タイガーマスク(プロレスラー)

登録日:2020/04/14 Tue 18:14:43
更新日:2024/04/05 Fri 18:06:22
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『タイガーマスク(Tiger Mask)』は、日本の覆面プロレスラー。
通称を“黄金の虎”とも称される、日本の覆面レスラーの代名詞的存在である。



【概要】

劇画『タイガーマスク』(正確には、後述の様に『タイガーマスク二世』)を元にしたタイアップレスラーであるが、初代以降は“タイガーマスクという現実のプロレスラー”のキャラクターを引き継いだ覆面レスラーという扱いである。
現在までに、公式では4代目(タイガーマスクⅣ)までが登場しているが、総合格闘技でも活躍したミノワマン(美濃羽育久)が5代目を名乗って、初代とタッグ結成をしたことがある。(今後、正式に5代目に相当するタイガーマスクが生まれた場合、どういう扱いとなるのかは不明。)

現役である4代目以外の前任者達については正体が公表されており、
順に、佐山聡(初代)、三沢光晴(2代目)、金本浩二(3代目)が正体である。
彼等は、素顔でも各々に一時代を築き上げたトップスター達であるが、後述の様に4代目以外のタイガー達は、実際の活動期間が短かった。

また、正式に名前と虎の仮面を継いだ歴代タイガー以外にも公式、非公式を問わずパロディや亜種とも呼ぶべきキャラが存在することでも知られており、直近では◯伏幸◯が変身したタイガーマスクWが有名である。


●目次

【歴代タイガーマスクについて】

『タイガーマスク』と云えば、未だ黎明期にあった日本プロレス界を舞台に、架空の覆面プロレスラー“タイガーマスク”と、虎の穴の刺客の死闘を描いた、梶原一騎原作の人気漫画、そしてアニメである。

『タイガーマスク二世』は、それから約10年を経て連載を開始された、同じく梶原一騎原作の公式の続編であり、連載開始から約一年後にはテレビ朝日(以下、テレ朝)系列で此方もアニメ化されることとなり、それに合わせてテレ朝がスポンサーに付いていた新日本プロレスにて、タイアップレスラーとなる現実の“タイガーマスク”が誕生することになった。

……つまり、現実世界に現れた“初代”タイガーマスクは、実は『タイガーマスク二世』のタイアップキャラクターである……という、事情を知らない人間にはやや難解なバックボーンを持つ。

こうして誕生した初代タイガーマスクは、当時の時点で色々とツッコミを食らった準備不足感が見え見えの状況の中での慌ただしいデビュー(変身)であったが、中身となった佐山聡の余りの天才ぶりに瞬く間にスターの座へと駆け上がった。
詳細については後述するが、この佐山タイガーの綺羅星の如く活躍こそが、以降の歴代タイガーの誕生の礎となったのである。

尚、誕生の経緯から基本的に新日本プロレスとの関わりの深いタイガーだが、2代目の三沢タイガーのみは全日本プロレスで誕生している。
因みに、初代の直弟子に当たる4代目タイガーも、元々はみちのくプロレスで誕生したのが、後に新日本プロレスへと移籍したというパターンであった。


以下に、歴代タイガーの主に“タイガーマスクとしての活躍”の略歴を記していく。


【初代】

活動期間:1981年4月23日~1983年8月10日*1

正体は、競技として纏められた総合格闘技の原型の一つである、シューティング(修斗)の創始者としても知られる佐山聡。

山口県出身の佐山は、小学校時代より当時の伝説的なキック王者沢村忠の影響で格闘技を志し、柔道やレスリングを学んでいた。
1975年に新日本プロレスに入門。
プロレスラーとしては体格に恵まれていなかったが、当時の新日本プロレスの首脳陣の一人である新間寿に買われて特別に入門を許され、当初は佐山の体格を馬鹿にしていた猪木も、佐山の練習熱心さと才能を認めると自分の付き人とした。

1977年11月14日には、佐山のその後の運命を示唆するような、梶原一騎主宰の『格闘技大戦争』に新日本プロレス代表として出場。
そこで、全米プロ空手ミドル級1位の猛者マーク・コステロと戦い、K.O.こそ免れたものの6Rをほぼ一方的に攻められ惨敗する。
当時、キックの名門として知られた目白ジムで打撃トレーニングを積んでから試合に望んだ佐山だったが、矢張りプロレスラーでありながら寝技を禁止されたルールで、投げ技は許されていたものの、ボクシンググローブでは満足にクラッチも組めない、そもそも打撃では相手に一日の長がある上にリーチも向こうが上……と、後に天才の名を欲しいがままにする佐山にとっても不利な条件での試合であった。*2

この時の悔しさをバネに佐山はリアル格闘技路線に傾倒していった……とされることもあるものの、実際には前述の様に佐山のリアル志向はプロレス入りする以前からのものであり、実際に当時のプロレスでは常識外であった打撃の練習等も密かに行っていたことを買われての抜擢であったらしい。

翌1978年より、佐山は新人ながらも大抜擢を受けてメキシコEMLLに遠征し、最初は慣れない環境で激ヤセしてしまう等の苦労もするも、現地ではNWAミドル王座を獲得する等、トップスターの仲間入りを果たす。
タイガー時代に披露された本場メキシコ流のアクロバティックな大技は、この時代に習得したものであり、佐山はメキシコで天性の運動能力を開花させることになる。

その後、フロリダのカール・ゴッチ道場を経由して、1980年にはイギリス入り。
当地では東洋人であることと、日本時代から磨かれた鋭いキックを会得していた佐山は、かのブルース・リーの従弟というギミックを与えられ“サミー・リー”を名乗って活動を開始。
当地では“キャッチ・アズ・キャッチ・キャン”として知られる伝統のランカシャースタイルを学びつつもトップスターとしても活躍し、東洋人ながら完全なベビーフェースとして熱狂的な指示を集めた。

因みに、この当時から素顔であるという違いはあれど、後の“タイガーマスク”と殆ど同じスタイルを完成させている。
この頃から、既に後にタイガー・スープレックスと呼ばれることになる投げ技を初めとした数々のオリジナルホールドも生み出していたのだが、この当時の主なフィニッシャーは、メキシコから持ち帰った風車式バックブリーカーであった。

