- 文献初出は『日本紀略』長徳四年(998年)九月十四日記事に
「
大宰府言上す、貴駕島に南蛮を捕え進むるの由を下知す」とある、「貴駕島」とあるのがそれであると
考えられている。
同書の翌年、長保元年(
999年)八月十九日に南蛮追討に成功した旨の記事もある。
同品の出土地南限を、九州北部から大幅に押し下げた。
この島で12世紀頃に製鉄を行っていたことが判明して大きな話題となる。
- 島内(城久遺跡群)からは原料となる砂鉄も見つかっている。喜界島自体は平坦な隆起サンゴ礁によってできた島であり
砂鉄は産しないため、どこか別の場所から運ばれたと見られるが、産出地は現在まだ解明されていないという。
- 一方、島中央部に位置する城久遺跡群(ぐすくいせきぐん)の中にある大ウフ遺跡では、
製鉄や鍛冶関連の遺構が20基ほど集中して見つかっている。
同遺構の焼土跡の分析から、外径15~16cmほどの小規模な製鉄炉と見られる遺構が見つかっている。
同時代の西日本の製鉄炉は四角い箱型のもので、喜界島で見つかった円筒型の炉は
有明海沿岸の炉の特徴であると言い、影響関係が見られるといわれる。
参考文献
日本経済新聞2015年8月3日記事
最終更新:2015年08月03日 15:08