シーキングザパール(競走馬)

登録日:2023/08/06 Sun 22:03:51
更新日:2024/03/04 Mon 19:37:32
所要時間:約 16 分で読めます




ユタカの夢、日本の夢 日本初の海外G1ホース

週刊100名馬 No.76 表紙より

シーキングザパール(Seeking the Pearl)とは日本の元競走馬

メディアミックス作品『ウマ娘 プリティーダービー』にも登場しているが、そちらでの扱いは当該項目参照。
シーキングザパール(ウマ娘 プリティーダービー)


目次

【データ】

誕生;1994年4月16日
死亡:2005年6月10日
享年:11歳
父:シーキングザゴールド
母:ページプルーフ
母父:シアトルスルー*1
調教師:森秀行 (栗東)
馬主:植中昌子
生産者:Lazy Lane Stables Inc.
産地:アメリカ合衆国
セリ取引価格:-
獲得賞金:4億7,414万円 (中央)、500,000フラン(フランス)、18,774ドル(アメリカ)
通算成績:19戦8勝 [8-2-3-6]
主な勝鞍:97'NHKマイルC、98'モーリス・ド・ゲスト

【誕生】

1994年4月16日生まれの鹿毛の牝馬。
アメリカ・ヴァージニア州のレイジーレーンステーブルズにて誕生。翌年のセリにて買い手がつかず主取となっていたが、植中昌子氏に18万5000ドルで落札され、所有権が移った*2

サンデーサイレンスの生産牧場としても有名なストーンファームにて4ヶ月ほど預託された後、日本のノーザンファームで育成調教、栗東トレーニングセンターの佐々木晶三厩舎に入厩することに。
父馬の名前から連想で「Seeking the Pearl(真珠探し)」と名づけられた。よく間違われがちだが、「Sea King the Pearl(海の王の真珠)」ではない。*3

【戦歴】

栗東での走りが評判される中、96年の7月に新馬戦にてデビュー。鞍上は後に主戦騎手となる武豊。1番人気に見事応え、2着と7馬身差で勝利する。
ところが、新潟3歳ステークスではスタート直後に大外に逸走、その後追い込みをするも3着に終わる。この後のインタビューにて武が「(逸走したのは)弁当を買いに行きよったんですよ」と語ったのは有名だが、それ以上に怖がりであり、気性に問題があるかもしれないと感じ取ったらしい。
しかし、その後のG2デイリー杯3歳ステークスでは後に天皇賞馬となるメジロブライトを含め圧倒、3歳芝1400mのレコードタイムを更新しての重賞初勝利を飾る。
その勢いのままG1・阪神3歳牝馬ステークスでは「荒れた馬場に嫌気が差したのか」と植中氏のコメントがあったように第4コーナーまで先行していたのを失速し、新潟3歳ステークスにて先着したメジロドーベルにリベンジされ、4着に終わった。
この2敗目によってシーキングザパールは「気性難」のイメージが付いてしまったが、武曰く「普段は暴れないし、噛み付かない、人懐っこいいい馬なのに、乗ったら変身していた」という。
ともあれ、光るレースはしっかりとあり、4戦2勝といい結果を残して3歳シーズンを終える。