そして、1981年にタイガーマスクとなる為に緊急帰国することとなったらしいのだが、この当時の事情については現在でも諸説が入り交じっている。

新間の証言によれば、佐山の帰国に際してイギリスでの税金未払いが発覚し、帰国させる為に当時の総理大臣である福田赳夫の助力を得たという。

こうして、1981年4月23日の蔵前国技館に於けるダイナマイト・キッド戦でデビュー。
この時に用意されていたコスチュームは、急な決定だったのかスタッフがうっかりと発注を忘れていたことで急拵えで揃えられた粗悪な代物で、佐山は勿論、対戦相手のキッドも“最悪”と語っている。

この評価は観客にとっても同じであり、当時のプロレスは現在よりも“リアルな格闘技”というイメージを持たれていた時代なこともあってか、謂わば“出来の悪いコスプレ”で入場してきた佐山に、客席からは歓声よりも失笑や戸惑いの声が浴びせられという。

……しかし、生憎と現地では活動時期がずれたものの、佐山が直前まで修行していたイギリス出身で、同じくランカシャースタイルの猛者であるキッドと佐山は見事に噛み合い、初対決ながらスピーディーで息も吐かせぬ攻防を展開。
その間に挟まれた佐山=タイガーのアクロバティックな大技も観客のどよめきを誘い、瞬く間に会場は熱狂の坩堝と化した。
最後は、キッドがエプロンのタイガーをブレーンバスターで強引に引っこ抜いた所を体を反転して背後に着地したタイガーが、身体を縦に伸ばしてから決める超急角度のジャーマンで抑え込んで勝利。

以降、両者は終生のライバルの一人として互いを認め合うようになり、数々の名勝負を生み出していくこととなった。
こうして衝撃的なデビューを飾り、試合後には試合前のネガティブな声を完全に払拭して大熱狂を呼び込んだタイガー=佐山は日本に定着すると共に、新たなる新日本プロレスの看板スターとなる。
佐山タイガーの驚異的なスピードと、ゴム毬の様に縦横無尽にリング内外を跳ねまくるスタイルは“四次元殺法”と称された他に類を見ないプロレスであり、登場から30年以上を経ても色褪せることが無い。

その人気は、ベテランの域に達したとはいえ、まだまだ絶対的なエースとして君臨していた猪木をも凌ぐ程で、当時の新日本プロレス中継は平均で25%を越える視聴率を稼ぎ出したと言われる。

そして、新日はタイガーの対戦相手とするべく、佐山のバックボーンでもあるイギリスとメキシコからライト(Jr.ヘビー)級の猛者を多数招聘。
この時期のタイガーのライバルとしては、前述のキッドの他、ブラック・タイガー(初代)や、先輩の小林邦昭、忘れ得ぬ強敵としては、スティーブ・ライトやピート・ロバーツ等の名前が挙げられる。
“暗闇の虎”のキャッチフレーズで登場した初代ブラック・タイガーの正体は、イギリスでもライバル関係にあった“ローラーボール”マーク・ロコであり、キッドと並ぶライバルとして知られると共に、タイガーと同じく、マスクを引き継いだ選手が登場している。
また、この当時には若手であったが、後の90年代前半を象徴するWWF王者ブレット・ハートとも対戦していたりする。

タイガーは体格的にはJr.であったが、人気の高さから猪木や藤波と組んで、当時のヘビー級のトップスターとも対戦、1981年には当時のメキシコ出身レスラーとしては例外的にヘビー級の体格を誇ったエル・カネックとも対決している。

1982年にはWWF(現WWE)、NWAの両Jr.ヘビー級王座を史上初めて統一しており、WWFの本拠地であるマディソン・スクエア・ガーデンを皮切りに海外遠征を実現させ、此所でも観客の度肝を抜いた。
米国ではJr.ヘビー級王座の防衛の他、ヘビー級のトップ戦線の選手からも勝利を奪う等の破格の扱いを受けている。

こうして、デビューから破竹の勢いでスター街道を邁進すると共に数々の偉業を成し遂げたタイガーマスクであったが、1983年8月10日に唐突に新日本プロレスとの契約を解除したことを発表する。
奇しくも同年5月には、漫画の原作者であり仕掛け人の一人である梶原一騎が講談社の編集者への暴行容疑で逮捕されており、改名が企画されていた中での出来事であった。
これについては様々な憶測が飛び交っているが、本人が最大の不満として口にしたのは、ボスである猪木がサイドビジネスとして投資していたアントン・ハイセルの失敗による負債に対し、猪木が新日本プロレスの運営資金を当てていたことへの告発であった。
この他にも、佐山と新日本プロレスの間には数々の軋轢が積み重なっており、何れにしても終焉は避けられなかったのかも知れない。



初代の主な得意技

独創的な技が多く、歴代のタイガーは勿論、後続のレスラーにも引き継がれた技が多い。


  • キック
前述の様に、当時のプロレスでは珍しかった本格的な打撃練習を積む中で身に付けた技で、キックボクシングや空手流の本格的な蹴り技をプロレスに取り込んだのはタイガーが初めてであった。(当時はムエタイ式等と評されていた)
レガース等が無いので、タイツ姿のままで放っていたが、実はキックレガース自体もU.W.F.時代に佐山が考案した防具だったりする。
格闘色を強めたスタイルとしてパンタロン姿の時もあった。
相手によって、ガチで当てている時と当てフリしている時があったり。
この他にも回転延髄斬りと評されたジャンピング式のスクリューハイキックや、それをフェイントにしての水面蹴り(足払い)等、現在でも使い手が限られる様なアクロバティックで華麗な足技を見せていた。


  • ローリング・ソバット
体を高速で捻るように一回転させて、勢いそのままに真一文字に足裏(踵)を叩き込む蹴り技。
タイガーマスクとしては大きく跳躍しながら相手の顔面(顎先)を狙っていたが、本来はジャンプせずに肝臓を狙っていく技とのことで、飛ばない物は単に“ソバット”と呼ばれることも。
しかし、タイガー式の華麗なジャンピング式は後に多くの模倣を生んだ。


  • バック宙キック
回転地獄蹴りとも評された、相手に背を向けた状態からバック宙しつつの蹴り技で、狙うのが難しいのか手加減なのか、足全体をぶつけていく様な形となることが多かった。
マスク・オブ・タイガー時代からはMOABと称して使用。


