セントサイモン(競走馬)

登録日:2022/07/27 Wed 18:45:11
更新日:2024/05/01 Wed 00:12:10NEW!
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セントサイモン(St.Simon)は、19世紀のイギリス製の蒸気機関車イギリス生産・調教のサラブレッド競走馬・種牡馬の姿をした何か

競走馬としては歴史に残る圧倒的な強さと気性の激しさを見せつけ、種牡馬としては現代のサラブレッドに大きな影響を与えた、競馬史を語る上で外すことのできない、間違いなく史上最も偉大な名馬の一頭である。


血統


生産者はハンガリー出身の自由主義者の貴族バッチャーニ・グスターフで、父ガロピン、母セントアンジェラはともに彼の保有馬だった。
父ガロピンはダービーなど11戦して10勝した優秀な馬だったが、当時の主流血統を持たなかった上、気性難で知られるブラックロック、ヴォルテール親子のインブリードを持っていたために人気が出ず、年種付け数は10数頭、それもバッチャーニ氏の所有馬への種付けが中心だった。
なお、後にセントサイモンやガリアードを輩出すると人気が増し、リーディングサイアーを3回獲得している。この父にしてこの息子あり、ということなのだろう。

母セントアンジェラはリーディングサイアーのキングトムを父に持ち、半姉には名繁殖牝馬ラッドストーンがいるかなりの血統ではあったが、現役時代は8戦1勝に終わり、ここまでの繁殖成績もそれほど優秀ではない。

このやや地味な2頭の交配によって誕生したセントサイモンの血統は、気性難で知られるブラックロックがさらに重ねられ、そのうえ当時の主流だったストックウェルやニューミンスターもほとんど含まれない、まさに異端のそれであった。しかしこの主流血統を含まない異端の血統は、のちの種牡馬としての躍進において大きな支えとなる。

いろいろあったよ幼少期

1881年誕生。名前の由来はバッチャーニ氏が傾倒していたフランスの社会主義思想家サン・シモンで、英語読みだとセントサイモンになる。
馬体の見栄えが悪かったためバッチャーニ氏からの評価は低く、クラシックへの登録は2000ギニーステークスしかされていなかった。
さらに、1883年の2000ギニーステークスの直前(30分前)に心臓を患っていたバッチャーニ氏が急死。
2歳戦、クラシックなどの登録はすでに締め切られていた上に、当時の「レース登録者が死亡した場合、そのレースの登録は無効となる」という規定によって、翌年の2000ギニーへの出走は叶わなくなってしまった。

同年7月にバッチャーニ氏の専属調教師だったジョン・ドーソン調教師により、他のバッチャーニ氏の馬とともにセリに出される。
このセリに参加していた第6代ポートランド公爵と、ジョンの弟であるマシュー・ドーソン調教師によって、購入したかったが買えなかったフルメンという馬の隣の馬房にいたセントサイモンは落札された。馬体も血統もあまりよろしくなかったため、1600ギニーというそこそこの安値だったという。
この際、ジョン・ドーソン氏はこの馬の能力を見抜いていたのかセントサイモンを売りたくなかったらしく、白いペンキをセントサイモンの膝に塗って病気のように見せかけた、あえて太らせてさらに見栄えを悪くした…といった逸話が伝わっている。
マシュー・ドーソン氏の厩舎に移った当初は「牛のように鈍重」と言われていたそうだが、徐々に才能の片鱗を見せていくことに。

蹂躙


7月にイギリスの名手、フレッド・アーチャー*1を鞍上にデビュー。6馬身差で勝利を飾る。その翌日には登録だけしていた未勝利戦に出走、60キロのハンデをもろともせず勝利した。

そこから楽勝で2連勝し、当時の期待の星だったデュークオブリッチモンドという馬にマッチレースを挑む。デュークオブリッチモンドのポーター調教師の「あの乞食の首をかき切ってしまえ!」という言葉に対し、ドーソン調教師は「その言葉をそっくりそのままお返ししてやれ!」と檄を飛ばす。
その台詞を感じ取ったかどうかはわからないが、セントサイモンはスタートからわずか2ハロン20馬身の差をつける。アーチャー騎手はそこから最後まで手綱を抑え続ける舐めプを披露し、デュークオブリッチモンドに正確に3分の4馬身差つけ勝利した。
同馬陣営のショックはすさまじかったらしく、哀れデュークオブリッチモンドは去勢されてしまった。