4歳からはシンザン記念で勝利した後に植中氏と佐々木厩舎の間でいざこざが起こり、森秀行厩舎へと移されることになる。
これまでの成績や見せてきた能力なら、桜花賞やオークスを春の目標にすることも十分現実的だったが、生憎当時の外国産馬はクラシック路線に出走することが認められていなかった。
そこで陣営側は、前年に新設されたG1のNHKマイルカップへの出走を目標とし、G3フラワーカップ、G2ニュージーランドトロフィー4歳ステークスと重賞を連勝。その勢いのまま本命馬として本番に臨む。
前半35秒0というスローペースの中、シーキングザパールは中位を維持し力を温存、最終直線で一気に先頭に踊り出る。3歳朝日杯ステークス*4王者マイネルマックスらを抑えG1初制覇となる。
夏を休養後、秋華賞を目標としていた陣営はその前哨戦としてローズステークスへ出走。
このレースでのライバルは桜花賞馬キョウエイマーチ。オークス馬となったメジロドーベル、NHKマイルを制したシーキングザパールと並び当時4才牝馬の「三強」の一角として数えられていた馬である。
それでも、シーキングザパールは単勝1.4倍という圧倒的な1番人気に支持された。ところが、直線で延びきれずにキョウエイマーチの逃げ切りを許し、3着に終わってしまった。
実はこの時、喘鳴症、つまり喉鳴りが発生しており、同レース中も残り400mは無呼吸で走っていたと推測された。これには陣営も治療を優先。秋華賞を断念し、手術を行った後全休となった。
驚くべきはそれが出ていたにもかかわらず馬券入りしていたということ。下手をすれば命に関わる症状のためあまり喜ばしくはないが、それでも万全ならば十分に勝利していた可能性はあったのである。やはりこの馬、只者ではない。

7ヶ月という長い休養の後、シーキングザパールは復帰戦としてG3シルクロードステークス(当時は4月開催)に出走。大きな負荷のかからないプール調教が主体だったということもあり、4番人気にとどまる。が、得意の末脚が炸裂しクビ差での勝利となる。
この勝利によってヨーロッパ遠征が決まった。
次に出走したのが高松宮記念(当時5月開催)。距離適性も申し分なく、可能性は十分にあったが、シーキングザパールが苦手とする稍重馬場で伸びきれず、4着。
続く安田記念も記録的な重馬場によって完全にペースを乱されてしまい、同じくヨーロッパ遠征が決まっていたタイキシャトルが勝利した影で10着に終わった。

シーキングザパールとタイキシャトルは偶然にもマイル距離を得意としていたが、陣営は今のままでは同じ距離ではタイキシャトルには勝てないと判断し、シーキングザパールに合う欧州G1はないかと探していた。そんな中で見つけたのが「モーリス・ド・ゲスト賞」である。
日本での知名度が低いこのG1への出走に至ったのにはいくつか理由があり、「森は前年のフランス遠征時に、ドージマムテキ*5をここで走らせようとして調べていたので知っていた。」「当初はジャック・ル・マロワ賞に出る予定だったがそこにタイキシャトルが出走表明をしたため回避した」「それなら1週早いこのG1で初の欧州G1制覇を狙おう」と、森調教師の狙いも含めたものだった。
そして現地調教でも徹底してシーキングザパールに気を使い、日本のウッドチップコースに近い状況のコースがあったニューマーケットのジェフ・ラグ厩舎で調教を行った。
森調教師曰く、「タイキシャトルやエルコンドルパサーのようなダートに強い馬なら距離が近いシャンティーを選んだが、ダートではシーキングザパールには合わない。その上そこまで強くないから完璧に仕上げなくては」とのこと。

そして迎えた「モーリス・ド・ゲスト賞」本番。シーキングザパールは5番人気に支持される。陣営はフランスの雨季での開催に馬場状態を懸念していたが、当日は幸運にも十数年振りの良馬場に恵まれた。
スタート早々に外へと逸れようとしたが武が抑え、内側をキープする。
全体がスローペースだったため、本来差し馬だったが押し出されるような形で今回は逃げ、先行とも取れる先団に位置する格好となった。ジムアンドトニック*6らを抑えたまま残り300mからラストスパート。そのまま見事に逃げ切った。
馬体の状態や適正、タイキシャトルとの対戦の回避、調教に至るまで全てに細心の注意を払ったことによって、シーキングザパールは日本競馬界の悲願である日本調教馬で初の欧州G1制覇を成し遂げた*7
この勝利は地元紙でも大きく取り上げられ、地元紙「ParisTurf(パリチュルフ)」では「ロケット弾、その名はシーキングザパール」、イギリスの「レーシング・ポスト」でも「日本の牝馬、歴史を作る」とその衝撃の大きさを世界に知らしめた。
このとき記録したシーキングザパールのレコードタイム1:14.70は2013年にムーンライトクラウドに破られるまで15年間にわたり保持された。
翌週のジャック・ル・マロワ賞では圧倒的1番人気に推されたタイキシャトルも優勝し、日本調教馬が揃って、しかも2週連続でのG1勝利はフランス中を驚かせ、「日本馬がノルマンディーに歴史的な上陸*8を果たした」という表現で報じた。
タイキシャトルは日本に帰国したが、シーキングザパールはそのまま残り、次走をムーラン・ド・ロンシャン賞に決めた。
しかし、前回とは打って変わって他の海外G1勝利馬が多数出走している、不良馬場、ペースを大きく乱されたなど、「全てが悪条件だった」と武を持ってして言わせたほどに不利が重なり、7頭中5着に終わった。