  • サマーソルトキック
コーナーに押し込んだ相手に向かってダッシュし、ロープを駆け上りつつ相手を蹴り、勢いそのままに宙返りして着地する。
格闘ゲーム等でお馴染みの技だが、タイガーはこの技名を広めた元祖である。
特にセカンドロープに片足を乗せるスタイルをタイガーマスク式と呼称される。
サルト・モルタルと呼ばれていた見せ技(コーナーを駆け上がっての宙返り)にキックのアクションを加えた技であり、ゲームなんかのイメージで相手の頭部を蹴っていそうなものだが、実際には顎先を狙うのは危険なのか胸元を蹴っていた。
その為、見た目の華麗さに反して実際の威力は無いに等しく、即座に相手が反撃に転じてきた場合にはローリングソバットで迎撃する動きも見せた。


  • ドロップキック
非常に運動能力が高い為に、その場飛びでもかなりの高さが出る上に空中での姿勢が美しく、更に着地もアクロバティックと、プロレス史上に残る使い手として挙げられることも多い。
ミサイルキックも得意で、一跳びでコーナーに飛び乗ってから仕掛けることもあった。
特に、ブレット戦にてブレットがロープに走った隙にコーナーに飛び乗り、返ってきた所にカウンターで顔面に見舞った一撃は“スーパードロップキック”と称され、名場面の一つとなっている。


  • フライング・クロスチョップ
ミル・マスカラスの得意技として知られるジャンプしてのクロスチョップだが、タイガーは直前で飛ぶ代わりに打点が高く、着地までの姿勢が派手なのが特徴で、全盛期には自分のチョップで倒れた相手の、更に向こう側にまで着地してしまうことすらあった。


  • フィンタ・デ・レギレテ
場外にトペで飛ぶと見せかけておいて、トップロープとセカンドロープを掴んで急制動を掛け、ロープの間をクルリと反転してリング内に戻る華麗なフェイント技。
別名タイガー・フェイントキック。
タイガーの場合は、そこからプランチャで跳んだりする。
後に、MIKAMIが上記の動きを利用して本当に相手を蹴る“ミッキーブーメラン”を開発しており、更にそれを又聞きで知ったレイ・ミステリオが“619”と称して使用し、世界的な流行とした。


  • スペース・フライング・タイガードロップ
タイガーのトペ(場外ダイブ)でも最大の大技で、ウルトラマン(メキシコ人)戦で披露された伝説の技。
ロープの反動を利用しつつ、リング内を一直線に横切るロンダートから、体を捻りつつトップロープ越えのプランチャを浴びせていく。
後に、全盛期のザ・グレート・サスケが、ロンダートからリング内を向いた状態で着地し、トップロープ越えのムーンサルトアタックを決めていく、スペース・フライング・タイガードロップの“完全版”とも評されたサスケスペシャル1号を公開。
更に、同時期のサスケは、1号と同じ動きからムーンサルトアタック時に体をクルリと反転させてトペ・コンヒーロを見舞う、同2号を開発している。


  • ラウンディングボディプレス
変形のダイビングボディプレスで、リングに背を向けた状態でコーナーポストに立ち、大きく斜め方向に飛び上がりつつ体を捻るように旋回して、最終的には頭を自らが飛び降りたコーナーに向けた形で相手に着地してフォールを取る。
初代タイガーを代表するフィニッシャーの一つ。
ムーンサルトプレスの原型となった技として知られ、佐山自身も後方回転式(佐山はムーンライトコースターと呼称)を開発していたが、実戦では零戦をイメージして旋回式プレスにしたとのこと。
尚、開発のきっかけとなったのはジャッキー・チェンの映画(『ドラゴンロード』)だったらしい。
練習では、更に高度な飛び技(タイガートルネードスペシャル)までも披露していたのだが、早期の引退もあってか実戦投入はされず、練習を目撃した記者が内容を記事にして伝えたのみの幻の技となり、後輩のライガーこと山田恵一が再現に挑んでいた。
それが、故ハヤブサが初めて実戦投入して世に出し、現在は多くのレスラーにまで広まったフェニックススプラッシュである。


  • ムーンサルト・ニードロップ
ダウンした相手に背を向け、宙返りから両膝をボディに叩き込んでいく。
後に直弟子でもある4代目が引き継いで使用。


  • タイガー・スープレックス(佐山式)
タイガーマスクの代名詞として、後続の亜流を含むタイガーマスク達にも引き継がれていった技の元祖で、背後から相手の両腕を閂に固めてからのスープレックス。
佐山の物は相手の背中に自らの掌を揃えて押し当てるだけの形で腕を固定しているのが特徴で、後述の三沢式の方が素人目には安定していそうなものなのだが、敢えて佐山式を踏襲する拘りを見せる選手も居る。


  • ジャーマン・スープレックス
特に、前述のキッド戦で放った、背伸びをするように相手を捉えたまま縦に伸ばした状態から、背中から二つ折りになったようなブリッジを見せた一撃は最高のジャーマンの一つとしても挙げられる。


  • タイガードライバー(初代)
三沢タイガーの同名の技とは違い、初代のタイガードライバーと呼ばれた技は、所謂フロント・ネック・チャンスリー・ドロップのことで、タイガー・ネック・チャンスリー・ドロップとも呼ばれた。
正面から相手の首を片脇に捉えた状態から、大きく片足を振り子のように振った勢いで相手を後方に投げていく。
後のD.D.T.に近いモーションであり、知ってか知らずか、近年では同様のモーションから脳天を打ち付けていく変形(振り子式)のD.D.T.も開発されている。


  • 風車式バックブリーカー
メキシコで“ケブラドーラ・コンヒーロ”と呼ばれている技で、相手をロープに振って返ってきた所をクルリと一回転させてから自らの立てた膝の上に腰を打ち付けていく。
初代タイガーが日本で初公開して広めた技であり、当時は世界的にも珍しかったのか、イギリス時代にはフィニッシュとしていた様である。


  • ツームストーン・パイルドライバー
それまでは大型選手の御用達であった墓石落としを軽量級に流行させた張本人であり、一撃の威力よりもスピードに拘った使い方をしていた。
キッドとは互いに仕掛け合う展開となり、逆さまになった状態から技を返すお馴染みの展開も生まれた。


  • ダイビング・ヘッドバット
キッドの得意技をパクった技で、上記のツームストーン・パイルドライバーからの連携で放たれたりかわされたりしていた。
空中姿勢が美しく、四肢を広げて更に反らせるフォームが特徴的で、後にライガーや4代目もフォームを模倣して使用している。


