漢三国志事典(未完成)内検索 / 「司徒」で検索した結果

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  • 司徒
    ...曰祀、四曰司空、五曰司徒、六曰司寇。七曰賓。八曰師。(『尚書』)  司徒とは、朝廷の職官である。前漢後期より置かれた朝廷の最高官、三公の一人に数えられ、宰相(首相)の職務を、他の二者と三分する。民事を司った。  三公の制定から後漢初期に掛けては、大司馬、大司空に合わせて大司徒と称した。光武帝期の半ばに司徒と改称され、以後その名が定着する。 目次 目次 歴史前漢 後漢 三国 位 職掌 属吏長史 掾属 令史及び御属 属官太僕 廷尉 大鴻臚 司直 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 前漢  成帝綏和元年、周制に法り三公の官を置くが、この時は丞相、大司馬、大司空であり、司徒の名は無かった。  哀帝元壽元年、改めて三公官の分職を正して、大司馬衛将軍を大司馬と為し、丞相を大司徒と為し、御史大夫を大司空と為す。また、司隷校尉を復して司隸と為し、護軍...
  • 張歆
    編集  張歆は、後漢中後期の人物。桓帝の世に司徒となった。 情報 張歆 姓氏 張 諱 歆 字 敬讓 本貫地 河内郡(河南尹?) 官歴 大司農 司徒 罷 子 張延 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 出身 河内郡 官歴 司徒 官歴 大司農 関連項目・人物 「張歆」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 司空
    ...曰祀、四曰司空、五曰司徒、六曰司寇。七曰賓。八曰師。」(『尚書』)  司空とは、朝廷の職官である。前漢後期より置かれた朝廷の最高官、三公の一人に数えられ、宰相(首相)の職務を、他の二者と三分する。土木水事を司った。  また、県や、土木、労役に関わる中都官の下には、同名の官が多数存在した。そのため、三公の同名職を当初は大司空と呼んだ。光武帝期に司空と改称され、以後その名が定着する。 目次 目次 歴史前漢 後漢 三国 職掌 位 属吏長史 掾属 令史及び御屬 属官宗正 大司農 少府 司隷 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 歴史 前漢  成帝綏和元年、周制に法り三公の官を置く。即ち御史大夫の官を罷め、大司空を置いて列侯に封じる。同時に大司馬驃騎将軍を大司馬と為して、将軍官を罷める。両者の秩禄を丞相と同じくする。  哀帝建平二年、大司空を罷め、御史大...
  • 丁宮
    ...刺史 光禄勲 司空 司徒 罷 尚書?  事跡  交州刺史に任じられ、召還を受けて洛陽へ帰還する際、蒼梧郡の督郵の士壱に生真面目な送別を受けた。丁宮は感じ入り、 「もし、刺史(わたし)が、三事にて罪を待つ(分不相応にも三公の地位を占める)ことになれば、きっと(君を)辟すことにしよう」  霊帝末の中平四年(187年)に司空、翌五年(188年)に司徒となった。司徒の在職時に、約束を守って士壱を辟召した。  中平六年(189年)四月に霊帝が崩御し、事変が相続く中の七月に丁宮も司徒を罷めた。  九月、董卓が劉弁を廃立して劉協(献帝)を立て、何太后から政権を剥奪する策を発した。尚書が読み上げたこの策(政令)に群臣が静まり返る中、同じく尚書の「丁宮」なる人物が賛意を表明し、 「「天は漢室に禍し、喪乱は弘(ひろ)く多くなっております。昔、祭仲(春秋鄭の相)は忽(厲公)を廃して...
  • 三公
    ...、元壽二年、丞相を大司徒、御史大夫を大司空とし、大司馬衛将軍を大司馬として、再び三公とした。  平帝元始元年、王莽に安漢公の爵を賜うのに伴い、四輔の政を置いて三公の上位とした。それは太傅、太師、太保、少傅であり、三公は大司馬、司徒、司空であった。王莽は太傅と大司馬を兼務した。  新王朝では太師、太傅、国師、国将の四輔を上公とし、大司馬、大司徒、大司空を三公として、更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍の四将と合わせて十一人を公爵に封じた。  光武帝が中興すると、大司馬、大司徒、大司空を三公とし、建武二十七年には太尉、司徒、司空と改称した。以後、この三者が長く三公として位を占める。  光武帝、続く明帝は尚書を重用して実質の宰相の職責を与え、文吏を登用して法治を重んじたため、周制を汲む三公の影響力は低下した。章帝は太尉と司徒に録尚書事の任を与えて権限を復させようとした。しかし、次の和...
