文覚が後白河法皇の御所である法住寺に参上し、その場で放言したため
絡め取られ検非違使に引き渡された、という記事が載る。
- 文覚が伊豆へ流される際、その身は源頼政に預けられ、のち頼政の郎等である
源省によって伊豆へ護送されたことが『文覚四十五箇条起請文』に載る。
流罪に処されたとする(『明月記』『百錬抄』)。
『百錬抄』は配流先を
佐渡島としている。
- また、『鎌倉大日記』『神護寺文書』『元享釈書』では、1202年(建仁二年)十二月二十五日に
佐渡から召還、その後
1205年(元久二年)鎮西に流されたと記す。
- 『明恵上人行状記』では、1204年(元久元年)対馬に配流され、同年七月に日向で没、と記す。
- 『平家物語』では隠岐に流されたとし、その命を下した後鳥羽天皇に文覚が呪詛の言葉を吐き、
のち後鳥羽上皇が
承久の乱により隠岐に流された事件と結びつけて語っていると云々。
源渡の妻、袈裟御前に横恋慕した遠藤盛遠(もりとお)に対し、一計を案じた袈裟御前が、
酒で寝付かせた渡の首を切れと盛遠を唆し、自分の首を切らせた。
この件で源渡が出家、それを見た盛遠も出家した。この盛遠が後の文覚上人であるという。
- 京都市伏見区下鳥羽の利剣山恋塚寺に、文覚が建立した袈裟の首塚「恋塚」がある。
- 岐阜県恵那市加子母の小郷という山里に、文覚上人の墓をナメクジが這いまわるという
奇祭「なめくじまつり」がある。
ナメクジは袈裟御前の霊で、色白で首のあたりに刀痕らしい黒い斑があり、
文覚の罪を許して慕い寄るのだという。
- 文覚上人の墓所と呼ばれる場所は、神護寺のほか、佐渡、隠岐、対馬、高遠(長野県)などにある。
- 源頼朝挙兵の際、文覚上人の勧めで遠藤渡辺氏は頼朝の軍勢につき、
幕府成立後は西国出身の御家人ながら東国御家人なみの待遇を得た。
一方、承久の乱で、源姓渡辺氏は京方に味方していたため、
保持していた渡辺惣官職(大荘園の管理職)を没収され、
渡辺党内での主流が入れ替わっていた。
(zsphereコメント:上記『源平盛衰記』の文覚の逸話も、
こういった
渡辺党の事情が影響しているか)
参考文献
『平家物語(五)』
『平家物語(十二)』
『酒呑童子の誕生』高橋昌明
『魔界と妖界の日本史』上島敏昭
最終更新:2014年09月23日 17:06