逸見政孝

登録日:2023/12/28 Thu 16:26:27
更新日:2024/02/21 Wed 10:36:06
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逸見政孝(いつみまさたか)とは、フジテレビ出身のフリーアナウンサーである。
生前は「いっつみぃ」の愛称でも親しまれていた。

【プロフィール】

出身:大阪府
生年月日:1945年2月16日
没日:1993年12月25日

長らくアナウンサーとして活躍していたが、1980年代中期からその軽妙なキャラクターからブレイクしてフリーに転身。以降各局でスリリングな司会ぶりを誇る人気タレントとなった。

【生涯】

出生から高校生まで

父親は銀行員だった。
子供の頃は野球と映画にはハマっており、野球では生涯阪神ファン、映画では黒澤明作品とチャップリン出演作を好んでいたという。
高校進学後は野球部でマネージャーを務め、さらにアナウンス部も掛け持ちしていた。
卒業後の進路は大学進学を希望し、関西学院大学を受験するも不合格。
その際、当時付き合っていた彼女にフラれてしまい、大きな挫折をするも「有名になって彼女を見返してやりたい」と意気込むようになり、アナウンサーになることを決意する。
浪人してほぼ1年間を受験勉強に費やし、前年不合格となった関西学院大学・同志社大学・早稲田大学を受験し全て合格となった。
最終的にアナウンサーになるのが1番有利だという理由で、唯一関東の大学である早稲田大学を選んだ。

大学時代

大阪から上京し、早稲田大学第一文学部演劇科に入学。
アナウンサーへ第一歩を踏み出す為にアナウンス研究会に所属。
高校までは一貫して関西弁で喋っていたが、大学進学を機に東京での生活に順応する為とアナウンサーになる為に、標準語をうまく喋れるように徹底的に訓練した。アクセント辞典を読み込んでマークしたり、テープレコーダーで自分の声を吹き込んで何回も聞き直したりして、うまく喋れるように努力を続けた。その努力の甲斐もあり、日常会話でも関西弁ではなく標準語で難なく話せるようになった。
就職活動ではフジテレビをアナウンサー志望で受験し、面接で完璧な標準語で話し、面接官や当時のフジテレビ社長だった鹿内信隆から出身地を見て「本当に大阪出身なのか」と驚く程で、入社試験に見事合格した。この事から「アクセント辞典を食べた男」とフジテレビ内で語り継がれることになった。

フジテレビ時代

入社後の当初はスポーツ番組の実況やワイドショーのアシスタントとして活動。
スポーツ実況ではボクシングやバレーボールを主に担当し、ボクシング中継ではあまりに気合の入れ様っぷりな絶叫する程の実況をして、ボクサーより先に倒れるのではないのかとも言われた。
1970年には晴恵夫人と結婚し1男1女を出産。
80年代に入るとマイホームを購入した為、ローン返済の為に副業として結婚式の司会を行う様になる。
1984年秋から「FNNスーパータイム」のキャスターに就任。キャスターそのものは前番組から継続だったが、本編内でユーモアあるキャラクターやギャグを披露するなど、それまでお堅いイメージだったニュースキャスターとは思えないほどのひょうきんぶりを発揮し、若い世代からにも人気を集めるようになる。
この頃にはバラエティ番組にも出るようになり、「スーパータイム」の前座番組だった「夕焼けニャンニャン」では最初はエンディングのクロストーク出演だったが、回を追う毎に準レギュラーのような扱いとなり共演者の片岡鶴太郎やとんねるずからも色々とイジられるのがお約束となっており、当時大人気を誇った「オレたちひょうきん族」の人気コーナー『ひょうきん懺悔室』にも出演し見事水を被っている。
このブレイクから雑誌取材や映画出演、著書も出すなど収入が急増し、前述のローンも20年を予定していたのが6年で完済したという。
入社20年目の1987年に管理職に昇進。「スーパータイム」以外でテレビに出る機会が少なくなってしまった一方、生涯アナウンサーとしての思いが強くなり1988年3月をもってフジテレビを退社した。