  • タイガースピン
スタンド式のヘッドロックを仕掛け、相手を揺さぶった後で自分の方に引き込みつつ、自らはロックを外して高速で2回転以上しながらカニ挟みへと移行して片足を刈り、レッグロックへと繋いでゆく一連の動きのこと。
同時期に新日本プロレスの最強外国人として来日しつつ、日本式のレスリングを学んでいたハルク・ホーガンも、スピードや回転数までは流石に劣るものの度々披露する場面があった。


  • スピニングレッグロック
自分は立った状態から相手の片足を取り自分の足を差し入れ、高速で1回転しつつ膝から着地し、巻き込むようにレッグロックに入る。
ザ・ファンクスの得意としたスピニング・トゥーホールドを、よりスピーディーに座り込む形にアレンジしたような技。
3代目の金本が引き継ぎ、素顔に戻ってからも好んで使用している。


  • チキンウィング・フェイスロック
片腕を相手の顔面に巻き付け、もう片方の腕で相手の肩を極めて腕を絞り上げ、相手の肩口で自分の指と指を絡めてクラッチして締め上げるという拷問技。
これも初代タイガーが流行させた技であり、実用性の高さと威力からU系団体でも好んで使用されていた。
スタンディングからテイクダウンして胴絞め式に移行することもある。
近年では、WWEに進出したASUKAが胴絞め式をアスカロックとして必殺技としていることで有名だが、ASUKAの場合は相手への配慮からかスリーパーの形で使用している。


  • タイガーステップ
メキシコ修行で身につけた、ルチャのステップを元にした初代タイガー独特のステップで、両腕を体の前で振りながら、リング全体を跳ねるように移動する。
派手な動きに見えて、実際にはスピーディーで移動範囲が広い上に、即座に攻撃に転じることも可能と対戦相手にとっては厄介である。


【2代目】

活動期間:1984年8月26日~1990年5月14日

正体は馬場鶴田の後を継ぎ、90年代の全日本プロレスを支える絶対的エースとなった後にプロレスリングNOAHの創始者となった故三沢光晴で、タイガーマスク以外の活動や人となり等は個別項目を参照。

ここでは、2代目タイガーマスクとしての活動に絞って紹介する。

北海道夕張市出身、埼玉県越谷市育ちの三沢は1981年に全日本プロレスに入門。

中学時代にはプロレス入りを誓い、高校時代は鶴田の言葉を胸にレスリングと器械体操に打ち込み、その甲斐もあってか新人時代から非凡さを発揮していた三沢は、1984年春に先輩の越中詩郎と共にメキシコ修行に出されていたのだが、ライバル団体である新日本で圧倒的な人気を誇っていた初代タイガーマスクの引退の報を受けて、今度は全日本プロレスでタイガーマスクを誕生させること*4になり、白羽の矢が立てられたのが修行に出たばかりの三沢であった。

因みに、三沢と同じく越中も候補であったと言われるが、馬場の「コーナーポストに飛び乗れるか」との質問に“出来る”と答えた三沢が選ばれることになった。越中は三沢より足が短いので聞く前に候補から外れたなんて話も。

三沢も初代タイガー(佐山)の活躍を知っている*5ので、その記憶も覚めないままに2代目タイガーマスクになるのは抵抗があったとのことだが、全日本では既にタイガーマスクの試合の予定を組んでしまっており、一介の若手であった三沢には馬場の決定に異議を唱えることが出来るはずもなく、予定を大幅に前倒しして帰国することになった。*6

こうして、タイガーマスクに変身した三沢は当初は佐山と同じくJr.戦線でデビューし、当時ジャパンプロレスに所属して全日本プロレスにも参戦していた初代タイガーのライバルの一人である小林邦昭に勝利する等の売り出しをかけられるが、矢張り三沢の体格ではJr.の枠には収まり切らず、85年10月からはヘビー級に転向することになった。

ヘビー級への転向については体格以上に三沢自身の意向が大きかったとも思われ、確かに三沢は普通の選手よりは飛び技も得意としていたとはいえ、本来の自分の目指しているスタイルとは違う戦いかたを要求されるタイガーマスクであることにストレスを感じていたようである。更には、初代の動きには遠く及ばないことを指摘するファンの厳しい意見も常に付きまとった。

そうした事情を抱えつつも、タイガーマスクである以上は試合で飛ばなければならず、それによっても三沢は膝に余計な負担をかけ続けることになり負傷を繰り返していたが、ついには左膝前十字靭帯断裂の重傷を負ってしまうことになる。
こうして、トップ選手の一人でありながら89年3月から90年1月の長期間にも渡って欠場する羽目になってしまった。

復帰から間もなくの90年3月には新日本プロレスの東京ドーム大会に出場し天龍と組んで、長州、ジョージ高野と対戦。
4月には日米レスリングサミットに出場し、WWF(現WWEの)ブレット・ハートと対戦しているが、これが2代目タイガーマスクとしての最後の目立った活躍となった。

そして、それから間もなく全日本の看板の一人であり、当時のファンからの支持率が最も高かった天龍源一郎がSWSに電撃移籍。
多数の選手も天龍に追随してしまい、全日本の屋台骨が揺らぐ中で三沢は自らマスクを脱ぎ、後輩の川田らと共に、超世代軍を名乗って鶴田やハンセンに挑んでいき、鶴田が病に倒れた後は全日本プロレス四天王の筆頭として、90年代中盤以降の熱狂を牽引していくことになるのであった。
全日本の“救世主”となった三沢と超世代軍の人気は凄まじく、三沢はタイガーマスクの呪縛から早々に逃れることが出来た。

タイガーマスクとして活動していた時期の三沢について、実況を務めていた倉持隆夫アナウンサーは、三沢は“マスクマンはアメリカでは負け役で地位が低い”と思っていたので、本名を呼ばないとまともに取材に答えてくれなかったと述懐している。
目立つ立ち位置なのに前述のストレスもあったのか自己主張を行うこともなく、寡黙な虎戦士と呼ばれていたとも振り返っている。

以上の経緯からタイガーマスクであったことに本人はネガティブな思い出を持っていたのではないかとも想像されるが、タイガー時代に開発した必殺技や飛び技は、決して恵まれた訳ではない体格でありながらヘビー級戦線で戦う三沢の大きな武器となった。
また、ずうっと後の2002年のハロウィンに行われた全選手が一夜限りのマスクマンに変身して開催された大会では“虎にはもう飽きた”としてライオン仮面の“リオン”に変身している。