  • 許敬
    編集  許敬は、後漢中期の人物。順帝期に司徒へ昇った。 情報 許敬 姓氏 許 諱 敬 字 鴻卿 本貫地 汝南郡平輿県 家柄 平輿許氏 官歴 光禄勲 司徒 免 爵位 (不詳) 子 許訓 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 平輿県 出身 汝南郡 官歴 諸公 官歴 諸卿 平輿許氏 関連項目・人物 「許敬」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 劉郃
    編集  劉郃は、後漢後期の人物。霊帝期に司徒となるが、七ヶ月ほどで宦官を誅す謀に参加し、秘密が漏れて獄に下され死んだ。 情報 劉郃 姓氏 劉 諱 郃 字 季承 本貫地 河間国 官歴 済陰太守 司隷校尉 大鴻臚 司徒 下獄死 死去 光和二年冬十月甲申の日、宦者誅すことを謀り、事が泄れ、下獄死。 事跡  蔡邕と不仲であった。大鴻臚の頃、陽球の蔡邕への誹謗に、この不仲を利用された。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 官歴 司隷校尉 官歴 太守 官歴 諸公 官歴 諸卿 関連項目・人物 「劉郃」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 袁滂
    編集  袁滂は、後漢後期の人物。霊帝期に司徒となる。その後免じられるが、また執金吾となり、車騎将軍張温の副として北宮伯玉、辺章、韓遂らを討った。 情報 袁滂 姓氏 袁 諱 滂 字 公喜 本貫地 陳国 官歴 光禄勲 司徒 免 執金吾 評 純素寡欲、終に人の短を言わず。(後漢書董卓伝注袁宏漢紀) 事跡  純素寡欲(純朴で欲少ない)で、ついに人の短所を言わなかった、権寵の盛んな時期に当たって、同異(賛否)によって禍いに到った者もいたが、袁滂は一人朝廷において中立を維持し、故に権力闘争の愛憎が及ばなかったという。 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 陳国 官歴 諸公 官歴 諸卿 関連項目・人物 「袁滂」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 李咸
    ...西平県 起家 茂才(司徒胡広による) 官歴 高密県令 大鴻臚(或いは太僕) 太尉 骸骨 事跡  若くして父を亡くしたようで、孤特(孤児として援助もなく)にして自立したという。家は貧しく母は老いていたため、常にみずから田地を耕して母に奉養した。魯詩、春秋公羊伝、三礼を学んだ。三府が並んで辟した。結局は司徒胡広が茂才に推挙し、高密県令に除(任命)された。政は奇異(稀で優れて)が多く、青州はその状を朝廷に表した。  建寧三年、大鴻臚から太尉を拜した(或いは建寧四年、太僕からの昇進ともいう)。相(大臣)の位にあってから、身をひきしめて下を率い、常に脱粟の飯と醬菜のみを食べ、州郡と交通せず、刺史、二千石(郡太守)の牋記(文書)は、公の事でなければ開いて省ることがなかった。老を以って骸骨(退官)を乞い、許しを見て、これまでの賜りものを悉く還して、牛車にぼろの牛車に乗って、息子に御者をさ...
  • 九卿
    編集 章なり。六卿、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。(説文解字) 卿の言為るや、章なり。善を章(あきら)かにし、理を明らかにするなり。(白虎通)  九卿とは、天子に仕える臣。一般に(後漢以降)は秩石中二千石の官のうち九人を言う。 一に曰く、太常] 二に曰く、光禄勲 三に曰く、衛尉 四に曰く、太僕 五に曰く、廷尉 六に曰く、大鴻臚 七に曰く、宗正 八に曰く、大司農 九に曰く、少府 歴史 周()  『尚書』周官や『周礼』は周王の卿を六卿とし、『礼記』王制などは九卿とする。『周礼注疏』は、六卿(冢宰、司徒、宗伯、司馬、司寇、司空)に三孤(三公の補佐。少師、少傅、少保)を加えて九卿と解釈する。 前漢  文帝元年の詔勅には 「もろもろの朕に従いし六人、官みな九卿に至らせよ」  と、官吏中の特定グループとしての「九卿」...