3歳時は先述した事情でクラシック出走ができなかったため、対古馬戦を中心に挑んだ。
手始めに非公式トライアル競争にて、当時イギリスの大レースを勝ちまくっていたトリスタンに挑む。距離不問で他の馬を蹴散らしていたトリスタンはこの時点での英国最強馬であり、さすがのセントサイモンと言えども強敵かに思われた。

で、結果はと言うと…6馬身差楽勝。斤量差を込みにしても完勝と言うほかない。この結果に他陣営は恐れをなし、次走エプソムゴールドカップは単走となった。

アーチャー騎手の調整がうまくいかなかったために鞍上をチャールズ・ウッド騎手に変えて挑む次戦、当時最大級のレースであるアスコットゴールドカップでは、ふたたびトリスタンを始めとする強豪らと対決。
ウッド騎手に道中抑えられて後方待機していたことに不満がたまったのか、残り6ハロン地点でウッド騎手が手綱を緩めると大暴走を開始。2着トリスタンに20馬身という大差とかそういうのをはるかに通り越した勝ち方を見せた…だけでは飽き足らず、余計に1マイル走ってからようやく停止したという。なんで1頭だけ5600m走ってるんですか。

その後のニューカッスル金杯では無謀果敢にも挑んできた一頭の馬を捻りつぶす。年内最後のレースとなったグッドウッドカップでは、前年のセントレジャー馬オシアン、この年のクラシックホースであるダービー馬ハーヴェスターや2000ギニー馬スコットフリーといった強豪がそろったが、案の定全く問題にはならず、20馬身差を決めて勝利した。

翌年も現役続行予定だったが、競馬の神によるバランス調整が入ったのか脚の状態が思わしくなかったため、1戦もせずに引退。
総戦績は非公式戦1戦を含む10戦10勝の無敗。また、非公式のマッチレースもいくつかこなし、こちらも当然無敗であった。
その圧倒的な強さに対し、ドーソン調教師は「私が調教できた、真に偉大と言えるたった一頭の馬」「1ハロンの距離でも、3マイルと同じような調子で疾走していた」と評している。
また、アーチャー騎手は、自分が騎乗した無敗の3冠馬オーモンドと比較しても「間違いなくセントサイモンの方が上だ」と語ったという。
加えて、引退翌年に20世紀までまだ10年以上あるのに競馬関係者へのアンケートによって実施された「19世紀の名馬」というランキングではグラディアトゥール、ウェストオーストラリア、アイソノミーに次ぐ4位となった。

超絶気性難


この馬を語る際、避けては通れないのが気性の問題である。
優秀な競走馬が気性の問題を持つことは決して珍しくないし、そもそもサラブレッドはの中では激しい気性を持つ種である。日本ではシンボリルドルフサンデーサイレンス、近年ではステイゴールドやその産駒であるオルフェーヴルゴールドシップなどが気性難として有名で、様々なエピソードは残されている。
しかし、セントサイモンのそれはそういう領域ではない。彼と比べれば、こいつらは相対的に穏やかに見える、と言っても過言ではないのだ。

厩務員たちに蹴りを入れる、噛みつくなどは日常茶飯事。それも最初から殺意満点であり、厩務員たちは一切隙を見せることが許されなかった。その激しい気性はドーソン氏曰く「電気のようだ」とのこと。レースどころか馬房の中でも常に入れ込んでおり、いつも汗だくだったという*2

毎度毎度(冗談抜きに)半殺しに遭っていた厩務員たちは、本馬と同じく19世紀最強馬と名高いキンチェムの気性が馬房にを放つことで改善されたという話を知り、セントサイモンの馬房に猫を放ってみた。猫と馬は不思議と「馬が合う」のか、ステイゴールドのように、人間に対して気性の荒い部分を見せる馬でも猫に対しては穏やかな例もあるのだ。

