平賀源内

    →平賀源内関連年表

  • 1728年(享保十三年)に生まれる。幼名を四万吉(よもきち)、伝次郎、嘉次郎といい、
   名を国倫(くにとも)という。源内・元内は通称。

  • 源内の生地は高松藩志度。四国八十八か所札所の八十六番志度寺が所在する。

  • 父の白石茂左衛門は足軽身分、切米三石。役職はお米蔵番という。

  • 兄妹は多かったが育ったのは源内と妹の里与だけ。妹の里与とは十五歳の歳の開きがあったとか。

  • 十二歳の時、「おみき天神」という掛け軸を作ったエピソードがある。
   裏側に紐があり、誰かがお神酒を献じた際に引くと背面の紅紙が位置を変えて天神が顔を赤らめる仕組み。
(zsphereコメント:実に源内らしい、才気煥発な悪戯心だこと。)

   また黄山の元で共に学んだ門人の父で、陶芸家の三好官兵衛宅に長期滞在し、陶芸技術も学んだ。
   特に陶土の良否鑑定を教わったという。

  • 1749年、21歳の時に父を亡くし、蔵番職を継ぐ。この際、信濃源氏平賀源心の家名を再興するため
   それまでの白石姓を改め平賀姓とする。


   藩の菜園にて朝鮮人参の栽培にあたるようになる。


   その際、大坂にて旧知の薬学者戸田旭山に紹介状をもらい、それを元に江戸の本草学者田村元雄に弟子入り。
   元雄の口利きにより、湯島聖堂に住まう事になる。


  • 大田南畝『一話一言』などに、平賀源内が金唐革を加工改良して売り出し、
   高級品だった金唐革を江戸の流行品に仕立てた旨の記述が載る。


  • 直接源内と面識があったという鳥海孝文の『平賀源内小伝』に、上記金唐革の事にくわえ、
   源内が女嫌いで、独身であった旨が回想記事として書かれている由。

  • 1760年、高松藩の命により相模湾、および紀州海岸での魚介類調査を依頼されている。
   その際に報告書として提出された『衆鱗図』は香川県歴史博物館に現存。
(zsphereコメント:ちなみにこの『衆鱗図』は顔料を盛り上げて立体感を出すといった工夫がされており、
            荒俣宏氏も「知られざる大傑作」と評したとか。
            荒俣氏にそうまで言わせる源内の博物学図譜作成能力、大したものである)


  • 1761年、湯島聖堂から神田白壁町へ引っ越している。
      同地域には浮世絵師鈴木春信が住んでおり、源内とさかんに交流するようになり、
      のちに絵暦のデザインなどで共に活動をするようになったという。
      また、神田白壁町は、オランダ商館長が江戸へ参府した際の定宿「長崎屋」まで歩いて五分。
      この白壁町の源内宅は、1772年の火災(目黒行人坂が火元)により焼失している。

  • 同じく1761年の秋、伊豆の農民鎮惣七より伊豆の物産調査の依頼。家僕を派遣したところ、
   送られてきた産物の中に芒硝を発見。師の田村元雄と共に幕府に献じ、
   のちに勘定奉行より「伊豆芒消御用」の辞令を受ける。源内が幕府から直接雇われたのはこれが最初で最後。


  • 東都薬品会での出品を見たのを契機に、1764年より秩父両神山にて石綿を採集、
   それで布を織り火浣布(数センチ四方のもの)を完成させ、同時に『火浣布略説』を
   協力者の中島利兵衛中島利右衛門名義で発表。
   ただし、同書中に、オランダ人の「火浣布は現在ではオランダには無く、トルコで昔作っていたが
   現在では技術が失われている」という証言を載せているが、
   後日桂川甫周は別なオランダ人にハンカチ大の火浣布を見せられており、
   源内のものより上質な出来だった由。こうした事から『火浣布略説』は当時の本草学者、蘭学者の
   非難の的になっていたらしいことが中島兄弟の書簡などからうかがえると云々。

  • その後、秩父では鉄の鉱床を発見しそちらの開発に力を注いだ。
   ただし、鉄鉱石からの鉄の鋳造は従来のたたら製鉄法では温度が足りず、失敗した模様。
(この件につき、『平賀源内を歩く』の奥村正二氏は、源内が『物類品隲』執筆の際に参考にしたはずの
   中国『天工開物』に、鉄鋼製から鋳鉄を作るためのパドル法について図入りの記載があり、
   源内はこれを見落としていたのではないか旨の指摘をしている。如何。)

  • 1768年(明和五年)、以前長崎屋で見せられた温度計を再現・製作し友人たちに配る。
                 温度計(源内は寒熱計と呼んでいる)の中身は普通水銀かアルコールだが、
                 源内は案内書に「水銀」と書かずに「薬液」と書いているうえ、
                 アルコールの方がガラス管に封じる作業も楽であるため、
                 恐らくはアルコールを用いているのではないか、とのこと。


  • 1770年十月、「オランダ翻訳御用」の名目で長崎へ出立する。
    田沼意次の抜擢によるものと言われるが、源内はさほどオランダ語が堪能でなく、
    また途中で旅費の無心をしたり、借金をしていた秩父の材木商に「オランダで良い金儲けの口があれば連絡する」旨の
    手紙を書いていたり、帰路大阪に長期滞在してオランダ商品の売買について調べたりしており、
    どういった事情で派遣されたのか皆目不明とかなんとか。
    1772年、江戸へ帰参。

  • 1773年(安永二年)秋田藩に請われ、六月に鉱山技術教授のため江戸を出立。
                七月に秋田藩に到着、宿とした商人の家にて、小田野直武の屏風絵を見て驚き、
                源内の意向により直武との面会が成立する。


  • 1778年(安永七年)(推定)、源内が面倒を見ていた弥七という職人が同業の細工職人と組んで
   エレキテルの偽物を制作して売り払い、これに対して源内が奉行所に訴状を提出するという事件が起こっている。
   発明者無視の侵害訴訟(事実上の特許訴訟?)として日本第一号と言えるという。
   ただし、裁きがくだるより先に源内が死亡したため、判例を残さなかったという。
(zsphereコメント:日本史上はじめての特許訴訟(?)もしていたとか、源内先生本当ネタに事欠かない人だなぁw)


  • 戯作方面の弟子に森島中良がいる。中良は二世風来山人、二世福内鬼外を名乗ったほか、
   源内の死後は遺作をまとめた『風来六部集』(1780年《安永九年》刊行)なども編集出版している。

   日本国内での亜鉛鉱石の発見はこれが初だという。
(ただし、これは日本伸銅協会が1967年に発行した『伸銅工業史』に記載されている話で、
   情報ソースは文書史料が存在せず、この分野に通暁した古老の口伝だったとのこと。
   現状、信憑性を検証する手立てはない)

  • 安永八年十二月十八日(西暦では1780年1月24日)、伝馬町の牢内にて、破傷風により獄中死。


  • 源内没後しばらく経った1788年(天明八年)、源内の評伝『平賀実記』が成立。
   その中に、源内が飛行船を発明した、という逸話が載る(無論、現実にはそのような事実はない)


      参考文献
『江戸の想像力』田中優子
『江戸の文人サロン』揖斐高
『平賀源内を歩く』奥村正二
解体新書の謎』大城孟



最終更新:2013年11月24日 04:45