「おかえり」
夕方、彼女は毎日決まった時間に帰ってくる。
私はそれに合わせて夕食をつくり、ガチャリという鍵の開く音に反応して笑顔で彼女を出迎える。
今日のおかずはハンバーグ。
特製のデミグラスソースの香りが玄関先まで届いて、彼女は少し台所に視線を向けた。
「ご飯にする?お風呂にする?それとも…」
後ろ手で扉を閉めた長門さんは、私に鞄を預けると、
「ご飯」
すたすたとリビングに歩いていった。
「おいしかった?」
空になった食器を片付けながら聞いてみる。
栄養やらエネルギーなんて私達には関係ないから、「おいしかった」と言ってくれればそれでいい。
私が料理を作る理由はそれで充分。
彼女の首がこくんと動き、
「よかった」
作ったわけではない笑みが自然と顔に浮かぶのがわかる。
なんだか、人間っぽくなってきたなと自分でも思うわ。
暗く寒かった部屋は、二人で暮らすようになってから少しだけ暖かくなった。
冷蔵庫にはレトルト以外の食材を増やしたし、彼女が許すなら家具や洋服も揃えたい。
私はこの部屋で、ずっと彼女の帰りを料理を作りながら待っていたいと思うようになっていた。
「明日は何がいい?」
「オムライス」
長門さんは子どもっぽいメニューが好きみたい。
昨日はエビフライ、その前はグラタン—
「じゃあ卵を買ってこないと」
ケチャップもなかったかもしれない。
冷蔵庫の中身を思い出す私に、
「明日、帰りに買ってくる」
「ねぇ、たまには私が買いに行っても…」
頬杖ついて言ってみると、
「外出は厳禁」
念を押すみたいな口調で遮る。
「あなたはカナダに引っ越したことになっている。この辺りをウロウロするべきではない」
「わかってるわ…」
一応困った顔をつくる私に、彼女は突き刺すみたいな視線を送って立ち上がった。
私の顔を見つめたままテーブルをぐるっと回って横までくると、覆い被さるみたいに顔を近付けて、
「あなたは本当は外に出たいなんて思っていない」
睫毛に触れそうな近さで薄い唇が囁く。
「そうやって、私を困らせたいだけ」
図星。
と言うか、長門さんが私の心の中をお見通しなのは知っている。
でも、だからって、
「言わなくたっていいじゃない」
私はあなたが何を考えているのかわからない。
長門さんは困った顔で笑う私の肩を両手で抱いて、
「キス、してほしいの?」
わずかに首を傾げる。
あなたはいつもずるい。
何も分からないみたいな顔をして、何もかもわかってるんだから。
私はいつだってあなたの思い通り…。
しばらく、ふわふわした意識の中でそんなことを考えていたけど—、
もったいないわよね。
重なった唇の柔らかさを感じながら、私はゆっくりと瞼を下ろした。
離れていく彼女の瞳に、うっとりした顔の少女が映っている。
この甘い雰囲気を終わらせたくなかった私は、
「キスの間は目を閉じるのがマナーよ」
長門さんの胸にすがって言ってみる。
負け惜しみみたいな言葉に何を感じたのか、彼女は無言で私を見つめて、
「…」
不意打ちみたいなタイミングで再び唇を重ねた。
やっぱりずるい。
当て付けのつもりで瞼を上げると、いつもの底のない瞳が私を見つめていた。
…目は閉じてって言ったじゃない。
私は心の中で苦笑して、徐々にのしかかる彼女の体重を感じながら瞳を閉じた。
唇が離れても、私はうっとりと彼女を見つめていた。
肩にかかる手のひらの感触が愛しい。
長門さんは無表情のまま整った顔を私の頬に擦り寄せ、
「涼子」
あのね、パーソナルネームなんて上っ面でしかないのよ。
私という個体を識別するためのただの記号なわけ。
長門さんもずいぶん人間ぽくなったもんね。
「有希さん」
肩をすくませ胸にすがりつく私を抱きながら、
「…」
彼女だけが何もかも理解している。
でも、それでもいいの。
だって彼女の胸はすごく温かいし、
「好きよ」
愛とか幸せとか、人間っぽい感覚が心地よくなってしまったんだもの。
最終更新:2009年01月05日 20:59