帰国後はマイルチャンピオンシップに出走。武が騎乗停止だったこともあり、このレースのみ河内洋が騎乗することに。
ところが、先行策が合わなかったのか直線で伸びきらず、タイキシャトルが2着に5馬身差という圧勝を見せ付けた影で8着に終わった。陣営はこのままでは終われないと思ったのか、当時は年末開催だったスプリンターズステークスにも出走することを決めた。このレースを持って引退するタイキシャトルの2番人気になったが、前走での影響も大きく、そのオッズはタイキシャトルが1.3倍、シーキングザパールが10.3倍となった。
今までタイキシャトルと比較されて常に下に見られてきたシーキングザパールだが、何とか一矢報いろうと追込策で勝負、先行していたタイキシャトルをゴール直前でかわした。
しかし、思わぬ伏兵マイネルラヴを捉えることはできず、2着に終わった。
タイキシャトルには勝つことはできたものの、ついぞ勝利をすることはできなかった。相撲に勝って勝負に負けるとはこのことか。
武自身も「力は出し切れたが、まさかもう1頭いるとは」「一番悔しかったレース」と振り返っている。

6歳になると突如としてアメリカ遠征に行くことに。
そこでサンタモニカハンデキャップ*9に出走するも、終始ペースを乱されてしまい4着に。
そのまま帰国し、次に出るのは前年にも出走した高松宮記念。好位置をキープし続け、パールにとって最高の状態でことが運び、最終直線で抜け出す。しかし、それ以上の勢いを持っていたのが98年シルクロードステークスで2着につけたマサラッキ*10。後方から一気にまくってきたマサラッキには及ばず、3頭による2番手争いをクビ差で制するに終わった。
なんとかもう1勝を、と陣営は安田記念にも出走。しかし、パールの得意な後方からまくってくる展開をもってしてもエアジハード、グラスワンダーを捉えることができず3着に入るのが精一杯だった。
この安田記念をもって日本での競争は最後となり、7月に中央競馬の登録を抹消、アメリカ・ニュージャージー州のジェイエフビーステーブルズにトレードされ、アメリカの競走馬として登録することになった。
同州アラン・ゴールドバーグ厩舎に入厩後、G3競走のノーブルダムセルハンデキャップに出走したが、騎手との相性がよくなかったのか1番人気に選ばれたにもかかわらず直線で失速、4着に。
続いてもG3ローレルダッシュステークスでも7着といい成績を残すことができず、このレース後に引退を発表。世界を駆けに駆けたシーキングザパールの旅路はここに終結した。
通算成績は21戦8勝(8-5-5-3)、「牡馬牝馬混合重賞で6勝した牝馬」という(当時の)JRA最多タイ記録を作っての引退となった。
通産獲得賞金は、中央競馬で4億7,414万4000円、フランスで500,000フラン、アメリカで18,774ドルとなった。