さて、結果はというと…

自分に近づいてきた猫を見かけたセントサイモンは即座に口にくわえ、天井に叩きつけて殺してしまった。

ネイティヴダンサー、ノーザンテースト、ステイゴールドなど多くの馬「なっ!何をするだァーーッ!ゆるさんッ!
このあまりの気性の悪さから、何を引き起こすか全く予測できないため、競走中は本気を出すことが一切許されていなかった。伝説的な名手であるアーチャー騎手でもないと、扱うことは困難だっただろう。

さて、そんな彼が一度だけ本気で走ったという有名なエピソードが残されている。
3歳時、この年の後の2冠牝馬とダービー馬を相手としたトライアルレースにて、やる気なさげにしていたセントサイモンに対し、アーチャー騎手は拍車*3を入れた。
が、セントサイモンはこれに激怒し、観戦していたポートランド候曰く「他の馬を狐を前にした鳩のように追い散らしながら」大暴走を開始。アーチャーはしがみつくのが精いっぱいで、やっとの思いで止めることが出来たときには町はずれに到達していたという。

この後、アーチャーは後世に残る有名なコメントを残した。

「私は2度と拍車は使わない。これは馬ではなく煮えたぎる蒸気機関車のようだ!」

このように凄まじい気性の持ち主だったセントサイモンだが、たった一つの弱点があった。
それは。セントサイモンはなぜか蝙蝠傘が苦手で、見ただけで後ずさりしていたほど。厩務員たちはこれを利用し、言うことを聞かせる際にはステッキの先に帽子をかぶせて傘のように見せることで気性を静めていたという。

種牡馬として


大繁栄

ドーソン氏が保有していたヒースファームにて種牡馬入りし、翌年にポートランド公のウェルベックアベースタッドに移った。
初年度から1000ギニー馬セモリナ、オークス・セントレジャーの勝ち馬メモワール、最優秀2歳牝馬シニョリーナらを輩出し、2世代目のデビュー後には1890年早速リーディングサイアーに輝く。
当時のイギリスではマイナーな血統で種付けが行い易かったことも手伝って活躍馬を出しまくり、97年まで7年連続リーディングサイアーを獲得した。

続く3年は父ガロピンや甥オームにリーディングサイアーを譲ったものの、1900年には3冠馬ダイアモンドジュピリーに加え、1000ギニー馬とオークス馬も輩出し、種牡馬として史上唯一の英クラシック同年完全制覇を達成。リーディングサイアーに返り咲くと、翌年も連続で獲得している。
その後はパーシモンやセントフラスキンといった後継種牡馬の活躍もあって、相対的に本馬の価値は低下。リーディングサイアーを獲得することはなかった。
1907年に種牡馬を引退した後も全くの健康体だったというが、翌年の朝の運動中、突然の心臓発作で他界。27歳だった。
しかし、父からリーディングの座を奪い取った後継種牡馬たちはその後も暴れ続け、1912年にはリーディング上位7頭のうち5頭がセントサイモン系種牡馬になるほどに発展。一時期はイギリスの重賞勝ち馬の半分をセントサイモン系が占めたとも言われる。
その大繁栄は、「セントサイモン系でなければサラブレッドではない」という言葉が生まれるほどだった。平家かな?

セントサイモンの悲劇

しかしながら、驕れる馬も久しからず…というわけでもないが、セントサイモン系の繁栄は長くは続かなかった。やっぱり平家だ

英国内でセントサイモン系の種牡馬・繁殖牝馬が短期間で爆発的に増加した結果、セントサイモン系の種牡馬に安定してつけられる繁殖牝馬の数が減少してしまったのである。
セントサイモン系の繁殖牝馬にセントサイモン系種牡馬を種付けをして生まれた仔は、必然的に強いインブリードを持つことになる。インブリードはたしかに能力向上に効果をもたらすとされているが、一方では虚弱さ、受胎率の低さといった弊害を招くことも少なくない。
そのため、セントサイモン系の繁殖牝馬は基本的に他の系統の種牡馬を種付けすることになる。するとセントサイモン系に押され気味だったベンドア、ハンプトンなどの他系統の直系が勢力を盛り返し始め、非セントサイモン系の繁殖牝馬もそちらに流れることが増えてきた。
結果交配がしづらくなり、有力な後継種牡馬が登場しなくなってきたのである。