因みに、この2代目タイガーマスク時代に本人によればデキちゃった婚により夫人と結婚を発表し、その際に正体を公表しつつもマスクマンとしての活動を続けるという変則的な方法を取っている。(それこそ、初代タイガーである佐山も正に同様の事情にあったが、会社の意向で自身の結婚発表を行えなかった。)

97年10月に梶原一騎没後10年を記念して開催された両国国技館大会にて、初代、2代目、3代目、4代目タイガーまでが揃ったスペシャルタッグマッチが実現したことがあるが、この時の2代目は三沢本人ではなく、当時は全日本プレス所属であった後輩の金丸義信が代理を務めている。
この為、カウントはせずに2代目の2代目や単に2代目の代理と呼ばれる。
この時にレフェリーとして試合を裁いていたのはザ・グレート・サスケであったが、歴代タイガー達に肖ってか、何故かサスケまでもが黒い虎マスクを被っていた。


2代目の主な得意技


  • タイガースープレックス(三沢式)
基本的には佐山式と同じなのだが、背後から閂に極めた相手の腕を自らの掌をクラッチすることで絞り上げるようにしてから投げるのが特徴。
全日本では“タイガーは一年に一つずつ新技を開発する”という無理くさいギミックが設定されていたので、佐山式とは“違う”ということからかタイガースープレックス'84と呼称されたこともあったが定着せず、佐山式と区別されずに纏めて“タイガースープレックス”と呼ばれたり、区別するにしても三沢式や新クラッチ式と呼ばれるのみとなっている。
後にはホールドよりも投げっ放し式での使用が多くなっていき必殺技としての説得力は失われたものの、NOAHでの小橋とのGHC王座戦では花道から場外に投げ飛ばす断崖式を見せて度肝を抜いた。


  • タイガースープレックス'85
背後から相手の両脇を通した腕を相手の首に巻き付ける様にしてクラッチし、そのまま背後に投げる変形のスープレックス。
復帰戦となった小林邦昭戦にて初公開された三沢タイガーの正真正銘のオリジナル技なのだが、本来は連続式ジャーマンをこう呼ぼうとして練習していたのを試合中に返されてしまったので、咄嗟の思いつきで繰り出してフィニッシュとしたという経緯がある。
幻の技と化していたが、四天王プロレスも極まってきた時期に数々の危険技を使う小橋戦にて対抗の為か復活解禁。
三沢自身も、その小橋が奥の手としていたスリーパースープレックスと同種の技と解説しており、その後も数える程しか使われていない。


  • タイガードライバー(三沢式)
ヘビー級戦線への参戦を前に開発されたオリジナル技で、素顔になってからも使用された三沢の代名詞の一つ。
正面からリバースフルネルソン(ダブルアームスープレックス)の体勢に捉えた相手を上に持ち上げクラッチを解いて反転させて、自身は尻餅を着きながら背面から落としていくという技で、その体勢のままフォールに入る。
名前こそドライバーだが、実際には流行の兆しを見せていたパワーボムの変形技。(入り方が特徴的なだけで、ようはシットダウン・パワーボムである)
持ち上げるのが大変な印象だが、本人曰く梃子の原理を利用しているので案外と仕掛けやすいとのことで、後には170kgの体格を誇るベイダーをも投げきっている。
タイガー時代から90年代の中頃までは絶対的なフィニッシャーとして君臨していたが、以降は四天王プロレスが過激化するのに伴い、序盤から大技が連発されるようになる中で繋ぎ技や痛め技の扱いとなる中で仕掛けが甘くなっていき、以前はされていた、叩きつけた後に相手の腕に自分の足を乗せてフォールを返し難くするといった工夫もされなくなっていった。
しかし、素顔時代には一発の説得力は失った代わりに、連発式や雪崩式、エプロンからの断崖式といった危険なバリエーションが生まれることになった。
相手を持ち上げた後に相手を回転させずに、自身は両膝をつく形で落としていくタイガードライバー'91は奥の手中の奥の手。
現在、タイガードライバーといえばこの技を指し、初代を元祖とすることが多いタイガー殺法の中では例外的に知名度が高く、キャリア的には接点の無い4代目も好んで使用しており、近年でも敢えて通常の型をフィニッシュとして用いる選手も登場している。
なお似たような技に山川竜司、葛西純が使用するリバースタイガードライバーがあるが、こちらは開脚して相手の顔面を叩きつける技であり、効果としてはフェイスバスターに近い。そもそもリバースとついているのは“正調”タイガードライバーが相手の後頭部、背中を打ち受ける技だからである。


  • ウルトラ・タイガー・ドロップ
トペ・コンヒーロの一種で、2代目タイガーとしては主にコーナートップから放った、正面を向いた状態から前方回転しての背面アタック。
天龍戦ではトップロープに飛び乗ってから場外に仕掛けるという危険なバリエーションを見せたことがある。
素顔時代からはエプロンを走って場外の相手に仕掛けることが多く、此方はトペ・コンのバリエーションとして多くの使い手が居る。


  • ウラカン・ラナ
メキシコ修行で会得した技で、高角度の後方回転エビ固め。
タイガー時代は本来の使い方通りに、自ら飛び付いての丸め込み技として使用していたが、素顔になってからはパワーボム系への返し技として、ウラカン・ラナというよりはフランケンシュタイナーの様な使い方をされ、窮地を抜け出すと共に数々の名場面を生み出した。
体勢によっては、体を横方向に捻ってヘッドシザースに変えることもあった。
川田のパワーボムをこの技で切り返すのは定番の攻防だったが、99年1月の三冠ヘビー級戦にて川田は三沢のウラカン・ラナを強引に堪えてから、そのまま膝をつきながら強引に脳天から突き刺す返し技(垂直落下式/三冠パワーボム)を見せ、予想外の一撃に大ダメージを受けた三沢は追撃の垂直落下式ブレーンバスターを食らって破れることになった。
袂を分かって後に行われた05年の久々の再戦では、傍目にも体調の悪さが窺えながらも、堪えられた所を更に切り返す動きを見せてリベンジを果たしている。


