石上神宮


  • 『延喜式』には「石上坐布都御魂(いそのかみにいますふつのみたま)神社」と記載される。
   また、中近世には「布留社」「布留明神」とも呼ばれた。
   「石上神宮」が正式名称となったのは明治十六年。

  • 古来、本殿は無く、主な祭神は禁足地の地下に祀られていた。
   明治七年、この禁足地の土盛を掘り返したところ前期古墳の出土品に相当するものが発見され、
   そのうち鉄剣を神体として、大正二年に本殿が新しく創建された。

   『古語拾遺』ではヤマタノオロチを斬った天十握剣「天羽斬」(あめのははきり)が
   伝わるとされる。

  それを石上神宮に納め、同時に神宮の神宝を管理するようになった、とする記事が載る。

  • 続いて垂仁天皇八十七年、、イリシキイリヒコが妹の大中姫(おおなかつひめ)に、
   「自分は年を取ったので神宝を管理することができない、これからはあなたに管理をまかせよう」
   と述べ、姫が力の弱い女人である事を理由に辞退を申し出ると、兄は
   「神庫は高いけれど、そこへ登るための梯をつくろう」と言った、という記事がある。
   以降、大中姫は物部連に神庫の直接の管理をさせるようになったと云々。

   鉄製内反素環頭大刀が出土している。
(神話上の刀のイメージに、実在の鉄剣が関わっている事が推測される。)


  • 『日本後紀』延暦二十三年(804年)条に、平安遷都にともなってこの神社に保管する武器類を
   京都に運ばせたところ、十五万七千人の労力が必要だった、という記事がある。
(つまり、それほどの武器を貯蔵した、武器庫の性格を備えた場所であったと見られる)


  • 『源平盛衰記』に、この祭神の中世の呼び名「布留明神」の由来譚が載る。
   すなわち布留川の上流より一振りの剣が流れ下って来て、その刃に突き当たるものは石も木もみな
   伐り砕かれた。その下流で下女が布を洗っていたところ、剣が布の中に留まった。
   そこでこの剣を神と奉り布留大明神としたと云々。


      参考文献
『日本神道史』岡田壮司
『日本神話の考古学』森浩一
『日本伝奇伝説大事典』


最終更新:2014年02月28日 21:20