八咫鏡

  • 別名、真経津鏡(まふつのかがみ)

  • 天岩戸神話の際に、天香具山の真坂樹の中枚にかけられる。
   岩波文庫版『日本書紀』注釈では、「咫」は現代の16cm弱にあたる、とする。

  • 卜部兼方『釈日本紀』では、「咫」を八寸(約24cm)とし、八咫を六四寸と計算した。
   そして、これを鏡の直径ではなく円周の長さと見て計算、結果として直径二尺一寸三分(約64cm)を得たという。


  • 804年(延暦二十三年)の奥書のある『皇太神宮儀式帳』や、十世紀成立の『延喜式』に、
   八咫鏡を収めているとされる内容器(御樋代(みひしろ))の直径を一尺六寸三分(約49cm)としており、
   鏡の直径もこれに近いと推定するならば、考古遺跡から出土する鏡に比しても極めて大きい。

  • ただし、福岡県平原遺跡にある方形周溝墓から、直径46.5cmの内行花文鏡が出土しており、
   上記のようなサイズの鏡というのもまるきりあり得ないわけではない。


  • 文様については、伊勢神道の基本文献『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』(略して『御鎮座伝記』)に、
   「八頭花崎八葉形也」の記述がある。


  • 『古今著聞集』巻第一神祇、『平家物語』巻第十一「鏡」の段では、
   960年(天徳四年)に発生し内裏を焼亡させた火事の際、
   神鏡自らが飛び出て南殿(紫宸殿)の桜にかかったという記事が載る。
   またそれを、小野宮殿(藤原実頼)が袖で受け止めたという。
  • ただし『扶桑略記』の同火災に関する記事にはこの事は見えず、ただ重光朝臣が焼け跡より見出した、と記している。
   なお『愚管抄』では、双方の逸話を紹介しているとのこと。



      参考文献
『日本書紀(一)』岩波文庫
『日本神話の考古学』森浩一
『平家物語(十一)』


最終更新:2014年09月23日 04:10