フリー時代

フリー転身後もは当時担当していた「スーパータイム」を降板予定だったが、共演していた安藤優子から慰留を強く希望したことで、フリー転身後も1年間出演を継続した。
そしてフリー転身後初めて他局で司会を務めることになった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日本テレビ)で、軽快な司会っぷりとレギュラー解答者の山城新伍らとのやり取りが受けて瞬く間に大人気番組となり、全国的な人気を得るようになった。
以降各局で司会者として活躍するようになったが、特に代表的なのが1988年から毎年正月に放送されていた「タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ」である。
BIG3とはお笑いタレントの三大巨頭として知られるタモリビートたけし明石家さんまの3名を示し、個性が強すぎて1人だけでもコントロールの難しいこの3人を相手に、封印していた関西弁でツッコミを入れたり時にはボケに乗っかったりと上手く仕切り、「逸見あってのBIG3」などと呼ばれたこともあった*1
1992年に入ると12億円にも及ぶ豪邸を新築、人気絶頂の中、さらなる飛躍を期待されていたのだが…

癌発覚から

1993年に入り、1月に胸に違和感を覚え病院で検査した所、癌が発覚。逸見夫妻共に、ショックを受けるも医者からは「初期なので手術して取り除けば治ります」と言われて、手術にて胃の大部分を切除。これで安心かと思われたが、医者からは晴恵夫人に「ご主人は初期の癌ではなかった」と告げる。胃から腹膜まで転移していたと告げ、ギリギリまで取り除くも、もう長くは生きられないと告げる。なお医者はこの事を告げたのは晴恵夫人だけで、逸見氏に告げなかった。
当時は「末期的病状」と診断された場合「患者の心に配慮して本人には告知しない」ケースが多かったとはいえ*2これが大きな過ちに繋がることになろうとは…。
その後復帰し、いつも通りに多忙を極めながら、検査入院と抗癌剤治療を定期的に行った。
しかし、医者は逸見氏に癌が進行しているとは告げないままだった。その後手術痕に大きな膨らみができて、医者に言うも「手術後には起こるもので問題ない」と言うだけであった。
晴恵夫人は別の病院で検査するように言われるも、逸見氏は多忙と当時の医者を信用してるという理由で頑なに首を縦に振らなかった。
8月に再び手術するも、癌はさらに広がり、手の施しようもない状態になってた。
9月に入り、晴恵夫人の決死の懇願でようやく別の病院で検査を受けるも癌が再発し、さらに大きく癌細胞が広がっていたことがようやくわかって、ようやく逸見氏は事の重大さを知り、入院して大手術を受けることを決断。
日本テレビ(麹町)本社内で記者会見を行い、世間から様々な反響が生まれた。

闘病生活、そして…

9月7日に入院し、9日後の16日に13時間にも及ぶ大手術を受けた。
大手術を受けた後は歩行訓練などのリハビリを行ったりしていた。
普通食をとれるようになるなど少しづつ経過は良くなっていくように感じた。
しかし手術から1か月過ぎた10月23日に激しい腹痛を起こすなどして容態が急変。
検査で腸閉塞が発覚し、点滴がつけられるなどして、絶対安静の状態になった。
さらに切除した部分に再び癌細胞が発見されるなどして、逸見氏の容態は徐々に悪化していき、もはや手術も不可能で息を引き取るのも時間の問題であった。
12月24日には危篤状態となって、翌日の25日に家族に見守られながら息を引き取った。*3

この大手術には物議を醸し、「末期の状態なのになぜ手術を受けたのか」「手術しなければ、もう少し長く生きられた」などの声も上がり、批判も広がった。一方で、腸閉塞を防ぐためにも手術の必要性があったという声もある。
しかし、いずれにせよもう手術の有無に関わらず手遅れだったのは事実である。

死去後

死去報道は各局で大きく報じられ、人気芸能人が48歳の若さで急逝とあって世間では驚愕の声が上がった。
一部の局では追悼特番も急遽編成されたが、アナウンサーの死去に伴う例は2023年現在も逸見氏以外無く、氏がテレビに与えた影響力の大きさがうかがえる。
一方、明石家さんまは前述の記者会見を見て「この人はもう2度と帰ってこれないだろうな」と、ある種の覚悟のようなものを感じていたと後に語っている。
葬儀には数多くの著名人が集まり、弔辞は業務提携していた三木プロ社長の三木治、早稲田の同期であった松倉悦郎、番組で共演していた山城新伍が読んだ*4