この状況をさらに悪化させたのが、1909年に制定されたジャージー規則という悪しきルール。
これは「先祖のうち1頭でもジェネラルスタッドブックに掲載されていない馬はサラブレッドとして認めない」というもので、当時ヨーロッパに流入してきたアメリカ産馬に対する逆ギレ生産者保護策であった。
このルールの結果結果、アメリカの大種牡馬だったレキシントンがアメリカ土着牝系の出身だったこともあり、多くのアメリカ馬は所謂サラ系として扱われることとなって、イギリスから締め出されることとなった。
しかし、これは異系統の馬の輸入が大きく減少する、ということでもある。そのため、セントサイモン系種牡馬につけられる繁殖牝馬の選択肢の狭い状態が延々とキープされる事態になってしまった。
さらに当時は現在ほど交通が発達していなかったため、現在ほど馬の輸入がしづらかったことも状況悪化に拍車をかけた。

最終的に、セントサイモンの孫世代ではクラシック27勝だったのが、曾孫世代にはわずか5勝、しかも牡馬クラシックは0勝になるほどに勢力は衰退。1930年代には、英国からセントサイモンの直系はほとんど姿を消すことになった。
この一件は、現代に「セントサイモンの悲劇」という名で語り継がれ、数世代後のことを考えた交配、外部から新しい血を取り入れることの重要性を我々に示している。

現代競馬とセントサイモン

ただし、この衰退は父系に限った話である
セントサイモン系の繁殖牝馬との交配を行ったベンドア、ハンプトンなどの系統の馬は大いに繁栄し、大種牡馬ファラリスやゲインズバラなどを輩出。
彼らから生まれた、直系でなくともセントサイモンのクロスを持つファロス*4、ハイペリオン*5、シックル*6といった馬が種牡馬としても大成し、最終的にこれらの馬すべての血を引くノーザンダンサーは20世紀最大の種牡馬として現代競馬に欠かせない存在になった。
また、ジャージー規則で輸入が制限される中でも、現在ほど盛んではないとはいえ、輸出は問題なく可能だったため、セントサイモンの血を引く馬はフランス、アメリカ、オーストラリア、そして日本などにも輸出され、優秀な血統を広めていく。
結果、世界の主要国のダービーにて、セントサイモンを一切含まない馬が最後に勝ったのは、イギリスでは1922年、アメリカでは1924年、フランスでは1933年。日本に至っては1934年の第1回からすべてのダービー馬がセントサイモンの血を引いている
セントサイモンの血は、世界の競馬を大きく変えたのである。


加えて、父系に関してもイギリス以外では話は変わってくる
フランスに種牡馬として輸出されたラブレーは、周辺にセントサイモン系繁殖牝馬が少ない状況だったため、最大限に種付けを行うことができ、リーディングサイアーを獲得。
その産駒だったアウレザックはイタリアに輸出。イタリアはフランス以上にセントサイモン系の繁殖牝馬が少なかったため、アウレザックはセントサイモンの強いインブリードを持ちながらも種牡馬として大成した。
こうしてフランス、イタリア、アメリカなどに広がったセントサイモンの血統は、イギリスではサラ系扱いされたアメリカ血統とも融合し、イギリスの大レースを荒らしまわることとなる。1948年に主要レースのほぼすべてを外国産馬に勝利される事態になったイギリス競馬界は、翌年ついにジャージー規則を撤廃することになった。
なお、各国に広まった直系子孫にはプリンスローズ、リボー、ボワルセルなどの名種牡馬が生まれたものの、時代の変化には抗えなかったか、現代では衰退の一途をたどっている。
しかし見方を変えれば、サイアーラインを残すことはファミリーラインを残すより難しいと言われる中で、最大勢力だった英国の直系がほぼ消滅した後でも、90年代ごろまでは確かに有力な勢力の一角であり続けた、ということでもあるのだ。

