豊国大明神

    秀吉の死後、豊臣家の御奉行の一人、前田玄以の朝廷への奏上により、
    後陽成天皇が豊国大明神の神号を贈った。
    ここに醍醐寺の座主、義演が潅頂堂において豊国大明神のために
    理趣三昧の法楽を行い、阿弥陀ヶ峰に三十万坪の社地、
    一万石の知行地が寄進された。
    吉田兼見により、吉田神道の祭式で祀られる。

   兼見の弟の梵舜が任じられた。

    当初、正一位という最高の神階を与えられる。
    徳川幕府が成立した後も、天下泰平を実現した秀吉の人気は高く、
    秀吉の七回忌にあたる慶長9年(1604年)、豊国大明神臨時御祭礼では、
    西国諸大名が馬揃えをし、京都の町組がそれぞれ意匠をこらして
    豊国神社にくりだし、空前絶後の大祭礼となったという。
    (そのありさまは「豊国祭礼図屏風」で今に残る)
     しかし大阪の陣で豊臣家が滅び、
    元和五年(1619年)、2代将軍徳川秀忠の上洛にともない
    豊国神社の社殿と神宮寺が破却される。
    その後も、阿弥陀ヶ峰山麓の神龍院に神体は移され、
    北政所ねねによって神号を鎮守大明神に改められる。
    明治6年(1873年)、現在の別格官幣社豊国神社として復活。

  • 寺社境内に勧請された豊国社については、そのほとんどが豊臣秀頼の寺社復興事業の恩恵を受けた寺社であり、
   またそれら寺社の多くが豊国大明神の神号や神像、彫像を伝えており。
   これら寺社復興事業によって分祠を広げる政略の一端であったと見られる。

   参考
『天下人を祀る』滋賀県立安土城考古博物館図録
ISIS本座「バジラな神々」
最終更新:2012年06月24日 02:23