あの日、夕暮れに染まる教室で、クラスメイトにアーミーナイフを振り上げてから何日か、何ヵ月か。
あと少しのところで情報の連結を解除された私は、実体と非実体の狭間で揺れ動くなんとも曖昧な存在として、
有機生命体における死を味わうこともなく、よく分からない空間をうろうろと漂っていた。
指示を無視して勝手に行動したんだから、何らかの処分はあるんでしょうけど。
今は謹慎中ってとこかしら。
人間はこういう状態を魂とでもいうんでしょうね。
でも、私の場合もともとが“これ”だから、
むしろ実体をもって言葉でコミュニケーションしていた時のほうが違和感があったわ。
思考して、選択して、実行して。
原始的だけど、ある意味ではすごく確定的な世界。
そんな世界に三年もの間身を投じていた私が、今ではこんなに不確定な場所で曖昧に過ごしている。
有機生命体の感覚で表現するなら、暗い、生暖かい空間。だけど—
そんなに悪くないものよ?
寂しいなんて感情は、私達にはないんだから。
さぁ、そろそろね。
処分の時がきたみたい。
とても明るい光が私を包んで—。
何だか久しぶりの感覚…、この感覚は、うんと…、
そう、確か。有機生命体として、朝倉涼子として地上に生み落とされたときと似てる。
そうよ。あの時はだだっ広い殺風景な部屋に放り出されて。
あれはあれで悪くなかったわ。
優等生なんていいポジション与えられてたんだし。
でも、こんな風に今までの経験を反芻する作業もここで終わり。
なんだか自分が消滅していくのが実感としてわかるもの。
改めて、さよなら。
うふふ、…最後くらい、痛くしないでね。
「痛ぁい!!」
ゴン、という鈍い音とともに、私は頭を抱えて叫んでいた。
え?頭を抱えて?…叫んでいた?
「何?何これ?」
実体がある。
肉体が—手が動く。頭が痛い。何で?と、思考してる。
私は処分されたはずじゃなかったの?
よく見ると、まぁ、見るという感覚も久しぶりなんだけど、
さっきまでいた暗い空間じゃない、知っている部屋。
私が三年間、有機生命体に形を変えて過ごしたマンションの一室の、こじんまりした和室だった。
「朝倉涼子」
斜め後ろからかけられた声に、久々に扱う肉体がびくっと反応する。
振り向いて、いや、振り向かなくとも声の主は分かっているのだが、
「長門さん」
目の前には、元同僚、そして私を地上から葬り去った張本人である長門有希が、
蛍光灯の光にその無表情を照らされて、置物みたいに座っていた。
いったん頭を冷やして、状況を整理する—この過程がめんどくさいのよ。
いちいち思考しなきゃ何もとらえられないんだから。
そして、
「どういうこと?」
結局聞いてしまう。
なんだか前に生きてたときよりも能力が落ちてるような気がする。
「ここは私の部屋。あなたは私が今ここで再構築した」
どうりで。
見覚えのある部屋だと思った。間取りは一緒だものね。
私の考えをよそに、彼女は淡々と、私が質問する前に聞きたいことを的確に答えていく。
「情報統合思念体から許可は下りている。あなたは改めて、バックアップとして私の元で働くことになった」
よくそんな許可が下りたわね。
私がまた暴走する可能性は考慮に入れなかったわけ?
「能力を極端に低下させている。思考能力、運動能力ともに一般の女性以下。もちろん情報操作能力は無い」
それは、さっきから何となく感じてたわ。
まさかそこまで制限されてるとは思わなかったけど。
でも、それなら—
私の、一般の女性以下に成り果てた思考能力が疑問を抱く。
「どうやってバックアップの任務を果たすのよ?この程度の力で」
だって、どうしようもないじゃない。
今の私にはあなたが何を考えているかさえ分からない。
「炊事とか」
「へ?」
私はなんとも間抜けな声を出してその場に固まり、無表情な少女が説明を始めるのを待った。
「身の回りの世話。外出は厳禁」
そう言って、彼女はもう十分とばかりに口を閉ざした。
状況を理解できない私は、
「情報統合思念体も気まぐれなもんね」
苦し紛れにそんな風に呟いた。
「違う。私が、あなたが必要だと感じたから申請した」
彼女の顔は、見飽きたと言いたくなるような無表情だった。
その表情と言葉を頭の中で比べていると、自分の思考能力が低下しているのが改めて感じられた。
「私がその任務を受け入れたとして」
妙なプライドが、私に口を開かせる。
「能力が低下してるって言ったって、包丁持って涼宮ハルヒを襲うくらいはできるんじゃないの?暴走する可能性はゼロじゃない」
自分で言うのもなんだけどね。
長門さんは質問に答えることなくゆっくり立ち上がって、私との距離を一歩二歩と確実に縮める。
私の目の前までくると、見下ろすような視線で、
「大丈夫。鎖は準備してある」
「鎖?」
彼女はそのまま膝立ちの状態まで体を落とし、その過程で私の肩を強く掴んで、
疑問系の形で開いたままになっている私の口に噛み付くように自分の唇を重ねた。
乾いた、柔らかい感覚が唇を通して脳に伝わってくる。
あぁ、鎖ね。
確かに縛り付けられてしまいそう。
長門さん、なかなかロマンチックな冗談を言うようになったじゃないの。
好きよ。そういうの。
目を閉じようとしない彼女を抱き返しながら、私は実体を取り戻したんだと再認識した。
離れた唇に、まだ感触が残っている。
私は彼女をうっとり見上げていたんだろう。
彼女は無表情のまま口だけ動かして、
「この再構築に急進派は関わっていない。暴走する意味も無い」
抑揚の無い声で、念を押すみたいに呟いた。
「それは、なんとも現実的な鎖だこと」
大丈夫よ。
暴走どころか、外出もしないって約束するわ。
寂しいなんて感じないけど、こういうのも悪くないもの。
最終更新:2009年01月10日 10:51