先述の通りその影響力は多大であり、現生するサラブレッドにセントサイモンの血を含まない馬は存在せず、さらに遺伝子プールの10%前後はセントサイモンが占めているという。これは19世紀の馬としては最大級の影響力であり、これを上回る影響力を持つのは、ダーレーアラビアンなどのサラブレッドの始祖や、「サラブレッド」という種を成立させたと言われるエクリプス、ヘロドの他にいない。
いうなれば、セントサイモンは「現代のサラブレッドを作った馬」なのである。

かように、イギリス一国から目を転じてみれば、むしろこれは悲劇でもなんでもない成功劇にすらなる。「血を広げる」ということの意味を思ってしまう歴史である。

ニコニコ大百科「セントサイモン」のページより引用*7


なお、その多大な影響力と先述したサラブレッド史上最悪ともいえる気性の悪さから、「現代の気性難のサラブレッドは全てこいつへの先祖返り」なんて妙に説得力の高い噂も。

日本では

日本初の本格的な種牡馬インタグリオーはセントサイモンの孫にあたる馬で、小岩井牧場が20頭の繁殖牝馬*8とともにイギリスから輸入している。ちなみに、1個の牧場に優秀な繁殖馬を21頭集めるのは当時のイギリスですら珍しかったそうな。
なかでも代表産駒のレッドサイモンは、帝室御賞典を2回制し、日本で初めて外国産馬に勝った内国産馬として歴史に名を残している。また、現在でも一定の勢力を保つ在来牝系の中にもインタグリオーの血は入っている。

戦後に特筆するべきなのは大種牡馬ヒンドスタン。3冠馬シンザンを筆頭に多数の名馬を輩出し、現代においてもサンデーサイレンスディープインパクトキングカメハメハステイゴールドに次ぐ産駒重賞勝利数を誇っている。

代表産駒たち

優秀な成績を上げたもの、子孫が系統を形成したものを中心に挙げる。

ラフレッシュ

英国牝馬3冠馬で、ヴィクトリア女王の生産馬。全姉メモワールはオークスとセントレジャーを勝利している。
ダービーはアクシデントと騎乗ミスで敗戦してしまったが、それ以外は3歳時まで無敵を誇った。4歳時は厩舎が変わった影響かやや低迷したものの、5歳時には巻き返し、妊娠した状態で当時の重要レースに勝利している。
セントサイモン産駒としては気性が穏やかで、かつすぐれた馬体の持ち主だったという。

繁殖牝馬としてはそこそこ止まりだったが、クラシックで好走したジョンオゴーントが種牡馬として名種牡馬スウィンフォードを輩出。その産駒のブランドフォードが種牡馬として大成功をおさめ、血統に確かな足跡を刻んでいる。
さらに牝駒であるバロネスラフレッシュは繁殖牝馬として牝系を伸ばし、その子孫にはかのサンデーサイレンスもいる。

パーシモン

ヴィクトリア女王の後継者たる英国王エドワード7世の持ち馬(但し本馬の現役時代はまだ皇太子)。やや頑固なところがあったが父と違い温厚なところもあり、馬体も雄大かつ端正な素晴らしいものだったとされる。
体調不良で2000ギニーこそ回避したものの、ダービーは同父のライバルのセントフラスキンとの壮絶な叩きあいを制して勝利。次走こそ彼に敗北したものの、この後にセントフラスキンが引退すると本馬を止めるものはおらず、セントレジャーを勝利して2冠達成。その後翌年までに3戦して全勝した。
なお、ダービーの終盤の映像は現代でも残っている。

種牡馬としては4度の英愛リーディングサイアー、3度のリーディングブルードメアサイアーを獲得する大成功。セントサイモン産駒の中では最高の後継種牡馬だったともいわれる。
代表産駒に史上唯一英国5大クラシックのすべてに出走してダービー以外全勝した4冠馬セプター、年度代表馬を2度獲得した名ステイヤーのプリンスパラタインなど。
また、セントフラスキンは種牡馬成績でもライバルとなった。