  • 丞相
    ...寿二年(前1年)、大司徒に改名。 新 - 後漢 献帝建安十三年(208年)、三公を廃し、曹操が丞相となる。建安二十五年(220年)、曹操が死去すると曹丕が後を継ぐ。 魏 蜀漢 章武元年(221年)、劉備の皇帝即位に伴い、諸葛亮を丞相とする。死後は置かれず。 孫呉 黄武初(222年頃)、孫邵を丞相とする。 廃帝孫皓宝鼎元年(266年)、陸凱を左丞相、万彧を右丞相とし、左右丞相制を取る。 宝鼎三年(268年)、左御史大夫を司徒、右御史大夫を司空に改称し、建衡三年(271年)には太尉を置くが、丞相も並存維持される。 鳳皇元年(272年)、万彧の死後は置かれず。 天紀元年(279年)、張悌が丞相に任じられるが、翌年晋の侵攻によって敗死し、呉王朝も滅亡する。 西晋 魏の元帝咸熙二年(265年)、晋王国に丞相を置き、魏の司徒何曾を迎える。 泰始元年(265年)、武帝司馬炎が帝位に即く...
  • 种暠
    編集  种暠は、後漢後期の人物。桓帝の世に司徒に昇った。 情報 种暠 姓氏 种 諱 暠 字 景伯 本貫地 河南尹洛陽県 家柄 洛陽种氏 父 种某 幼年評 起家 洛陽門下史 官歴 河南尹主簿 孝廉 辟召(太尉) 高第 侍御史 監太子 益州刺史 免 涼州刺史 漢陽太守 使匈奴中郎将 遼東太守 座事免 賢良方正(司隷校尉・不就) 議郎 南郡太守 尚書 度遼将軍 大司農  終官 司徒 評 これを異とす。(王諶) 素より慷慨、立功・立事を好む。 死去 延熹六年(163年)、司徒在位三年で薨。 享年 六十一 子 种岱 种拂 事跡 孝廉として朝廷へ  和帝の永元十五年(103年)生まれ。  父は定陶県令となり、三千万銭の資産を持っていた。父が卒すと、种暠はその財産を宗族や邑里の貧者に悉く賑卹し、名誉や利益を追求することに熱心な者とは一切交通しなかった。  始め洛陽県の...
  • 陳耽
    ...常 司空 免 太常 司徒 免 死去 中平二年十月、諫議大夫劉陶と共に直言した罪に座して獄に下され死す。 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 東海郡 官歴 諸公 官歴 諸卿 関連項目・人物 「陳耽」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 許訓
    ...汝南郡上計吏 太常 司徒 免 永楽少府 司空 太尉 罷 子 許相 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 平輿県 出身 汝南郡 官歴 諸公 官歴 諸卿 官歴 郡吏 平輿許氏 関連項目・人物 「許訓」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 臧旻
    ...州從事 官歴 辟召(司徒府) 盧奴令 挙尤異 揚州刺史 丹陽太守使匈奴中郎将 議郎 長水校尉 中山太守(時期不詳) 太原太守 評 幹事の才を有し、政(まつりごと)に従って達し、漢の良吏と為る。 子 臧洪 事跡  幹事の才を有し、政(まつりごと)に従って熟達し、漢の良吏となった。  初め、徐州従事に徐任された。  司徒府に辟召され、中山国の盧奴県令に徐任された。  冀州によって治績が最も異(とりわけ優れている)と推挙された。  揚州刺史に遷った。  霊帝の熹平元年(172)十一月、会稽郡人の許生が「越王」を自称し、郡県を寇した。臧旻は丹陽太守陳夤と共にこれを討ち破った。  熹平三年(174)十一月、丹陽太守の陳寅を率い、許生を會稽郡にて大いに破り、これを斬った。  丹陽郡太守に遷った。  この時、辺方(辺境)は警(緊急警戒)を有し、羌、胡が出寇していた。  三...
