小田野直武

  • 秋田藩角館給人。

  • 1749年(寛延二年)、秋田藩支藩角館城槍術指南役の小田野平七の次男として生まれる。
   が、長兄が早世したため、当初は後継ぎと目されていた。

  • 幼少より絵画に優れ、8~9歳頃に「釋迦涅槃像図」や「摩利支天像図」を、12歳で「神農図」を描くなどしたという。

   名指しで依頼されるなど、地元では絵画の才で著名だったとか。

   宿としていた御用達商人五井屋孫左衛門宅の客間で直武の屏風絵「紅葉狩図」を見て驚き、
   源内の意向により直武との会見となった。この時源内45歳、直武24歳という。

  • 安永三年(1774年)八月発行の『解体新書』の挿絵(原書の解剖図の模写)を担当した。
   直武が杉田玄白と顔を合わせた同年正月から、絵図完成まで半年ほどしか無かったと思われる。

    その後、藩主に重用され御側小姓並となる。

  • 1778年(安永七年)十月、藩主側近として再び江戸へ。

  • 1779年(安永八年)十一月、家臣の反感を買ったため、藩主より遠慮謹慎を命ぜられ帰郷。
      (zsphereコメント:ちなみに、この謹慎命令が出た時期、平賀源内が刃傷事件を起こした日とかなり近いようだ。
                  今のところ根拠は何もないけど、なーんか勘繰りたくなるのですw)

  • 1780年(安永九年)五月、31歳で死去。藩主からの赦免状が届く一日前だったという。



      参考文献

『解体新書の謎』大城孟


最終更新:2013年10月10日 04:55