逸見降板後、「スーパータイム」を担当していたキャスター両名は以下のコメントを放送内で発表している。

安藤優子「どれほどの人たちに愛され、そしてどれほどの人たちの心の支えになったことか…、今更説明するまでもないと思います…(号泣)」
露木茂「まぁ我々の(テレビに出る)仕事と言うのは、こうして、亡くなった後も、元気なころの映像が残ってしまう…と言うのが、逆に言えば残酷なのかもしれません」

遺影に使われた写真は、レギュラー出演が予定されていた新番組で使用するはずだった宣伝用のものだった。まさかこれが最期の晴れ姿になるとは当人も含め誰も思っていなかっただろう。

現在でも逸見氏が歴代アナウンサーでNo.1だったという人も少なくなく、この早すぎる死に無念を感じる人も未だに多い。

【人物】

プライベートでは亭主関白な考えを持っており、フジテレビアナウンサー時代は「夫は仕事、妻は家」という昔気質な考えを徹していた。
時間に関してはとても厳しく、ゴルフの場であっても遅れて来た人には口を利かなかったとのこと。また、逆に自分が渋滞で遅刻しそうなときにはタクシーを降りて走ってでも間に合わせようとした。他人だけではなく自分にも厳しい人柄がうかがえるエピソードである。
真面目で温厚なイメージがあるが、仕事に関しては妥協を許さないと徹底している面もあり、スタッフや出演者と口論することも多く、司会を務めていた「素敵にドキュメント」(ABC・テレビ朝日系)でやらせが発覚した時は責任を取る形で降板を表明し、番組自体も打ち切りとなっている。

仕事内容に関しては出来るだけ選ばず、「夕焼けニャンニャン」に出演していた際、片岡鶴太郎から「プロマイドは出さないんですか?」と半ばジョークで質問された時、「オファーがあったら出しますよ」と冗談半分で返したところ本当にオファーが来てしまい、当時前例がなかった為自身や局も驚いたようで受諾すると瞬く間にヒットとなった。
歌はそれほどうまいとは言えなかったが、CDを出したこともあり、日本テレビの「夜も一生けんめい。」では頑張りながら歌って『どこか憎めない音痴』と評されることになった。
アナウンサーとしては珍しく複数のテレビドラマに出演経験があり、『ミラーマン』のような特撮から『パパはニュースキャスター』等の流行作にまで幅広いが、その全てがアナウンサー役だったりする。
アナウンサーとして一番好きな仕事は「インタビュー」と答えている。「タレントの聞き方とアナウンサーの聞き方では同じインタビューでも全く違う」と考えており、「自然体だが鋭く切り込む」スタイルのインタビューを理想としていた。
フジテレビ受験時の面接で「アナウンサーになったら何がやりたいか?」と問われた時、「クイズ番組の司会をやりたいです」と答えた。局アナ時代はその機会はなかったものの、フリー後の『クイズ世界はSHOWbyショーバイ!!』を筆頭に、その後古巣のフジテレビで『世界の常識・非常識!』『平成教育委員会』といったクイズ番組の司会を務めた。

それまでの男性アナウンサーと言えば高橋圭三*5のように進行のスマートさ、あるいは古舘伊知郎のように巧みな実況で名をはせることが目標とされていたが、大阪出身である氏はボケやツッコミを使い、時にはアドリブをかますなどそれまでと異なるスタイルで人気を博し、上述したマルチな活動を含め、以降のアナウンサーの在り方を大きく変えたといってもいいだろう。

健康に関して

健康面では大変気を遣うと考えており、弟が癌で若くして亡くした時からはそれを徹底するようになった。30代半ばで糖尿病を発症した時は食事制限を徹底したり、それまでは1日に2、3箱の煙草を吸う程のヘビースモーカーだったのが即座に禁煙をしている。
毎回健康診断を受けるほど健康面には徹底していたが、発症した癌が最も予後の悪いスキルス胃癌で既に進行している状態で、さらに多忙だと理由などでセカンドオピニオンを拒否したりした結果、末期に近い状態にまで癌が進行し、結果的に癌発覚後に1年足らずで息を引き取る結果になった。

