕のせいだったのだろう。
 思えば、彼女とのお別れはもうこのときに済ませたのかもしれない。




 退院してから四半期を待たずにきめぇ丸は死んだ。
 飼いゆっくりは5年持てば良いほうだという。
 ウチで10年生き永らえたきめぇ丸は存外長命だったのであろう。
 あの事件が無ければさらに長く生きていられたのかもしれないが。 

 最後を看取った母が言うには、僕が外出したときに突然死したらしい。


 死んでいるとは思えなかった。ただ寝ているだけ。
 すぐにでも、あのいつものぶてぶてしい面で挑発してきそうだった。
 事切れるその瞬間を見ていないからだろうか。
 心の準備が出来ていなかった僕にはきめぇ丸が死んだという実感が湧かなかった。
 彼女が死んだのは、3月も末のこと。
 日に日に衰弱していくきめぇ丸を目の当たりにしながらも、例年に無く厳しく寒い冬を乗り越えた
 彼女には、僕と彼女が仲直りするだけの時間は与えられているのだろうという根拠の無い自信があったからかもしれない。




 死体は思っていたのよりも冷たかった。
 あのもちもちとした肌も、気が向いたときだけたまに舐めてくれた舌も、冷たかった。
 その冷たさが、嫌がおうにも現実を思い知らせてくれる。

 翌日の日曜日。
 それなりに思い出されることが胸に去来する。
 彼女との10年間の思い出とこれからも気付くであろうと思っていた思い出。
 思いっきり取り乱すかと思ったら、案外平気だった。

 思い出せば涙は止らないものの、さほど悲しいという気がするわけでもない。
 悲しみにくれる母の隣で、僕は後の処理を冷静に考え、粛々と執行していった。


 日曜の朝に思いっきり寝坊できた。
 いつもは早々に起きているのに、と訝しがっていたらその原因に気付いた。

 僕の休みの日に必ずたたき起こしに来るあのふてぶてしい顔がないからだ。

 ご飯と食べてるときに何となく、違和感を感じた。
 いつもと違って、足元がスースーする。

 僕のエビフライにたかろうとするいやしんぼを足で抑えつける必要性がなくなったからだ。

 ゲームをしているときに、何となく物足りない。
 2面ボスにボム4つ残してやられたときにコンテニューしようと思わない。

 隣でニヤニヤしながら煽ってくる不届き者がいないからだ。


 ああ、死ぬってのはこういうことなんだ。
 死者は思い出になるとよく言われるけど、実際はもっと簡単なことだった。

 別に喪失感に苛まれるなどという小難しいことではない。
 日常の中から切り取られること。

 きめぇ丸がいなくなったとしても、日常は日常のままであり続ける。
 僕の卒論提出の期限は変わらないし、入社日だって何ら影響はない。


 今まで当たり前に存在していたこと。
 朝起こされて、食事を一緒にとって、気が向いたときだけじゃれてやる。
 その当たり前が消えること。
 ただそれだけだった。


 喪った悲しみは想像していた一気呵成のものではなかった。
 喪失とは、築き上げた思い出を減価償却するようなもの。
 家にきめぇ丸との思い出を連想させる物は腐るほどあった。
 それを見る度にきめぇ丸ともう新しい思い出を共有することは出来ないんだなと思い知らせてくれる。
 全く、忌々しい瘡蓋のようなものだ。


 普段、きめぇ丸なんぞ歯牙にもかけない父がきめぇ丸を買ってきたのは1年後の話。
 母の憔悴ぶりにいたたまれなかったのであろう。
 10年もたてば稀少だったきめぇ丸もそれなりに市場に流通する。
 値段は多少高くとももはや庶民の手には届かない存在とまでは言えなくなっていた。

 しかし、僕は知っている。
 “その”きめぇ丸ではダメだ。
 ウチに来た“その”きめぇ丸はペットとして完璧だった。
 主人たる我々には逆らわず、かといって一緒に遊びたいときには機敏に気持ちを察してくれ、構って欲しいオーラを出す。
 最初は二度とペットなんぞ飼うまいと言っていた母も、いざきめぇ丸が来るとかいがいしく世話をした。
 面倒を見れば、情も移る。母が入れ込むようになったのにそう時間はかからなかった。

 僕は、やはりダメだった。
 彼女は確かに「ペットとして」完璧だった。
 だが、たまに主人にゴマをすり、たまに主人に逆らい、たまに主人に気を遣うきめぇ丸では決してなかった。

 ぼくは、“その”きめぇ丸を見るのが嫌だった。
 知っているきめぇ丸と似て非なる存在。
 人の気持ちはそこまで強くは無い。
 無形物であるきめぇ丸との思い出が有形物たる“その”きめぇ丸の仕草に塗潰されていくのは仕方の無いことだった。 


 父は、元々きめぇ丸には不干渉だった。
 母は、“きめぇ丸”が来て、「きめぇ丸」が押し出された様だ。

 あのぶてぶてしい顔も。
 ぶっちゃけ気持ち悪い俊敏な動きも。
 舐めきったような口調も。
 時たま見せる気遣いも。

 もう、「きめぇ丸」は僕の心にしか、いなかった。
 僕が忘れてしまえば、きめぇ丸は死んでしまう。



 あの日から10年がたった。
 きめぇ丸がウチに来てから10年、きめぇ丸がウチからいなくなって10年。
 今ではもうほとんど彼女のことは思い出せない。

 どんな顔だったんだろうか。
 口癖はなんだったんだろうか。
 彼女は僕を何と呼んでいたんだっけ。

 いなくなってしまった者をずっと思い続けることは、思っていたよりも難しいものだった。
 少しずつ、彼女を思い出す頻度が減った。
 次々と、彼女が生きていた痕跡が消えた。
 段々と、思い出す痛みが和らいでいった。
 仕事が始まり、毎日が忙殺されていた。
 恋人も何人か出来て、何人かと別れた。
 結婚して、子供も生まれた。


 現実が思い出を塗り潰した。
 「きめぇ丸」は、もう本当の意味で死んだ。








 これが、きめぇ丸の一生。
 彼女が一生をかけて一人の男に尽くした、その一生は価値があったのでしょうか。
 貴方はどう思いますか?





あとがき

ペットと親友の狭間を駆け抜けた一生。
そんな話を書いてみたかった。

戦闘シーンの元ネタ
きめぇ丸=フロイド・メイウェザーjr
めーりん=アルツーロ・ガッティ
まりさ=亀田興毅

かいたもの

幸せはいつだってゼロサムゲーム
およめにしなさい
甘い話には裏がある
史上最弱が最も恐ろしい
ぽーにょぽーにょぽーにょ
天国と地獄を分ける程度の能力

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最終更新:2022年05月21日 22:25