国友一貫斎

  • 近江国国友村出身の鉄砲鍛冶師。
   また、様々な発明や天文観測などを行うなどの事績を持つ知識人。

  • 本名は国友藤兵衛。幼名藤一。
   一貫斎の他、眠龍、能当などとも号した。

    1811年(文化八年)、彦根藩が国友村の年寄職を通さず一貫斎に仕事を依頼し問題となった
    彦根事件が発生、調停のため、1816年(文化十三年)江戸へ出る。
    1821年(文政四年)まで江戸に滞在し、当地の知識人たちと交流した。

   篤胤の門人を列挙した『誓詞帳』の記述を信じるなら、一貫斎は1820年(文政三年)、
   篤胤が天狗小僧寅吉と出会ったのとほぼ同時期と見られる。

  • また、一貫斎は、『仙境異聞』の中で、「国友能当」の名で寅吉への質問者として登場してもいる。
   一貫斎文書には「仙界武器ノ図」という名の図面も残されており、寅吉との問答が
   彼の発明のインスピレーションになっていた事も考えられる。
   一貫斎文書に残る篤胤からの書状によれば、一貫斎は寅吉の師匠である天狗、杉山僧正の肖像画を
   一両三分で買い上げている。

  • そして、1826年(文政九年)の篤胤書状によれば、寅吉(嘉津間)は国友村の
   一貫斎宅に立ち寄り、歓迎を受けたとする。


   本来師弟の間で密かに継承されていた火縄銃製作法を公開したもの。

  • また鍛冶たる者は砲術を習得すべきとして、「種子島流」、「荻野流」、「星山流」、「米山流」などを、
   また「自得流」棒火矢免許皆伝も得ていたという。

  • 空気圧によって弾丸を発射する空気銃、「気砲」の製作も行っている。
   元々1818年(文政元年)十月にオランダ製の空気銃の修理を依頼され完遂、
   のちに性能を向上させた自作の気砲を生産、丹波峰山藩主京極高備に納入したと云々。

  • またこの際、銃身に空気を込め、その重さを計測していた様子が残された文書から判明しており、
   当時の日本人としては異例な事に、空気に重さがある事を把握していたと思われる。


  • 1833年(天保四年)、国産初のグレゴリー型反射望遠鏡を作成。
   これを用いて太陽系の惑星や月面などの天文観測を行った。
   特に、1835年一月六日から翌年二月八日までの間、
   日本人で初めて太陽黒点の連続観測を行っている

  • 一貫斎の天文観測は『日月星業試留』として残されている。
   その中に、土星の観測結果として、その衛星(一貫斎は付星と記述した)タイタンの図と記述がある。
   江戸時代にタイタンを観測したという記録は、一貫斎のもの以外日本では知られていないと云々。

  • 1840年(天保十一年)十二月三日、63歳で死去。



    参考
『江戸時代の科学技術』長浜市長浜城歴史博物館



最終更新:2012年07月06日 02:48