その後は一時勢力は衰えたが、プリンスパラタインの孫で、ベルギー史上最強馬と名高いプリンスローズが種牡馬として成功。
アメリカの名馬ラウンドテーブルを輩出したほか、サーゲイロード、セクレタリアト、クリスエス、ミルリーフなど名だたる名馬の母父となったプリンスキロを筆頭に、リーディングサイアーを獲得したプリンスビオやプリンスシュヴァリエと言った名馬・名種牡馬を輩出し、現代の血統に大きな影響を与えている。
ただ直系は近年は縮小気味で、最近ではオーストラリアに繁用されていたラブコンカラーズオールが一定の成果を収めたが、主要な牡馬は騙馬となっており後継種牡馬の見込みはまだない。
日本での直系子孫は、「狂気の逃げ馬」カブラヤオー、第2回ジャパンカップで激走したキョウエイプロミス、大逃げでたびたび波乱を巻き起こしたメジロパーマー、など。
なお、日本競馬黎明期を代表する名馬コイワヰはパーシモンの孫にあたる持ち込み馬である。

ダイアモンドジュビリー

史上9頭目の英国3冠馬。パーシモンの全弟。
3冠馬だけあって実力は本物であり、ところどころ重い斤量を課せられながらも素晴らしい実力を見せた。

ただし、気性に関してはそれはもう凶悪
気性の荒い馬が多かったセントサイモン産駒の中でも最悪の気性を持つと言われ、「悪魔の子」、「これ以上に気性の悪い競走馬は地球広しと言えども存在しない」、「ロデオで使ったほうがいい」といった評価をされた。しかもただ激しいわけではなく用心深さとずる賢さのおまけつき。
デビュー戦で観客を蹴ろうとする、騎手を振り落として放馬するなんてのは序の口。牧場に迷い込んだ浮浪者の腕を引きちぎろうとする、脱走して町に逃げ込んだ後集まって道を遮ろうとした男子生徒に突進する、病気になったときでも薬をやることが出来ないので棒の先に薬をつけて噛みつかせた…などなど。
まともに騎乗できる騎手がいなかったため、レースでは比較的気を許していた担当厩務員のジョーンズ氏を乗せて走っていた。その結果、ジョーンズは3冠ジョッキーになった厩務員という世にも珍しい経歴を獲得することになる*9

最初は故郷でもあるエドワード7世の持ち牧場で種牡馬入りしたが、当時のイギリスでのセントサイモン系の飽和によりアルゼンチンに輸出。こちらで4回リーディングサイアーを獲得する成功を収めた。年をとっても気性は据え置きだった模様。
戦前日本の名種牡馬ダイアモンドウェッディングは彼の産駒である。

チョーサー

偉大な馬産家である第17代ダービー伯爵の初期の生産馬。母は英オークス馬カンタベリーピルグリムで、半弟にはブランドフォードがいる。なお母父はセントサイモンの被害者トリスタン。
現役時代は短距離戦を中心に好走、まずまずの成績を挙げた。

種牡馬入り後に本領を発揮。リーディングサイアーこそ獲得できなかったものの、多くの活躍馬を輩出した。特にシリーンスカパフローという2頭の名繁殖牝馬を生み出したことが重要。
前者はハイペリオン、シックル、ファラモンド*10、後者はファロス、フェアウェイという現代競馬に大きな影響を与えた名種牡馬を産み、血統的に多大な影響をもたらしている。

セントサイモンの悲劇の影響をモロに受けながらも生き残った父系からは、牡馬の代表産駒であるプリンスチメイの孫で、伝説的な豪脚でダービーを制したボワルセルが種牡馬として成功。
その孫からは賞金王タルヤー、57年アメリカ黄金世代の一角ギャラントマン、そして「神馬」シンザンと言った名馬が誕生し、「セントサイモン系中興の祖」とも呼ばれた。
ただし70年代ごろを境に衰退の一途をたどり、現代ではギャラントマンの子孫のデーモンウォーロックが残るのみとなっている。

