熱田神宮

   『尾張国風土記』逸文では、ヤマトタケルが宮簀媛のもとに泊まられた際、
   夜に厠に立たれ剣を桑の木に提げたまま御殿に戻ってしまい、取りに戻ると、剣が光り輝いて取れなかった。
   そこで媛に「この剣は神気があるから、斎き奉って我が形影とせよ」と述べたため、これを祀って熱田神宮としたという。
(zsphereコメント:意外にうっかりさんであるw)


   11世紀になり、子孫である尾張員職(かずとも)は夢告により当時の尾張目代だった
   藤原季兼(すえかね)を婿養子に迎え、生まれた子供である藤原季範に1114年(永久二年)、
   大宮司を継がせる。
   さらにその長男が藤原範信で、その娘由良御前源義家の妻となり、
   源頼朝を産んだという。



  • 柳田國男は『一目小僧その他』所収「橋姫」の中で、「名古屋市史」を引いて、
   熱田神宮では「楊貴妃」の謡を決してうたわなかったといい、
   その理由は「以前この境内を蓬莱宮と称し、唐の楊貴妃の墳があるという
   妙な話があったため」と説明している。
(zsphereコメント:既に『妄想かもしれなかった日本の歴史』で読んで知っていたトンデモ話だけど、
             柳田先生の著書で読むとまた感慨もひとしおであるw )


      参考文献



バジラな神々 第8柱・第9柱-7
最終更新:2013年12月22日 04:55