- 富士山の噴火活動の文献初出は、781年(天応元年)、『続日本紀』の記述による。
- 富士山のマグマはケイ酸含有率が少なく、したがって粘りけが少なく、
溶岩ドームを形成したり、それが高圧になって大爆発を起こしたり、
火砕流を発生させることが少ないと見られる。
流動性の高い溶岩流などが起きやすい性質の山である。
(ただし、火山活動の休止期間が長い場合、地下のマグマ溜りで
ケイ酸含有率が高いマグマが上方に集まり、次の噴火の際に
真っ先に噴き出す場合がある。その場合、一時的にケイ酸含有率の高い火山と
同じ現象が起こる。宝永の大噴火などもこのケース)
- 最後にあった噴火は、1707年(宝永四年)の大噴火。
- 864年(貞観六年)、北方斜面が噴火。そのときは火山灰はさほど活発ではなく、
多量の溶岩が噴出して「せの海」が西湖と精進湖に分断された。
- 富士山の、日本の文献から確認できる大規模な噴火はこの2回で、
他は小規模なものに終始したとみられる。
駿河国を通っており、以下の記述をしている。
「富士の山はこの国なり、(中略)山のいただきのすこしたひらぎたるより、
煙は立ちのぼる。夕暮れは火のもえたつも見ゆ」
煙のほか、日没後には噴火の炎が観察されたことがわかる。
- 『拾遺和歌集』に、柿本人麻呂の歌として以下がある。
ちはやふる神もおもひのあればこそ としへてふじの山ももゆらめ
ここから、人麻呂が活躍した時代にも富士の噴煙のあがっていた事が確認される。
「これより北には越の国 夏冬ともなき雪ぞ降る
駿河国なる富士の高嶺にこそ 夜昼ともなく煙(けぶり)立て」
がある。
「人知れぬ 思ひをつねに 駿河なる 富士の山こそわが身なりけれ」
がある。(「思ひをする」と「駿河」の掛け言葉)
こうした歌からも、この時代に富士山と恋とが重ね合わされていた事が知られる。
「この山は月氏七島の第三なり、而に天竺列擲三年に
わが朝に飛来る。故に新山と云う。本は般若山と号し、
その形蓮華に合似たりて、頂上八葉なり」とある。
またこれに続けて竹取説話が載る →
かぐや姫
- 富士山が生成された際、同時に琵琶湖が生まれたとする説が中世から近世にかけて語られていた。
北畠親房『職原鈔』の他、『和漢三才図会』にも記述がある。
また、ダイダラボッチ系の伝説のひとつ、伊吹弥三郎の伝説でも、
弥三郎が富士山を作る際、土を担ぎ出した結果生まれたのが琵琶湖だ、とするものがある。
参考文献
『かぐや姫の光と影』梅山秀幸
『富士山の噴火』つじよしのぶ
『富士山の祭神論』竹谷靭負
『日本伝奇伝説大事典』
『新編日本古典文学全集 神楽歌・
催馬楽・梁塵秘抄・閑吟集』
最終更新:2015年06月20日 04:14