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ふたりは食事を終え事務所を出た。
成歩堂達への置き手紙を書き、鍵もしっかり閉めたのだが、
春美は少し後ろを気にしているようだった。
「留守電にしたけど…良かったんでしょうか?」
つくづく生真面目な娘だな、と糸鋸は思う。
「大丈夫っス。ナルホドくんだって1時間くらいで帰ってくるッス」
むしろ法律事務所に電話をかけて小さな女の子が出る方が、よほど驚くような気がする。

「それに…ハルミちゃんもたまには悪い子になるッス」
いつもそんなじゃ疲れるッスよ、と言うと、春美は「うふふ」とイタズラっぽく笑って、
「お留守番さぼって刑事さんと映画です。今の私、悪い子ですか?」
糸鋸はウム、と頷いた。

もうすぐ春なのだが、3月初旬の風はまだ冷たい。
(それにしても…)
糸鋸は並んで歩くこの子の姿を見て考える。
春美はこんな格好で寒くはないのだろうか?
上着は羽織っているものの、その霊媒師装束はまるでミニスカートのように短かった。
その白く伸びやかな足をさらけ出していて風邪などひきやしまいか、と。
(ん?)
春美が、歩きながらチラリとこっちを見上げてもじもじしている。
(…あ、そうか)
いつになく勘の働いた糸鋸は、
「手、つなぐッスか」
と、左手をポケットからだして春美に差し出した。
「事務所から連れ出して、迷子にさせちゃかなわんスから」
からかうようにそう言うと、春美は、
「私、そんなに子供じゃ…」
と言いつつ素直におずおずと差し出された手を取るあたり、
糸鋸には如何にも可愛らしかった。

こんなふうに手をつないで街を歩くことが、春美には嬉しかった。
(大きい…)
大人の男の手のひらは、なんて大きく暖かいのだろう。
父親の居ない春美には、自分の小さな手を包み込んでくれる糸鋸のそれが、
まるで魔法のように感じられるのだ。
実際、街行く人々の目に、自分たちはどう映っているのだろう?
(私にも、お父さんが居るって)
果たして見てくれるだろうか?

鈍い糸鋸にはそんな春美の思いには気づかなかったし、
気づいたところで独身の彼としては心外だっただろう。
だが、春美の彼に寄せる好意が(彼女のファザー・コンプレクスに基づいているものとはいえ)糸鋸自身の思うよりもはるかに大きなものであることは、
最初に記しておかなければならない。

映画は、この監督作品としては標準的な出来だった。
アクション有り、恋愛有りのありふれたものだが、
忙しい仕事続きだった彼にとって久々の映画だったこともあり、
まず満足の行くものだった。
(欲を言えば、もう少し泣かせて欲しかったッス…)
この男、顔に似合わずメロドラマが好きだった。

「楽しかったですね!刑事さん」
映画館を出てそう話す春美は、ちょっと興奮気味だった。目がキラキラと輝いている。
子供向けのアニメ映画の方が喜ぶかと思っていたので、
こうも喜んでもらえるとは思わなかった。
自分がこのくらいの歳のときは特撮やドラえもんばかり観ていた気がする。
「楽しんでもらえたみたいで何よりッス」
嬉しくなって春美の頭を撫で撫でしてやると、
「そんなに子供じゃ…ないですってば!」
春美は頬をぷぅと膨らませたが、そういうのもまんざらではなさそうだった。

「…?」
ふと、春美が黙った。
「ん?」
糸鋸は急に物言わなくなった春美の小さな顔をいぶかしげに見ていたが、
彼女の目はボンヤリと虚空を見つめている。
「どうしたッスか?怒ったッスか?」
そう尋ねると、春美はハッと我に返り「いや…な、何でもないです」と答える。
「なら、お詫びにそこのケーキでも食べていくッス」
糸鋸が指差した先には、小さいがちょっと洒落たレストランがあった。
「そんな…映画だけでも悪いのに、刑事さん」
春美はそれは申し訳ない、という子供らしからぬ顔をしたが、
「なに、今はそのくらいの給料はもらってるッス。
 それに、そこのレストランには知り合いが居るので、いつか行くつもりだったッス」

少し強引だったが、糸鋸にそう誘われると嫌とは言えない春美だった。
実際決して嫌ではないのだが、この時はなぜか妙な胸騒ぎがして、
好物のケーキと聞いても春美には食欲が湧かないのだ。
(何だろう?)
虫の知らせとでも言うのだろうか。
不安というにも漠然としすぎていて、春美にはその正体がつかめない。
(早く帰らなければならないような気がする…)
ただの嫌な予感とはいえ、霊力の高い彼女にとっては信頼しうる知覚であった。

しかし、その知覚はこうも言っている。
「最早どうにもできない」
「ひとりよりは、誰かのそばに居ろ」
そして、
「受け入れろ」
と。
ハッキリとした言葉でないにせよ、それが一体何を意味する予言なのか…
その時の春美にはまるで分からなかった。

ただひとつ、自分の中を誰かが通り抜けていったような気がした。

「いらっしゃいませぇ!」
店内に入ると、レストランにはそぐわない威勢の良い大声で挨拶が飛んでくる。
「こんちは…相変わらず、元気ッスね」
糸鋸がそう挨拶を返すと、奥から声の主本人も飛ぶようにやってきて、
「ああっ!せ、先輩!お久しぶり……ッス」
背すじをピンと伸ばし、びしっ!と、お盆片手に持ったまま敬礼するメガネのウェイトレス。
そのインパクト溢れる登場に、春美は思わず圧倒されて先ほどの不安など吹き飛んでしまった。

「癖が抜けないみたいッスね。マコくん」
糸鋸はそう言って苦笑いを浮かべた。
まあ、彼女らしいといえば彼女らしい。たくましくやっているようだ。
あの事件からこっち仕事が忙しくてロクに会うことも無かったが、
ひとまずは後輩の元気に一安心する糸鋸だった。
最終更新:2006年12月15日 17:48