  • 許相
    ...歴 光禄大夫 司空 司徒 罷 少府 河南尹(司隷校尉とも)  爵位 不詳 死去 中平六年八月辛未の日、反宦官の蜂起をした袁紹らに破れ、諸宦人と共に殺される。 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 平輿県 出身 汝南郡 官歴 司隷校尉 官歴 大夫 官歴 河南尹 官歴 諸公 官歴 諸卿 平輿許氏 関連項目・人物 「許相」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 護軍都尉
    ...に居り、その地位は大司徒司直に比す。  哀帝元壽元年、更名して司寇。  平帝元始元年、更名して護軍。  中興以後は中護軍 位  一人、秩二千石。 職掌  尽く諸将を護す(*1)。 属吏  不詳。 所属項目(タグ) 中尉 二千石 大司馬 尉 職官 護 護軍 都尉 関連項目・人物 「護軍都尉」をタグに含むページは1つもありません。 詳説 編集 -
  • 孔融
    ...するも、皆就かず。 司徒楊賜の府に辟す。掾属 官歴 劾を投じ而して去る 辟召(大将軍何進) 高第 侍御史 辟召(司空) 司空掾 中軍候(北軍中候虎賁中郎将 議郎 北海相 青州刺史 将作大匠 少府 太中大夫 評 死去 建安十三年八月壬子、曹操が太中大夫孔融を殺し、その族を夷(ほろぼ)す。 享年 五十六 追贈 諡号 廟号 号,渾名 死後評 子 女(むすめ)年七歳、男(むすこ)年九際 事跡 年表 所属項目(タグ) 人物 後漢 人物 後漢末 出身 魯侯国 出身 魯王国 官歴 侍御史 官歴 北海相 官歴 北軍中候 官歴 太中大夫 官歴 将作大匠 官歴 少府 官歴 虎賁中郎将 官歴 議郎 官歴 青州刺史 掾属 辟召 高第 魯国孔氏 関連項目・人物 「孔融」をタグに含むページは1つもありません。 編集 -
  • 平輿許氏
    ...最高級の待遇を受けて司徒となった。 許劭の兄の許虔もまた名を知られた人物であり、汝南の人は「平輿の淵に二龍有り」と称えた。平輿県には後代、これらに因んだ「二龍郷」、「月旦里」が存在したという。 所属項目(タグ) 出身 平輿県 出身 汝南郡 関連項目・人物 許訓 許相 許敬 許劭 編集 -
  • 前漢職官一覧
    ... 大司徒 大司馬 大司空 州牧 州刺史 郡太守 丞長史 (長史は辺郡にのみ) 郡都尉 丞 県令 (至六百石。大県の長) 県丞(至二百石) 県長 (至三百石。小県の長) 県尉(至二百石) 万石 中二千石 二千石 比二千石 千石 比千石 八百石 比八百石 六百石 比六百石 五百石 比五百石 四百石 比四百石 三百石 比三百石 二百石 比二百石

  • 編集 章なり。六卿、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。(説文解字) 卿の言為るや、章なり。善を章(あきら)かにし、理を明らかにするなり。(白虎通)  卿とは、天子及び諸侯に仕える臣。公・卿・大夫・士の序列の第二位の身分とされる。  周王の制度では、最高位にある公(三公)は政事の実務を執らないと説かれ、諸侯は「公」の身分自体を持たないので、卿が属官を持って執務を司る大臣に相当した。  六卿、九卿等とも称されるが、秦以降の「卿」は必ずしも特定の六人、九人のみを示す称号ではなく、高位の職官・爵位グループを示す総称となった。漢代以降の秩石にして中二千石に相当する。 周(経書における)  『尚書』周官や『周礼』は周王の卿を六卿とし、『礼記』王制などは九卿とする。『周礼注疏』は、六卿(冢宰、司徒、宗伯、司馬、司寇、司空)に三孤(三公の補佐。...