【引退後】

引退後は繁殖牝馬入り。ケンタッキー州のクレイボーンファームで繋養された。
初年度に生まれたストームキャット*11との仔シーキングザダイヤは日本の競走馬となり、ダート方面での活躍が目立った。G1勝利こそできなかったが、G1未勝利馬においてのG1競争2着9回は日本競走馬の中で最多である。また重賞5勝もしており、決して弱いわけではないが、「大勝負に弱いシルバーコレクター」という評価も。ちなみに生涯獲得賞金では中央競馬においてはシーキングザパールを超えているほか、日本のストームキャット産駒では最も稼いでいる。また、種牡馬入りもしたので少数ながら現在は産駒が走っている。
その後ダイヴ、シークンファインドとアメリカで活躍する競走馬を生み出していたが、更なる期待がなされていた矢先、繋養されていたレーンズエンドファームの放牧地で亡くなっているのが発見された。11歳だった。
詳しい死因は不明だが関係者によると、馬体の傷や暴れたような痕跡が見当たらず、落雷によるものだと推測されている。

【余談】

調教師・森秀行

シーキングザパールの管理調教師だった森秀行氏は合理的思考で知られる人物であり、その根本には「馬主さんから預かった以上一円でも得をさせて返さなければならない」という思想がある。
これだけなら、矢作芳人調教師*12など類例が存在するのだが、森師はこの合理主義者の中でも徹底しており、その思想は「超合理主義」などと言われるほどに極端なものであった。
この超合理主義は開業直後から発揮されており、病没した師匠の戸山為夫から厩舎を引き継いだ際に「走るかわからない馬は受け入れられない」として、戸山師が管理していた故障療養中の二冠馬・ミホノブルボンの継承を拒否*13
引き継いだ馬も戸山厩舎の主戦騎手、つまり元の同僚を下ろして、自分や馬主が優秀だと考えるフリー(所属厩舎がない)の騎手を乗せる、しかも「馬主に技量の劣る騎手を乗せるとは言えない」「馬主に違う騎手を乗せろと言われたらそれに従う」など徹底して馬主のために立ち回ったのである。
戸山が「自厩舎に来る以上絶対に騎手は自厩舎から乗せる、それが嫌なら預けなくて結構」と公言していたなど、自厩舎の身内やポリシーを最優先するというアプローチを取っていたことも手伝い、前任とは対照的な森の方針を感情的に受け入れられない関係者からは、これらのことを強く非難された。一例として戸山師の夫人から「誰に育てられたと思っているのか」「森が連れてきた馬には文句は言えないが、戸山が連れてきた馬の主戦は変えないでほしかった(大意)」と強く非難を受けている。*14

その他にも「フルゲート割れしそうなGIに重賞未勝利馬を登録してGIの出走金を貰いに行く(1997年ジャパンカップ・スノーエンデバー号*152020年ジャパンカップ・ヨシオ号)」、
「明らかに競走馬として能力不足である未出走馬をゲート割れした重賞に出走させ、出走金を手にした後にすぐ引退させる」*16など、馬主のために賞金や出走金を少しでも多く拾おうと、他の厩舎では中々見ない行動を意図的に取るような人物であった。


このような「当時から現在に至るまで、特に賛否両論の強い調教師の管理馬だった」という点がパールの評価の下敷きに存在するのである。

そして、超合理主義者の森師であるがゆえに、「本来出ようと思ったジャック・ル・マロワにタイキシャトルが来たので、それより前の自分が知っているGI*17に出て、初の欧州GI勝利を狙う」という決断をしたのである。*18
この決断は結果を見れば正しかったのだが、同時に「森がタイキシャトルから逃げた上に、先にマイナーなGI*19を空き巣してタイキシャトルから偉業を奪った」という悪評も立つことになったのである。
そして別口で元からある短距離路線の冷遇も組み合わさった結果、2000年にJRAが行った公式企画"Dream Horses 2000"内のファン投票「20世紀の名馬大投票」において、シーキングザパールが初の欧州GI制覇という偉業を成したのに名馬100選の選外(107位)に漏れるという事態になったのである。
この評価は選評でよしだみほ(馬なり1ハロン劇場の著者)が「なんでパールが漏れたのかわからない、理由が知りたい(大意)」と疑問を呈するほどの結果であった。
また、同時期に行われたJRAの広報誌『優駿(2000年11月号)』の「20世紀のベストホース100」では100頭の中にパールがランクイン*20したのも対照的で、これは競馬関係者を含む数名の選考委員が選定したものだったため、ファン投票で選ばれなかったという構図が鮮明になっている。

