PCを目出度くお釈迦にすることにしました。

 発端はなんだっていったら、恐らく、あるいは間違いなく、自分でいじくってしまったからなのでしょうが、まあそれもまたスペックが面白くなくなってきたのが元々の発端であったので、買い換えの結果となったのも悪くない結果でありましょう。などと、無理からプラス思考にしなくても良いのですが。何しろ、いままで働いてきたPCとサヨナラすることになるです。

 今までお疲れ様、と申し上げるべきでしょうか。そうして擬人化するのも感傷的ではありますが、はて、PCに魂が宿るとしたら、それは何処なのでしょうか。

 PCが生き物であったとして、それが病気、つまり故障となった場合、その治療は移植手術となるでしょう。メモリやHDD、ビデオカードなどなど入れ替える。あるいは、マザーボードの交換も時には必要となりましょう。

 さて、もしPCが生き物であり、その心臓部であるマザーボードまでも入れ替えて、はたしてそれが元のPCと「同一人物」であると、はたしてそう言えるのでしょうか。

 こういう発想はいろいろなSF作品からの影響なのですが、一番大きいのは漫画の「銃夢」でありましょう。ネタバレとなりますが、そこに登場する博士は政府?の施策として、脳みそがCPUチップに置き換えられてしまった人物です。果たして、それは「本人」といえるのだろうか、と難しい解題が登場しておりました。その漫画はいったんは完結したものの、途中から枝分かれして新シリーズとしてまだ続いている――はず。(雑誌の連載はどうなってるのか追いかけて無いのですが)

 それじゃPCの本質、魂は何処に? ということになります。普通に考えれば、脳みそ、つまりCPUなのかもしれませんが、擬人化した生物であると考えた場合、違う答えになると想います。こういうことは、自分自身がPCであり、自分の本質はなんだろう、と考えれば答えが見つかるかも知れません。

 私は「記憶」だと、とりあえず考えます。同じ意見の人もいるでしょう。それは、例え同じ肉体、同じ脳みそであっても、記憶が違えば、それから形成される人格も異なるものとなりましょう。個人の性格はこれまでの経験に基づいているからだと思うのです。

 じゃ、「記憶」が同一なら、同一人物? かというと、そうでもないでしょう。これは、アーノルド・シュワルツェネッガー氏の映画にもありましたが、例え記憶を完全にコピーしたとしても、あくまでも別の個体であり、別の人物に他ならないから。先程の「銃夢」でも同じテーマがあります。通常は脳みそ以外の部位を機械に置き換えるサイボーグが一般的ですが、脳みそまで機械化したら、それはもう別人だろう、と。

 それじゃ、本人なるものはなんだろうか、と考えると、「今現在、生きている記憶」という微妙なポイントがそうなのかな、と。「自分の記憶を見ている自分」とでも言うべきでしょうか。って言ってて、自分でも今ひとつシャキッとしない定義づけではありますが。

 で、PCについてですが、CPUは思考回路であり、記憶の置き場所では無い。メモリは一時記憶。HDDは記憶の置き場所ではありますが、先程からの話に基づき、記憶のコピーは別人格。それじゃ、何がPCの魂なのか、というと――あえていうなら、現在稼働しているOS上のタスクとか、そういうものになるのでしょうか。そして、電源を入れれば生まれ、電源を切れば死に往く魂である、と。

 そう考えるとPCがあまりに悲しい存在になってしまいます。こうしたテーマ、似たり寄ったりの設定でお話を考えてみたりします。例えば、マスターが起動して生まれた初音ミクさんが、先代のミクさんの書き置きを見てお仕事開始、そして、跡継ぎのために書き置きを残してお亡くなりに……。ちょっと、これは悲しい物語になってしまいますね。

 今現在のところは、「壊れたPCにどうやってお疲れさんというべきなのか」という当初の主題を解消するべきでありましょう。それに対して、電源切ったら死ぬ、などという結論はあまりにも役に立ちません。

 まあ、シンプルに「記憶」と考えるのが一番でしょう。何故なら、故障PCのHDDから最新データを救出してノートPCに避難、そして新しい体(PC)を買うまで、そこで頑張っててね、と何者も死ぬこと無く、明るい未来を期待できるから。

(了)



最終更新:2011年08月07日 08:21