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    ... 丞相 太尉 太尉 司徒 司空 驃騎・車騎・衛将軍 前漢前後左右将軍 中二千石 御史大夫(前漢のみ) 魏晋四征・四鎮将軍 二品 諸卿・九卿 太常 光禄勲 衛尉 太僕 廷尉 大鴻臚 宗正 大司農 少府 執金吾 太子太傅 太后卿 河南尹 京兆尹 三品 二千石 太子太傅 詹事 典属国 水衡都尉・内史・主爵中尉・護軍都尉(前漢のみ) 将作大匠(3) 大長秋(3) 太子少傅 州牧 後漢諸将軍 諸郡太守(5) 比二千石 侍中 散騎常侍 中常侍 光祿大夫 司隸校尉中領軍 中護軍(以上三品) 中郎将 校尉 都尉 五営校尉 城門校尉(以上四品) 虎賁中郎將(5) 千石 中書監(3) 中書令(3) 尚書令(3) 尚書(5) 御史中丞(4) 太中大夫(7) 魏晋六百石県令 六百石 北軍中候(5) 諸部署令 諫議大夫(7) 後漢州刺史[[ 州[[...
  • 衛茲
    ...騎将軍何苗が辟召し、司徒の楊彪再び旌命(表彰。公は名声高い人物の美徳を表彰して自分の府に召し出した)を加えたが応じなかった。  董卓が乱をなし、漢室が傾き動揺すると、曹操は兵を挙げて陳留郡に到り、初めて衛茲と出会った。衛茲は曹操を見て、 「天下を平らかとするのは、必ずやこの人だ」  と言い、曹操もまた衛茲を異とししばしば衛茲を訪問して大事を議し、盟を結んで、武事を興すことと共に計画した。  衛茲は曰く、 「乱が生まれて久しく、兵に非ずしてはこれが整(秩序回復)されることは無いでしょう。兵の興るのは、今より始めとなります」  深く興廃を見て、曹操の遠大な謀(はかりごと)の最初の賛同者となった。  兵三千人を合わせて、曹操に従って滎陽県に入り、董卓の派遣した徐栄の軍と汴水で戦った。  終日力戦したが曹操の軍は敗れ、衛茲は戦死した。  曹操は河南尹と陳...
  • 太尉
    ...・大疑が有れば、則ち司徒、司空と通じ而してこれを論ず。国に過ちの事有れば、則ち二公と通じこれを諫争す。 概説  太尉は秦官である。その原形は戦国秦の国師とされ、白起や尉繚が任じられている。  秦は統一後に丞相・御史大夫らと共に太尉を置いた。  漢が興ると諸々の秦制を倣い、太尉もまた置かれた。軍事の最高大臣であったが、漢初においては、有事にあって自ら出征し、事が終われば免じられる場合もある、軍政と軍令が未分化の戦国の遺風を色濃く残すものであった。また、盧綰・周勃・灌嬰・周亜夫・田蚡といった有力者が不在の場合は空席のままに置かれる職でもあった。  武帝建元二年(前139年)、正式に省かれ、その職掌は丞相に一本化された。以後、代わって大司馬が高位の将軍号に冠して置かれる時代が続いたが、大司馬は国家の軍事を統括せず、太尉と異なる存在であった。  成帝綏和元年(前8年)、三公...
  • 魏 高皇帝 曹騰
    ...していた。种暠は後に司徒と為り、人に語って曰く「今日公に為れたのは、曹常侍の恩である」と。曹騰の行事は皆この類であった。  桓帝が即位すると、定策の功を挙げた七人を亭侯に封じた。曹騰は先帝の旧臣としての忠孝の彰著もあり、費亭侯に封じられ大長秋と為り位特進を加えた。  曹騰は省闥(省中・闥門内)に在ること三十余年、歴代四帝に仕えて嘗て過ちはなく、賢能を昇進栄達させるのを好み、彼等を毀傷することが無かった。曹騰が賞賛し推薦したのは、陳留郡の虞放・辺韶、南陽郡の延固・張温、弘農郡の張奐、潁川郡の堂谿典らのような人材で、彼等は皆位公卿に至り、曹騰自身は善(功績)を伐(誇)らなかったという。  順帝により宦官が養子を取ることが認められており、代々の通家であった譙県夏侯氏から嵩を養子に取って費亭侯を継がせた。  魏の明帝太和三年、追尊して曰く高皇帝。 年表 所属項目(...

