豊国大明神

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豊国大明神 - (2010/12/07 (火) 23:21:14) の編集履歴(バックアップ)


        秀吉の死後、豊臣家の御奉行の一人、前田玄以の朝廷への奏上により、
        後陽成天皇が豊国大明神の神号を贈った。
        ここに醍醐寺の座主、義演が潅頂堂において豊国大明神のために
        理趣三昧の法楽を行い、阿弥陀ヶ峰に三十万坪の社地、
        一万石の知行地が寄進された。
        吉田兼見により、吉田神道の祭式で祀られる。
        当初、正一位という最高の神階を与えられる。
        徳川幕府が成立した後も、天下泰平を実現した秀吉の人気は高く、
        秀吉の七回忌にあたる慶長9年(1604年)、豊国大明神臨時御祭礼では、
        西国諸大名が馬揃えをし、京都の町組がそれぞれ意匠をこらして
        豊国神社にくりだし、空前絶後の大祭礼となったという。
        (そのありさまは「豊国祭礼図屏風」で今に残る)
         しかし大阪の陣で豊臣家が滅び、
        元和五年(1619年)、2代将軍徳川秀忠の上洛にともない
        豊国神社の社殿と神宮寺が破却される。
        その後も、阿弥陀ヶ峰山麓の神龍院に神体は移され、
        北政所ねねによって神号を鎮守大明神に改められる。
        明治6年(1873年)、現在の別格官幣社豊国神社として復活。

(以上、ISIS本座「バジラな神々」)