この二つの投票結果について、言い方を少し変えると「偉業を成したのに、その経緯や時代背景ゆえにファンの記憶から薄れてしまった」と言っていいだろう。

この馬の運命もまた、森調教師の手腕や価値観を象徴するエピソードである。

【創作作品への登場】

気ままで周りを振り回すわがまま勝ち気女子として登場。
その気性と強さゆえに知らぬ間にライバルとストーカー2つの視線を受け、距離適性の似たキョウエイマーチと張り合い、NHKマイルカップ勝利後には勢い余ってサニーブライアンと入れ替わってダービーに出ようとする程自信に溢れているが、
喘鳴症発症後はお目付役になったドージマムテキからの世話に少し心動かされ「ジイ」と呼ぶようになり、不運にも作品休載によってフランス遠征は行こうとする場面と12巻カラーイラストのタイキシャトルや双方の騎手とのイメージイラストで終了したものの、
タイキシャトルと刹那接点が出来かけるも、最後はアメリカ移籍が決まった際ドージマムテキとの別れに思わずに涙したら即繁殖入りと思いきやの追加レース決定に唖然とした。
なお没後、息子シーキングザダイヤやかつての自分のように逸走した某三冠馬の前に霊として降臨していたり。

アメリカからの帰国子女で「国内に留まる器じゃない」が口癖。
とにかく言動がエキセントリックで、「世界」を意識しすぎたのか明らかに自社他作品のキャラが混ざっている。ついでに声も
だがその裏には慈愛に満ちた思慮深さと文字通り世界レベルの志が隠れており、育成イベントではその夢が題材としてフィーチャーされた他、史実の彼女が辿った道を「運命」と称し感じ取っている節も見受けられるなど、レースでの気性難と裏腹に普段は大人しく聡明であったとされるという要素も組み込まれている……のか?

ゲームにはモーリス・ド・ゲスト賞が行われるドーヴィル競馬場のCGモデルがない、といったメタ的な理由もあり、
自身の育成シナリオでは遠征を諦めて欧州GI初勝利の偉業をタイキシャトルに明け渡し、自身はグッドエンディング「102番目のストーリー」において、遅れて遠征して「二人目の欧州GI制覇」という記録を残したことになっている。
しかしながら、パールが挑戦の中で見せた「世界中の人々に勇気を」という精神はファンの心に残り、後に行われたファン投票企画「歴史に残るウマ娘100」ではレジェンドの居並ぶ中見事に選出されて100選の中にシーキングザパールの名前が残るという、
史実において付き纏った(特に森師に対する)悪評を踏まえ、出来事を裏返して「偉業を捨てる代わりに名声を勝ち取った」ifのような筋書きとなっている。



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最終更新:2024年03月04日 19:37

*1 史上初の無敗アメリカ三冠馬として有名な種牡馬

*2 氏曰く、若馬の中でも非常に落ち着いており、運命的なものを感じたそうな

*3 先述した植中氏の誕生石が真珠であること、さらに母・倫子氏が「馬があなたを探してくれた」と語っていた

*4 現G1朝日杯フューチュリティステークス

*5 森厩舎の短距離馬。シーキングザパールのフランス遠征時には帯同馬を務めた。

*6 後に香港カップ、ドバイデューティフリーなどの海外G1を制する

*7 ちなみにシーキングザパールの陣営はこの夜ホテルで祝勝会をしたのだが、当時のフランスの異常熱波のせいか傷んだ牡蠣にあたってしまい、森調教師・武騎手など大半が腹痛に悩まされたという(なお、シーキングザパールを担当していた富菜勇二厩務員だけ何ともなかったらしい)。