ラブレー

セントサイモンのサイアーラインを残すことに最も貢献した、とも言われる馬。
グッドウッドカップなどを勝利するも、同期に3冠馬ロックサンドがいたことも相まって現役時代は他の大レースを勝つことはできなかった。
引退後に一時ロシアへの売却が検討されたものの、日露戦争の勃発で急遽取りやめに。結局フランスに売却されることになる。

セントサイモンの血統がまだ普及していなかったフランスに降り立ったラブレーは、イギリスで発生していた血の閉塞から逃れ、異端血統として大活躍。
ジャージー規則で半血扱いされながらも英ダービーを勝利したダーバー、凱旋門賞を勝利しリーディングサイアーも獲得したビリビなどの名馬を多数輩出し、3度の仏リーディングサイアーに輝いた。
また、産駒のリアルトからは平地と障害の両方で活躍したワイルドリスクが登場。ヴィミールファビュリューなどを輩出し、現代も強力なスタミナ源として血統の奥底で底力を発揮している。

そして、このサイアーラインを後世につないだ産駒が、イタリアに輸出された産駒のアウレザックである。
セントサイモンの強いインブリードを持っていたこの馬は、ネアルコの母であるノガラなどを輩出、イタリアで実に10回のリーディングサイアーを獲得する大成功。中でも「ドルメロの魔術師」の異名で知られたイタリアの天才馬産家フェデリコ・テシオが生前に「最高の馬」と評したカヴァリエーレダルピーノから始まるサイアーラインは、現代でも史上最強馬の一角に上がるテシオの集大成にして最高傑作、リボーに帰結することになる。
アメリカに送られたリボーは種牡馬としても成功。トムロルフグロースタークといった優秀な馬を多数輩出し、グロースタークの全弟ヒズマジェスティを経由するラインは非主流血統ながら長らく一定の勢力を維持し続けた。
現代では他のセントサイモン直系の例にもれず衰退の一途をたどっているが、欧州では現在も障害用種牡馬として一定の勢力を維持しているらしい。
日本ではダービー馬バンブーアトラス、ジャパンカップを9馬身差で圧勝した晩成の名馬タップダンスシチーなどが主な直系子孫。また、名種牡馬ブライアンズタイムの母父はグロースタークである。

余談

  • 馬体と走り方
体高約16バンド(約163センチ)の大型馬ではあったが、背中が小さく、かなり小柄に見えたようだ。気性に似合わず上品で美しい外見でありつつも、その筋肉量は非常に多く、とてもがっしりした馬だったという
凄まじい弾力性と力を併せ持つ馬体から繰り出される走り方は、ドッグレースに使われるグレイハウンドに似ていたという。

  • 本当の先祖?
セントサイモンは血統書上はエクリプス系の傍流であるキングファーガスの直系出身……ということになっているのだが、近年の研究でヘロド系だった可能性が高いと結論付けられている。ベンドアもタドカスターと入れ替わってたらしいし、昔の管理は割と雑だったのだろうか。
もっとも1世紀以上前の馬であり、いまさら修正されることもないだろう。


追記・修正はセントサイモンを乗りこなせる方がお願いします。


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最終更新:2024年05月01日 00:12

*1 12歳で騎手デビューし、史上初の年間200勝、20歳でのクラシック完全制覇など数々の記録を残し、「カタツムリに乗っても勝てる」とまで言われた伝説的な名手。しかし、減量難や家族の死によって追い詰められ、最終的には自ら命を絶った悲劇の人物でもある

*2 言うなれば四六時中「掛かっている」状態。

*3 カウボーイの靴についているアレ。馬に進行の指示を与えるときに使う

*4 ネアルコの父

*5 イギリスの名馬。80年代ごろまでは主流血統の一角を占めていた

*6 ネイティヴダンサーの曾祖父

*7 https://dic.nicovideo.jp/a/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3

*8 もちろんこちらにもセントサイモンの血が入っているものが多い

*9 のちに正規の騎手として活躍した

*10 トムフールの祖父