  • ...以ってするは、司馬・司徒・司寇・司空・司城である。 字を以ってするは、伯・仲・叔・季である。 居を以ってするは、城・郭・園・池である。 事を以ってするは、巫・卜・陶・匠である。 職を以ってするは、三烏・五鹿・青牛・白馬である。 『春秋左氏伝』隠公八年が、 これ(諸侯)に土を胙(むく)い、而してこれに氏を命ず。  とするように、氏は姓と同じく天子に賜るものとされたが、『史記』注「世本」が、 姓を言うに、則ち上に在り、氏を言うに、則ち下に在り。  といい、段玉裁が氏を「分別」と解釈したように、姓が生(ゝ)来不変の先天の性質を示すものであるのに対して、氏は出生後に分岐した後天の性質を表すものであった。しかし、命名の基準がまったく異なる二者であるから、「同姓異氏」が存在したと同時に、「異姓同氏」も生まれた。後天の氏が同じであっても、姓が異なれば同...
  • 郗慮
    ...年)、春正月、曹操が司徒の趙温を選挙不実のかどで奏した。郗慮が持節して策を奉り、使わされて趙音を免官した。その後、漢朝廷では三公制が廃止され、丞相・御史大夫の制度に回帰することになった。  同年八月丁未(24日)、御史大夫に任じられた。  その頃、曹操は孔融への嫌忌を積もらせており、再び郗慮に孔融の罪を作らせた。郗慮は丞相軍謀祭酒の路粹に罪状を枉げて上奏させ、孔融を大逆不道の罪に落とした。  同年同月壬子(29日)、獄に下された孔融は棄市となり、その族は夷ぼされた。  十八年(213年)五月、献帝より持節として使わされ、丞相曹操を魏公に為す策命を伝えた。  十九年(214年)十一月、漢皇后の伏氏(献帝伏皇后)を廃する持節の使者となった。華歆がその副となった。  華歆に宮中から牽き出された伏皇后は、髪を下ろしたまま裸足で献帝に泣きつき、 「生かしていただくわけに...

  • ... 司徒 三公 編集 -
  • 大夫
    ...た『周礼』は、冢宰、司徒、宗伯、司馬、司寇の官それぞれ一人の卿を置き、その下に卿を補佐する中大夫、属官として下大夫を置く。この場合でも卿は上大夫に当たるだろう。つまり周王は上、中、下の三等の大夫を置いたことになる。 爵制の中の大夫 二十等爵  秦は列侯から庶民に至るまでの独特の二十等爵制を敷き、軍功に基づいて将兵に爵を賜い、その爵称を以って軍を率いさせた。その中には大夫、官大夫、公大夫、五大夫の爵称が見られ、この大夫(第五級)から五大夫(第九級)までが、古来の大夫の身分に相当するものとされた。  実際に軍を率いた記録としては、 五大夫の陵が趙の邯鄲を攻め……(秦本紀) 項梁は沛公の卒五千人、五大夫将十人を益し……(高祖本紀)  などがある。  漢代に至ると二十等爵は軍の統率とは切り離されるが、軍功や皇帝を補佐して特段の功績がある者に賜られた。また、皇...
  • 相国
    ...歆が就いていた相国は司徒と改称し三公の一人となる。 燕王公孫淵には相国が存在した。 元帝の景元四年(263年)、高都公大将軍の司馬昭が晋公・相国となる。 咸熙二年(265年)、司馬昭の薨去に伴い、晋王太子の司馬炎が相国と晋王位を嗣ぐ。 蜀漢 - 孫呉 - 西晋 惠帝永康元年(300年)賈后を廃した趙王司馬倫が自ら相国・都督中外諸軍となり、宣文が魏を輔けた故事の如くした。 愍帝建興三年(315年)、左丞相・琅邪王司馬睿を進めて大都督督中外諸軍事とし、右丞相・南陽王司馬保を相国とした。 目次 目次 位 職掌 概説王国の相として 属吏晋公司馬昭の属吏 趙王司馬倫 所属項目(タグ) 関連項目・人物 詳説 位  一人、秩石万石、金印綠綬。  魏晋以降は品秩第一品。 職掌  万機を掌る。 概説  史記斉太公世家は、早くも景公の時代(春秋中...
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