一方、当時は癌=死と言うネガティブイメージが強かったせいか著名人が公表する例は非常に珍しく、会見後はがん検診を受ける患者が急増し、「逸見効果」と呼ばれることとなった。
自らの生命を削ってまで癌を公表した逸見氏の勇気は、人々が癌に向き合う大きなきっかけとなったのは間違いない。

【家族】

父と母の他、弟もいた。弟は1980年にスキルス胃癌で32歳の若さで亡くなっている。皮肉にも自身も弟と同じ癌で13年後にこの世を去る結果になった。

妻は長らく専業主婦であったが、夫がフリー転向後に「オフィスいっつみい」を立ち上げたことで、社長業に就任した。夫の死去後はエッセイストとなり、夫を癌で亡くした経験を踏まえて癌に関するエッセイを出版したり、講演を幾度も行い、夫の死去前に建てた豪邸のローンを返済するなどして生計を支えた。
長男の太郎と長女の愛は海外留学ののち、タレントとして活動している。

1985年8月12日、一家で羽田空港から伊丹空港へ日本航空123便に搭乗し、大阪の実家に帰省する予定だったが、祖母から「飛行機が墜落するかもしれない」と予感のような助言を貰い、急遽新幹線に変更した。その後123便がどのような最期を迎えたかは皆様ご承知の通り。

【交友関係】

ビートたけしとは『平成教育委員会』で共演してから親密な関係になり、逸見氏が癌治療で入院後も家族以外で面会が許可された数少ない1人であった。
後年たけしが愛人のところへ向かう際に起こしたバイク事故後からの復帰会見では逸見氏に触れ、「逸見さんがまだこっちへ来るなと言ってくれた」と語ったほど。
SHOW by ショーバイ!!』で共演した山城新伍とは番組内ではいがみ合いながらもプライベートでは親密であり、同じく共演したジャイアント馬場とも交友を広げ、癌で入院を表明してからは願掛けの意味からそれまで愛飲していた葉巻をやめて、逸見氏の闘病を陰ながら支えていた。
ダウンタウンも同じ関西出身ということで若手時代から面倒を見ており、番組で共演した際は逸見氏に悪態をつけながらも、ここまで世話してくださってありがとうと感謝の言葉を述べていた。
2000年代以降にタレントとしても有名になったメイクアップアーティストのIKKOさんは若かりし日、晩年の逸見のヘアメイクアーティストを務めており*6、今でも逸見家と親交がある。
同じフリーアナウンサーの古舘伊知郎氏とは氏の姉が癌で若くして亡くなったという事で、同じ境遇同士で交流を深めており、逸見氏が亡くなった直後姉の死と同様声が出ないまま涙を流し続けたという。




追記・修正はBIG3を仕切れる人がお願いします。


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最終更新:2024年02月21日 10:36

*1 実際、1991年の放送に際しては逸見本人が「あの三人は私にしか仕切れません」とフジテレビのプロデューサーに訴えたという。

*2 これ以前の例では1987年に他界したTBSディレクター服部晴治(女優大竹しのぶの最初の夫)や1989年に他界した昭和天皇(十二指腸乳頭周囲腫瘍)と手塚治虫(スキルス胃癌)も、周囲の意向から死ぬまで自身が末期癌だという事を知らされる事は無かったと没後語られている。

*3 最期の言葉は朦朧とする意識の中での「三番が正解です…」といううわ言だったとも、息子へ後を託す「太郎、頼む……」だったとも言われている。

*4 本来はビートたけしも読む予定だったが、ショックで声が出せない状態で代わりに山城が担当している。

*5 NHK出身の日本初となるフリーアナウンサー。『日本レコード大賞』や『新春かくし芸大会』等の司会を務めていたことで知られる。

*6 晴恵夫人の回顧録では本名の「豊田」名義で記載されている。