章なり。六卿、天官冢宰、地官司徒、春官宗伯、夏官司馬、秋官司寇、冬官司空。(説文解字
卿の言為るや、章なり。善を(あきら)かにし、理を明らかにするなり。(白虎通

 九卿とは、天子に仕える臣。一般に(後漢以降)は秩石中二千石の官のうち九人を言う。



歴史

周()

 『尚書』周官や『周礼』は周王の卿を六卿とし、『礼記』王制などは九卿とする。『周礼注疏』は、六卿(冢宰司徒宗伯司馬司寇司空)に三孤(三公の補佐。少師少傅少保)を加えて九卿と解釈する。


前漢

 文帝元年の詔勅には
「もろもろの朕に従いし六人、官みな九卿に至らせよ」
 と、官吏中の特定グループとしての「九卿」の名称が既に見られる。しかし、「主爵都尉と為り、九卿に列す(汲黯伝)」、「九卿に至り、右内史と為る(鄭當時伝)」に見られるように、前漢での「九卿」は必ずしも「九人の卿」を指すものではなく、秩石中二千石の位階を示す総称だった。


 始建国元年、王莽は漢哀帝の禅譲を受けて新を建てると、諸々の官制を改革し、
大司馬司允大司徒司直大司空司若を置き、 皆孤卿に位す。大司農を更名し曰く羲和、後に更めて納言と為し、大理(故の廷尉)を曰く作士太常を曰く秩宗大鴻臚を曰く典楽少府を曰く共工水衡都尉を曰く予虞、三公司卿とともに凡そ九卿、分けて三公に属す。
 ここに、史書に確認される初めての「九人の卿」としての九卿が確立する。三人の孤卿(司卿)と六人の卿を合わせて九卿とする形は『尚書』周官に基づくものであり、納言作士秩宗典楽共工予虞(舜典では朕虞)といった官名は同じく『尚書』虞書舜典に基づくものであった。これは、王莽が舜帝を祖と見做し、漢新交替を虞舜の禅譲に擬えたからである。
 ここでは、衛尉光禄勲太僕は九卿に入らず、宗正は秩宗に併合されている。


後漢

 中興して建武元年、光武帝は諸侯王と官吏の印綬を再制定する。

「……諸侯王に金璽綟綬金印紫綬九卿執金吾河南尹は秩皆中二千石。大長秋将作大匠度遼・諸将軍、郡太守国傅相みな秩二千石。校尉中郎将諸郡都尉諸国行相中尉内史中護軍司直、秩皆(比)二千石。以上皆銀印青綬。……」

 と、秩石中二千石の中でも皇帝に仕える九人の卿(太常]、光禄勲衛尉太僕廷尉大鴻臚宗正大司農少府)のみが九卿として確立し、執金吾・河南尹が「卿」と称されることはなくなる*1
 後漢の官制を述べる『百官志』もまた、上記九官のみをと称しており、この九卿の制度が以後長く続くことになる。


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関連項目・人物


参照

楯身智志氏『秦・漢代の「卿」--二十等爵制の變遷と官吏登用制度の展開』東方学(116)
吉野賢一氏『前漢末における三公制の形成について』九州大学東洋史論集 (33)



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最終更新:2015年02月23日 01:46

*1 秩二千石の大長秋に対して、応劭・張晏らは「皇后の卿」と解釈する。