【3代目】

活動期間:1992年3月1日(正式デビューは1993年5月3日)~1994年1月4日

正体は、90年代後半の新日本Jr.戦線の立役者の一人である“アニキ”こと金本浩二。

兵庫県神戸市出身の金本は、学生時代よりプロレスラーに憧れ、大学生活の傍ら栗栖正信トレーニングジムに半年間通い、1990年6月に新日本プロレスに入門。
91年よりメキシコに武者修行に出され、タイガーマスクにそっくりなマスクマン“キング・リー”を名乗って活動。
キックボクシングの経験もあり、キックも得意としていたからか、帰国後の92年3月1日の団体創立20周年を記念した大会にて、一夜限りの復活を予告された3代目タイガーマスクに抜擢される。

この時の姿が非常に好評だったことから、翌93年5月3日の福岡ドーム大会より正式なデビューとなるが、2代目の三沢と同様に、単にキックや飛び技を真似ただけでは初代の四次元ぶりには遠く及ばず否定意見が多くなり、本人もストレスを溜めた末に登場から一年も保たずに94年1月4日の東京ドームにて自ら覆面を脱いだ。

こうして、キャリアの最初期に疵を残してしまった金本だったが、素顔に戻った後はアメリカ遠征を経て心機一転。
若手の有望株として、第二の黄金時代を迎えたと言われていたJr.戦線に参戦し、95年にはIWGPジュニアとUWAジュニアの二冠王となった。
そして、90年代後半に入ると新人の域を脱した大谷晋二郎や高岩竜一を率いて、ライガー、エル・サムライ、ケンドー・カシンのマスクマン組と、当時の新日本ではJr.とヘビーで完全な格差があったにもかかわらず、現場監督の長州の意向もあって、連日メインを食う程の熱戦を繰り広げた。


3代目の主な得意技

タイガーマスクとしては最も短命に終わり、結果的にオリジナルの必殺技と呼べるものは生み出せなかったものの、この時に得たタイガースープレックスとムーンサルトプレスは、金本最大のフィニッシャーとして使用され続けたが、00年代以降は両膝の悪化により、ここ一番のみの奥の手となっている。


  • タイガースープレックス
金本は佐山式を踏襲しているのが特徴。
仲間として組むことが多いながら、強力なライバルの一人であった大谷が投げっ放しや中盤に使われる技と化してしまっていたドラゴンスープレックスの一撃必殺の威力を復活させた中興の祖なら、金本はタイガースープレックスの威力を復活させた中興の祖と云え、ここ一番の試合でも一発で決め技としていた。
また、投げっ放しとする場合でも金本の物は目を背けたくなる程の角度で決まるのが特徴で、決して捨て技とはしなかった。雪崩式も存在する。


  • ムーンサルトプレス
本来、初代タイガーが使用していたのは前述の通り旋回式プレスだったのだが、金本は正後方回転式のムーンサルトプレスを使用。
全盛期の武藤ばりに、かわされた時には両足で着地する機転を見せる等していたものの、こうした動きが余計に膝に負担を掛けることになったことは想像に難くない。
タイガースープレックスと並ぶ決め技だったが、00年代以降は膝の悪化から、アンクルホールドや垂直落下式のファルコンアロー等、膝に負担を掛けずに済む新たな必殺技が開発されるようになり、矢張り奥の手となっていった。


【4代目】


活動期間:1995年7月15日~

本名は非公開。
千葉県浦安市出身。

初代(佐山)以降のタイガーは、2代目(三沢)も3代目(金本)も前述の様に初代の名に肖って、新日本プロレスや全日本プロレスが生み出した存在であったが、現役にして、最も長期間をタイガーマスクとして過ごしている4代目は、初代である佐山の直弟子であり、団体の都合や企画ではなく、師匠の佐山自身にマスクを被ることを薦められたという違いがある。

ファンからの通称は四虎。

元々は佐山の主宰していたスーパータイガージムの門下生であり、ジムでは普通に総合格闘技を習っていたとのことだが、タイガーマスクとなることを受け入れて、20代半ばながらプロレスのトレーニングも積み初めてデビューにまで漕ぎ着けたとのこと。

そうした事情もあってか、最初にプロレスラーとして所属したのも、当時の佐山と交流のあったみちのくプロレスで、代表で初代タイガーに憧れた一人でもあるザ・グレート・サスケを相手にデビューを飾った。

その後は、みちのくプロレスの新エースとして期待をかけられ、96年にはグラン浜田や浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)といったジャパニーズ・ルチャの先駆者達も腰に巻いたUWAミドル級王座決定トーナメントを制して初のタイトル戴冠となるも、97年2月より負傷による長期欠場に入り、タイトルを一度も防衛することなく返上してしまい、復帰してからも暫くは目立った活躍が無かった。

99年に入ると、4月にイギリスで英連邦ジュニアヘビー級王座を獲得。
5月にはWWF入りをして、みちのくプロレスの先輩であるTAKAみちのくとFUNAKIの胸を借りる形でタッグを結成。
7月にはメキシコの大メジャーCMLLに参戦と、20代の最後に多くの経験を積んだ。
帰国後、サスケの先輩でもあるウルティモ・ドラゴンが設立し、一期生が経験を積む為にみちプロに参戦していた闘龍門JAPAN(後のDRAGON GATE)へと参戦している。

そして、02年に入ると暗黒時代のゴタゴタで多数の有力選手が離脱しつつも、代わりに邪道&外道やディック東郷といった、外様の実力者が参加するようになっていた新日本Jr.にみちプロ所属のままで長期参戦。
9月には、タイガーマスクとしても先輩である金本の保持するIWGPジュニアへの初挑戦が叶う等、存在感を増してゆき、12月にみちプロとの任期満了を経て、正式に新日本プロレスへと加入。
約20年ぶりに、正統な佐山タイガーの血統が古巣への帰還を果たすことになった。

翌03年4月に再び金本の保持するIWGPジュニアヘビー級王座に挑戦して初戴冠。
以降、00年代は王座の常連となる等、新日本Jr.のエース格として過ごし、頼りない面を指摘する声も度々挙げられるも、日本国内のみならず、世界の同階級の強者達とも対戦経験を積み重ねた。

また、4代目タイガーの活躍に伴い、新日本のみならずNOAHやZERO1-MAX、メキシコではCMLL、アメリカではROHと、多数の団体で活躍した若手の有望株のロッキー・ロメロが、初代のマーク・ロコのスタイルを踏襲した4代目ブラック・タイガーに変身して抗争を展開したりもした。