*8 ノルマンディー上陸作戦。第二次世界大戦後期の1944年6月6日、ナチス・ドイツ占領下だったフランス・ノルマンディーに連合国軍が実施した史上最大規模の上陸作戦「ネプチューン作戦」の別名で、ドイツ側にとって想定外の奇襲となったことで予想を大幅に下回る損害で成功し、第二次大戦におけるヨーロッパ戦線の転換点となった。

*9 現サンタモニカステークス、当時はG1

*10 父父ミルリーフ。14戦12勝のイギリスのリーディングサイアーとなった大種牡馬

*11 1999.2000年のアメリカのリーディングサイアーとなった種牡馬。日本にも同馬直系のサラブレットが多く輸入されており、現在では国内競走馬の血統表で名前を見ることも多くなっている。

*12 代表馬にリスグラシュー、ラヴズオンリーユー、マルシュロレーヌ、コントレイル等。厩舎のスローガンの一つ(ちなみにもう一つは「遊びが充実していないと仕事も充実しない」という持論に基づく『よく稼ぎ、よく遊べ』)として「一銭でも多くぶんどる」を掲げ、出走レースは少しでも上位入線が見込まれるものを優先し、他にも賞金が高額な上輸送費やスタッフの渡航費を主催者側が持つ海外の国際招待競走にも積極的に管理馬を出走させている。ちなみに矢作調教師は調教師について、自身の著書で「『中小企業の経営者』と捉えればコストカットは当然」「調教師は『調教師にしかできない仕事(競走馬の仕入れや管理馬の入れ替え・出走レースの選択やローテーションとの馬主の調整など)』に専念すべきで、現場は必要以上に介入はせずスタッフに任せるべき」と語っている。

*13 なおミホノブルボン号はスイープトウショウで有名な鶴留明雄厩舎へ、さらにビリーヴやユウフヨウホウを管理した松元茂樹厩舎に移籍し1年3ヶ月に渡って療養を続けたが、森が危惧した通りで結局復帰はかなわず1994年1月に引退となった。

*14 ただし、戸山調教師は生前に病床で森調教師に「オレの悪い所は真似するな」と言い遺しており、森調教師の方針は戸山調教師の遺言を忠実に守った結果だとする擁護意見もある。

*15 当時のジャパンカップは日本国内で唯一「国際グレード1」に指定されていたレースであり、全重賞が国際グレードとなっている現在からすると想像しづらいが「海外に向けてGIと記録できるレース」という言外の格があった重要レースである。

*16 2018年の弥生賞に出走したヘヴィータンク号のこと。レースでは10頭中10着で、9着の馬に大差をつけられての最下位に終わった。余談ではあるが、この「ヘヴィータンク事件」が契機となり、それまで重賞には存在しなかったタイムオーバーの規定が、未出走馬に限って適用されることとなった。

*17 森は前年のフランス遠征時に、帯同馬のドージマムテキをここで走らせようとして調べていたので知っていた。

*18 森厩舎は海外挑戦に積極的な厩舎ではあるが、その理由は「日本の中央競馬はJRAが用意した賞金の山を分け合っているだけに過ぎないが、海外に行けば別の主催者が用意した賞金の山から新たな取り分を見つけることができる。」という極めてビジネスライクなもの。そのため、仮に快挙自体が評価されなくとも、そこで得た賞金をアピールできれば厩舎の宣伝になるという目論見があった可能性も高い。

*19 フランス競馬短距離界の最高峰レースなのだが、日本ではパールの勝利まで欧州競馬ファン以外には知られていなかった。

*20 ランキング形式での発表ではないため順位は無し。