- 光孝天皇の第七皇子。一時、源氏を賜姓され臣籍降下し源定省(さだみ)と称したが、
関白
藤原基経の推挙により、光孝天皇崩御の日仁和三年(
887年)八月二十六日に
立太子、ついで践祚、即位した。
- 毎朝の神拝、一代一度の大神宝使の発遣、賀茂臨時祭、伊勢公卿勅使の発遣などの
新しい神道祭祀制を創始したとされる。
『
周易』を学ばれ、同三年(
891年)六月に業を了えられたという。
京都東山御文庫には天皇宸筆の『周易抄』(『周易』の経注より必要な字句を抽出したメモ)が残る。
譲位後に住んだ屋敷の名から、亭子院と呼ばれた。また、寛平法皇と呼称される場合もある。
- また、『大和物語』巻上に、宇多天皇が譲位の際、歌人の伊勢と歌の贈答があったという記事が載る。
- 『古事談』第一、『江談抄』第三、『今昔物語集』巻二十七、『宇治拾遺物語』巻十二、『古本説話集』巻上などに、
譲位後の宇多天皇が
河原院にて
源融の霊と遭遇した話が記されている。
- 899年(昌泰二年)出家。法名は空理。後に金剛覚と改めた。
参考文献
『日本神道史』岡田壮司
『日本陰陽道史総説』村山修一
『日本伝奇伝説大事典』
最終更新:2014年04月13日 03:13