当人が40代に入った10年代以降は一線から退いた感もあるものの、他団体参戦や頻度は落ちたが新日本本隊でも活躍する機会はあり、金本すらが新日本から去った後はライガーのパートナーを長らく務めていた。2022年には久しぶりに全日本プロレスに参戦し、元を辿れば同じ派系にあたる佐藤光留から世界ジュニア王座を奪取した。

佐山直系として、体格や技構成でも最も初代に近いタイガー……ではあるのだが、運動能力やプロレスの巧さは初代には遠く及ばず、空気を読めない発言や行動をすることについて、ファンから洒落にならないような批判を集めたこともある。

また、初代以来ベビーフェイス(善玉)であることが基本のタイガーマスクであるが、4代目タイガーは反則攻撃を仕掛けてくるヒール(悪玉)に対しては、それこそ引くようなレベルの制裁を加えることから、原作の『タイガーマスク』に倣ってか“黄色い悪魔”と呼ばれたこともある。

タイガーマスクではあるが当人は大の巨人ファンで、巡業場所が近い時には度々表敬訪問をしている。
プロレス好きで知られる原辰徳監督時代には春季キャンプ訪問が恒例で、専用マスクもプレゼントしている。

AKB48の武藤十夢の父親とは友人で、家族ぐるみの付き合いがあることが明かされている。

初代(佐山)や2代目(三沢)同様にタイガーとして活動中の05年に結婚を発表したが、ここでも正体を公表しないまま現在に至っている。


4代目の主な得意技


  • タイガースープレックス
歴代タイガー同様に得意技。
下記のオリジナルスープレックスに地位を譲っていたこともあったが、最上位のフィニッシャーの一つ。

  • リバース・ダブル・アームバー
現在の主なフィニッシャーで、羽根折り腋固めと和訳される。
うつ伏せの相手の片腕を両足で挟み込み固定した後、もう片方の腕を両腕で引き寄せつつ極める複合関節技。
サンダーもついていない時代のライガーがほんの短期間使用していた鬼殺しや、ペリー・サターンのリング・オブ・サターンと同型。


  • デストロイ・スープレックス・ホールド
オリジナル技の一つで、背後から相手の腕をチキンウィングで絞り、もう片方の腕は相手の腕を股下で通してリストクラッチした状態で捉えてスープレックスで投げ固める。
一時期は絶対的なフィニッシュとして君臨していた。
本人曰く“バックドロップホールドとタイガースープレックスをミックスさせた技”とのこと。
実際の威力はともかく、見た目と名前が凄く格好悪い。


  • ミレニアム・スープレックス
チキンウィング・フェイスロックの体勢に固めた相手を後方に投げ捨てる危険なスープレックス。
タイガー・スープレックスの変形とのこと。


  • タイガードライバー
4代目は佐山式(ネックチャンスリー式)と三沢式(バワーボム式)の両方を使いこなしている。


  • 雪崩式ダブルアーム・スープレックス
コーナー上から非常に大きな弧を描きながら投げていくのが特徴で、格下相手にはフィニッシュにもなる。


【その他のタイガーマスク】


公式には、上記の4代目(ミノワマンも含めると5代目)までのタイガーマスクが登場しているが、公認やパロディ含めて、他にも多数の“虎の覆面”を被ったレスラーが登場している。

原作『タイガーマスク』に登場したキャラクターをモチーフとして、現実でも初代タイガーのライバルとしてデビューを果たしたライバルキャラクター。
中身が強豪レスラーであることが多く、2代目を除くタイガーマスクのライバルとして、此方も代を重ねて登場している。
詳細は個別項目を予定。


  • タイガードリーム
98年3月にアルシオンでデビュー。
正体はキャンディー奥津で、佐山本人のプロデュースで虎のマスクを身に付けた。


  • タイガーエンジェル
00年12月にみちのくプロレス後楽園大会でデビュー。
正体はOzアカデミーに所属していたカルロス天野。


  • タイガースマスク
01年5月にスペル・デルフィンが設立した大阪プロレスにてデビューを果たした、虎の仮面ならぬ“トラ”の仮面を被ったパロディレスラー。
必殺技はタイガー()・スープレックス。
正体は丸山敦で、現在は素顔でも活動している。
奥さんは元美人女子プロレスラーのズ・メビオ・ダ白鳥智香子。


  • タイガーハニー
03年1月アルシオン後楽園ホール大会でデビュー。
正体は非公開なれど、00年代のJWPの絶対的エースであった日向あずみ(久住智子)が正体と思われ、明確に記載されている場合もある。


  • タイガーエンペラー
04年12月にメキシコでデビュー。
プロレスリングNOAH所属。
亜流を含む歴代タイガーでは珍しく、2代目(三沢)の流れを汲むとされる。
正体は三沢の弟子の鈴木鼓太郎と予想されるが、公表はされていない。
公認されたタイガーでは無いものの、タイガー・スープレックス'04(リストクラッチしないデストロイ・スープレックス)と、プロト・タイガードライバー(ロックを外さずにやや鋭角に叩きつける三沢式)というオリジナルホールドを開発している。


  • ザ・タイガー(2代目)
05年6月に佐山の主宰するリアルジャパンプロレスでデビュー。
正体は、大物ながら初代タイガーに強い憧れを持つ一人であるウルティモ・ドラゴン(浅井嘉浩)で、念願叶って究極龍校長は虎のマスクを被れたのだった。*7


  • スーパータイガー(2代目)
07年3月リアルジャパンプロレスでデビュー。
佐山の直弟子で、リングネームの通り、U時代の佐山のスタイルを引き継いでいる。


  • タイガーシャーク
07年6月にリアルジャパンプロレスでデビュー。
名前の通り鮫の要素も持つ異色ながら、佐山の正統な弟子、虎の系譜にもあるという変わり種。
ヒール色が強く、退団後は鮫のみをモチーフとしたザ・ブルーシャークとして活動。


  • グレートタイガー
2013年12月にリアルジャパンプロレスでデビュー。
正体は納谷幸男で、2019年よりDDTプロレスリングに移籍。
父は貴闘力、母方の祖父は今や伝説となった横綱・大鵬という相撲一家の出身で、身長201cm、130kgを誇る巨漢。
実際、三人の弟達は角界へと進んでいる。


  • タイガースマスク2世
2015年11月に大阪プロレスでデビュー。
前述のタイガースの2代目。


  • タイガーマスクW
2016年10月に新日本プロレスでデビュー。
初代タイガーを生んだ『タイガーマスク二世』以来、34年ぶりにTVアニメとして復活した新作『タイガーマスクW』とのタイアップレスラー。
マスクは、正統なタイガーマスクの身に付けてきた覆面チックなものではなく、技術の進歩によりアニメ内の造形に近いマスクとなっていたが、危険性を指摘する声も。
正体はバレバレながら一応は公表されていないものの、長身でありながら高度な飛び技や体型に見合わぬパワーを誇ることから、近年の新日本でも活躍著しい、現代最高の飛び技の使い手の一人である飯◯幸◯であると予想する声もある。
◯伏を以てしても初代の異次元な動きは再現出来なかったが、飛び技については亜種ながら、唯一初代に優るとも劣らないレベルに使いこなしたタイガーと言えるだろう。
アニメ終了と共に姿を消すが、4代目とのタッグも実現している。


【その他】

1971年に、初代『タイガーマスク』が流行していた時期にサムソン轡田が韓国での試合に対してだ人形に肖って虎の模様のマスクで出場したとのことだが、原作者の梶原等の許可を得ていないものであり詳細も不明。
この事例の様に、公式にプロレスラーとしてのタイガーマスクのデビューがしつこいようだが『タイガーマスク二世』の時なので、それ以前の『タイガーマスク』の人気に肖った、非公式なキャラクターというのは登場していたようで、また佐山の離脱後にも新日本がタイガーマスクを彷彿とさせるキャラクターを登場させたりしているが、何れも失敗している。
また、タイガーマスクの登場以降の獣の意匠を持った覆面を被ったマスクマンについても、デザインの共通性からタイガーマスクにインスパイアされたキャラクターと見なす意見もある。


【映像化されたタイガーマスク】


◆真説タイガーマスク

04年に公開された哀川翔主演の映画作品で、哀川はタイガーを追う記者、タイガー役は佐山の後輩でもある船木誠勝が演じており、佐山自身もコーチ役で出演している。


◆FEVERタイガーマスクCM

10年にパチンコ化された『FEVERタイガーマスク』のCMにて、タイガーや漫画、アニメ内の敵レスラー達が実写で登場しているのだが、初代のアニメは日本テレビ系列で放送されていた関係でスポンサーとなっていたことから、CMでは4代目や4代目が所属する新日本プロレスの所属選手ではなく、日テレがスポンサーとなっていたプロレスリングNOAHの所属選手が演じている……と、またもやややこしいことになっている。
タイガー役は奇しくも同じ年に四虎に非がある形で因縁を残した丸藤正道である。


【番外】


  • チビタイガー
99年より一年に一回程のペースで開催されていた、フジテレビの『めちゃ2イケてるッ! 』内の人気コーナー“めちゃ日本女子プロレス”のオチ部分にて登場していた、岡村隆史扮する偽タイガーマスク。
岡村は同企画内で、往年の全日本女子プロレス全盛時代にダンプ松本率いる極悪軍団と結託した悪徳レフェリー阿部四郎を完コピした岡村四郎に扮して前座でめちゃ女正規軍(光浦靖子、他)と旬のグラビアアイドルの試合を裁いているのだが、
第2回以降は極楽とんぼが上記の極悪軍団に扮した極楽軍団と、協力関係にある全日本女子プロレスから現役の女子トップレスラーとの本物の阿部四郎が裁くメインイベントが行われるようになった。
結果はどうあれ、試合後は大混乱となるのがお約束なのだが、その中でメインイベントではチビタイガーとしてセコンドについていた岡村が決着に納得がいかずに突っ掛かり、返り討ちにあって素っ裸にされた後、フル◯ンのままで初代タイガーマスクを彷彿とさせるアクロバティックなムーブを披露するのが定番となっていた。
尚、岡村自身はパンツまで脱がされていることには気付かない体で居るのもお約束で、股間を堂々と晒しながら(TVではアニメ調のタイガーの顔がボカしで入って誤魔化されている)、自慢の運動神経で見事なアクションを決める岡村のプロ根性は必見であった。*8




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最終更新:2024年04月05日 18:06

*1 新日本プロレスに於ける“タイガーマスク”として活動していた期間のみ。

*2 まだ新人の試合ながら、セコンドでコーチ役の山本小鉄は勿論、ボスである猪木やストロング小林、ウィレム・ルスカといった当時の新日本の大物スターがリングサイドから試合を見守っていた。

*3 元々、第一次U.W.F.は、上記の猪木の事業失敗によるクーデターが起きた時に、反猪木の立場に居ながらも、新間が猪木の新しい受け皿として設立した団体であった。

*4 馬場は佐山を相当に買っており、手元に置くことを願っていたそうである。

*5 因みに、初代タイガーマスクが活躍していた頃に全日本では対抗してJr.王者として大仁田厚を売り出しており、全日ファンからは熱い支持を集めていた。……しかし、三沢は後輩であるにもかかわらず、記者の初代タイガーと大仁田が戦えばどっちが勝つ?という質問に対してタイガーが勝つと答えてしまい、臍を曲げた大仁田と険悪な関係になったというエピソードがある。

*6 そして、このことで後輩の三沢に出世が遅れると思った越中は全日本からの離脱を決意したとも言われているが、修行を終えて日本に帰るのを要請したのを断ったので馬場夫妻の不興を買ったとの証言もある。

*7 メキシコでもビッグネームである浅井ことウルティモだが、最初にEMLLから浅井にマスクマンに変身して参戦して欲しいとの依頼が来た際に、浅井自身が変身を希望したのが、ちょうど2代目(三沢)がマスクを脱いだ頃で空席となっていた、憧れのタイガーマスクであった。結局、メキシコでは日本人=東洋的に龍のイメージがあったことからウルティモ・ドラゴンに変身することになった訳だが、希望が通っていれば3代目タイガーマスクは浅井となり、後の闘龍門やドラゲーの名前も違ったものになっていたかもしれない。

*8 2014年の復活では、加齢の為か登場はしたもののアクションの件はカット。阿部四郎も他界した2018年の復活では岡村四郎としてレフェリーに徹し、味方だと思っていたアンドレ・ザ・ジャイアントパンダとAKB48陣営のセコンドについていたディアナの面々に袋叩きに合い、レフェリー負傷により無効試合となった。